第五章 ④
「昨夜――つまり、要さんが意識を失って一日後の深夜、望島を中心に大規模な虚虜災害が発生しました」
突如として一片から告げられたその言葉に、要は息を呑んだ。しばらく反応することが出来ず、ただその事実のみを頭の中で整理する。
望島を中心とした大規模な特殊災害。それはまるで六年前の再現のようだ。
六年前にも同様に、深夜に大規模な特殊災害が発生した。大量の虚虜が望島を発端に人の多い都心部へ向かって侵攻を開始した。望島の上部を流れる高速道路から、あるいは地上から、あるいは地下から、移動経路も様々に大量の虚虜による襲撃が行われ、対応が後手に回った政府は、首都防衛にのみに注力し、結果として周辺地域の防衛配備が手薄になったために多くの被害者を生み出した。
レイロンは、その最たる例だろう。災害時も、それから災害後も含めて、見捨てられた土地。望島大規模特殊災害の傷跡こそ、レイロンそのものである。
それと同じものが、また発生した。
要の記憶では、つい先ほど、レイロンを訪れたばかりである。その異様な被害の痕を目の当たりにしている。知識としてだけでなく、現実の実感としてその脅威を推し量れてしまう以上、一片の言葉は重たく胸に圧し掛かった。
「虚虜が大群で侵攻を開始した理由や目的は常のとおり不明。ですが、過去との相似点やレイロンで私たちが見た人型虚虜の存在を鑑み、神島はこれを六年前と同様、人型虚虜アセナの起こしたものであると結論付けました」
神島――古来より虚虜災害に対抗してきた一族として政府の特別顧問を担う者たち。その一族の一人である一片の意見が多分に反映されたのは、推測するまでも無いだろう。彼女とその仲間、白滝や紫咲が経験した事実を思えば、確かにその結論が妥当なように思える。要には人型虚虜アセナとの交戦の記憶は無いが、必から聞いた記憶を考えれば、間違いないだろう。
疑問は、何故、アセナがそんなことをしたのか。そして一片が言うには、それは六年前と同じであるということ。
要の疑問は、センリの言葉によって補足された。
「六年前に発生した望島特災の発端は、今回と同じくアセナよ。あたしも一片も、それを直接経験した一人。だから、公にはされていないその事実を知っている」
センリの声は、少しだけ震えていた。彼女にとって、それがどれほどの辛い記憶であるかを想起させられる。
「センリさんの言うとおり、私たち、そしてかつての私の虚子――陽彩は、あの特災の中で出会い、力を合わせ、アセナと戦いました。結果は……ごらんのとおり、私は歩く力を失い、それでも何とかアセナを撃退することには成功しました」
次々と告げられる驚愕の事実に、要の整理が追いつかなくなってくる。
六年前といえば、一片は何歳だ。少なくとも十を過ぎたばかりくらいだろう。そんな年齢で人型虚虜と交戦した。信じられない話だ。それも撃退に成功した、というのは驚嘆に値する。
過去の人型虚虜の交戦経験を思い返す。その圧倒的な脅威は、なるほど、文献で伝承される国一つを滅ぼし得るという文言に相違なく、十歳の少女が初めて虚子と同調して抗し得るとは思えなかった。
それに一片は、私の虚子、と説明した。陽彩というそうだが、その少女は六年前に失われてしまったのだろうか。
「もうみんなには伝えてしまったから教えるわ。約束だしね。周防くん、陽彩というのは、あんたが捜していた女の子――SS001よ」
「…………ッ!」
「どうやら、あんたは、あの子が虚子から人に戻る手がかりだと思って捜していたみたいだけど」
その通りだ。要は、SS001を虚子が人に戻る方法――必を人に戻す手掛かりになると考え、捜していた。そしてようやく、たどり着いた。
一片のかつての虚子、六年前の特殊災害の被害者――陽彩。
「その陽彩はどこにいる?」
いささか感情的になりながら、要はセンリに今にも掴みかからんばかりの勢いで尋ねた。彼にとっては、それが優先すべき事項であり、それ以外は一重にどうでもいい。必要があれば頭も悩ませるが、今はそんな余裕は無かった。ようやくたどり着いた手がかりだ。一片が告げられた望島の特殊災害さえ、今は頭の片隅に追いやってしまった。
「要さん、陽彩は……ここにはいません」
「じゃあ、レイロンか? そこに行ったことまでは確認している」
一片とセンリが目を伏せ、声が震えていることに要は気づかなかった。
「おそらく、レイロンにもいないでしょう。彼女は、連れ去られました」
「つれ……さられた?」
さすがにその回答は予想しておらず、要は言葉を詰まらせた。機先を制され、少しだけ勢いが緩む。握りしめた拳が痛いほどで、手元から手がかりが零れ落ちていく感覚に落胆を覚える。
「何があったんだ?」
そこでようやく一片たちの普通でない様子に気づき、要は口調を和らげて問いかける。彼が追いかけていた陽彩が虚子なのか、人間に戻ったのか、あるいはパソ子から情報を得たメールの報告のとおり、人間の特徴を有した虚子なのか、それは定かでは無いが、連れ去られたというのは普通では無いだろう。どういった状況でそれが行われたのかは不明だが、まさか普通に人さらいにあったとも思えない。
可能性としては、先の話を思い返せば、考えられるのは一つだ。
「要さんがアセナを撃退したすぐあとだと思います。私とセンリさん、それから陽彩は、アセナの襲撃に遭いました」
「たぶん、時間的には要が意識を失った後だと思うよ」
一片の言葉を必が補足する。それは、要が記憶を失っていることを要と必以外は知らないがゆえの、彼女なりの要に対する配慮だろう。
時系列で言えば、ひなみが陽介と再同調した後にアセナに襲われ、これを要たちが撃退。その後に要が意識を失っているその間に、一片たちはアセナに襲われたらしい。どうやら記憶を失う前の要は、アセナを撃退するどころか、まともに痛痒すら与えられなかったのだろう。何故、アセナが要たちを見逃したのかは不明だが、アセナはすぐに目標を変え、一片たちを襲った。
「私たちはなすすべなくアセナに襲われ、陽彩だけが連れ去られました。その後は倒れた要さんとひなみさんを連れた皆さんと合流し、この病院まで避難しました」
それが、要が意識を失っている間に起きた出来事。その後、望島で大規模特殊災害が発生したというわけだ。
大まかな事情を理解し、要は疲れたようにベッドに腰を下ろした。一片の話の真意やセンリの言っていた「すがりたい」という言葉の意味はまだ分からないが、それらとは別に彼の目的が改めて明確になる。
SS001――虚子から人に戻ったとされる少女、陽彩は、アセナに連れ去られたという。そのアセナは、望島で虚虜を率いて大規模特殊災害を発生させたとか。その事実が正しいのであれば、アセナは望島にいるのだろう。そして陽彩を連れ去ったというのであれば、彼女もまた、そこにいる可能性が高いと言える。
望島。それが次に要たちが向かうべき場所だと確信した。
「なめくんが次に何をしようとしているのか、私には分かりますよ」
今まで黙っていたこの場の年長者組の一人、竜胆が話に割り込んだ。探るような視線を、要は真っ向から見つめ返す。要にもまた、竜胆が何を言わんとしているかは理解できた。
「自分の状態は分かってます。二日も寝てたんだ。同調者の身体はそれだけあれば回復しますよ」
「ええ、身体は。ですが、心はそうじゃないでしょう。だめちゃんたちから聞きましたよ。崩壊しかけた虚子との戦いから連戦で、人型虚虜とも戦ったんでしょう? 自分の状態を、ちゃんと分かってますか?」
どうやら、管理者である竜胆には、要の状態などお見通しのようだ。
度重なる戦闘で要の肉体は疲弊しきっている。それでも休息を取れたことで肉体的な疲労は、怪我は別としても回復していたが、心はそうでは無い。特対官は、感情と記憶――心を削って戦う。戦いが続けばその消費も大きく、それは簡単に回復するものではない。刻んだ時間が、重ねた思い出だけが心を作る。ただ寝ているだけでは、決して回復するものでは無いのだ。
特に要は、この一年間、休息など無視して力を使い続けている。すでに心はぼろぼろだ。事実、先のひなみとの戦いでも何度か戦闘に支障が出かけていた。
「竜胆さん、何が言いたいんです?」
あえて、要はそう尋ねた。面倒なやり取りを鬱陶しく感じ始めていた。竜胆が要を心配していることは百も承知だが、彼の目的にまで口を挟まれるなら話は別だ。
「望島に、人型虚虜のところに行くつもりですね?」
竜胆の言葉には、言外に非難するような響きを帯びている。口うるさい彼女は、今の要の状態からそれが危険なことであると判断しているようだ。
「正確には、陽彩のところにですけどね」
要は、嘘偽りなくはっきりと答えた。誤魔化したところで竜胆は納得しないだろう。
「はぁ……そうですよね。ええ、分かっていました。なめくんはずっとそうですもんね」
竜胆もまた、要の性格は嫌なほどに理解している。何を言っても彼が聞かないことくらいは承知済みだろう。それでも持って回った問いかけを重ねたのは、彼女なりに一縷の望みにかけたのだろう。もしかしたら要が自身の状態を顧みて引いてくれるかもしれないと、わずかばかり期待したのだと分かる。
結果は、何も変わらずのいつも通り、自分本位な特対官に振り回される管理者が一人いただけだ。
「神島さん、センリさん。なめくんが寝ている間に話した通りです。やはり、彼は人型虚虜アセナの討伐作戦に参加してくれそうです」
「は? なんですか、その作戦」
「黙ってください。どうせ行くんでしょう? 知らなくても別に一緒でしょう」
ふん、と竜胆は鼻を鳴らして怒り顔である。自身の心配を無下にされて、すっかりへそを曲げてしまったようだ。大人気ないその姿と突き放すような言い方に、要は二の句が告げなくなった。
「正直、戦力が足りていないというのが現状です。すでに特災に対処するために一部交通網を封鎖。六年前の教訓を生かして、首都近郊に繋がる道には警戒網を引き、多くの警察機関、国防軍、それから主力の特対官を集結させていますが、人型虚虜に対処可能なだけの戦力は集めきれていません」
竜胆は、要を無視して、彼女が管理者として得た情報を共有する。相手にされなくなった要は、軽くため息だけついて、ベッドに寝転んだ。まだ身体は痛むし、すぐに望島へ向かうプランが出来たわけでも無い。ならば少しでも態勢を楽にして身体を休めた方がいいだろう。決して、彼の普段のやる気の無さが態度に表れたわけでは無いはずだ。
「そのため、政府上層部から一つの指令が下りました。一年前の特災テロを単騎で解決に導いた特対官、周防要及び周防必のペアに白羽の矢が立ったのです。目的は、少数戦力で特災の発生源である望島に潜入し、そこにいると思われる人型虚虜アセナを討伐すること。アセナを倒しても虚虜の侵攻が止まるわけではありませんが、新たな虚虜の発生を防ぎ、奴らの統率を乱すことは出来ます。そうなれば、対処は難しくはありません」
竜胆が特災テロと発した瞬間、要は少しだけ反応して見せた。何かに堪えるように唇を強く噛み締める。だが、そのわずかな変化に気づくものはいなかった。
「普段はそんな指令なんてどこ吹く風と簡単に無視してしまうなめくんですが、今回は彼の目的とその指令が一致してしまったため、この指令は呑むしかない状況です。管理者としては喜ぶべきことかもしれませんが、個人の感情で言えば……心配でなりません。見ての通り、彼はもうぼろぼろです。正直、人型と出会ってもわんぱんでやられちゃうでしょう」
「おい」
余りの言い様にさすがの要も突っ込んでしまった。ぼろぼろなのは見た通りの事実なので否定しきれ無いが、それでもこれから強敵と戦う人間を悪しざまに表現するのはどういった神経だ。
だが、そんな要のツッコミも竜胆は無視してしまう。よほど腹に据えかねているらしい。
「皆さんのような本事態に深く関わりのある方々がこの場にいることは僥倖でなりません。一般の方々に――一部は犯罪者ですが、このようなことをお願いすること、心苦しく思いますが」
ちらっと竜胆の視線がパソ子に向く。犯罪者が誰のことを言っているかは一目瞭然だ。パソ子は焦ったように視線をそらした。
「どうか、なめくんを助けていただけないでしょうか。それが結果として、連れ去られた陽彩さんを救うことにも繋がります」
最後に真摯な想いを言葉に乗せて、竜胆は深く頭を下げる。
最も身近にいた大人の女性のそんな姿に、要は寝転んでいる自分を浅はかに感じ、上体を起こした。彼女が誰のためにそんなことをしているのか、それが分からないほど要は自分本位でも愚かしくも無い。
要が政府の指令を断れば、竜胆は迷わずに上層部に食い下がっただろう。彼女は、そんなことは迷わず出来る大人だ。だが、要はそれを良しとはせず、政府の意向と彼の目的が一致してしまっていた。要が一歩も引かない以上は、せめて彼を支援する戦力が必要になる。
だからこそ、竜胆は眼前に集まった戦力足りうる者たちへと頭を下げていた。それは本来、要がすべきことなのだろう。だが、竜胆は要が仲間を必要としないことも深く理解しているのだ。
「頭を上げてください、竜胆さん。さっき話した時も言いましたが、こちらから要さんたちにお願いしたかったくらいなんです。現状、口惜しい限りですが、私たちではアセナに対抗できません。陽彩――私の大切な友達を助けるために、強力な特対官である要さんのお力を、借りたいのです」
陽彩を救いたいというのが一片たちの目的。
同じく、陽彩から虚子から人間に戻る方法を聞き出したいのが要の目的。
その中心には、人型虚虜アセナがいる。
政府の指令は、特災を解決するため、人型虚虜アセナの討伐だ。
三者の目的は、それぞれ異なるが、目的を達成するための条件は一致している。
「別にうちと白滝がいるから、そこのあんちゃんは寝ててもええけどな」
不意に大部屋に特徴的な関西弁が響いた。
大部屋のドアを開け、病院服に身を包んだ濃藍色の髪の少女が姿を見せる。
「紫咲! もう身体は平気なんですか?」
紫咲の登場に一片が喜色交じりの声を上げた。過剰なその様子に、紫咲は恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「ま、まぁな。うちは血を操る虚子や。出血程度はどうってことない。臓器も痛めてなかったし、寝れば治るわ」
「良かった。こちらに来てください。ぎゅっとさせてください」
「は、はぁ⁉ やめろやめろ、絶対いかん!」
照れ隠しで多さげなリアクションを見せる紫咲に、一片は嬉しそうに微笑むと、白滝に何かを指示した。指示を受けた白滝が無言で紫咲の首根っこを掴み、有無を言わせず一片のもとまで運ぶ。
「お、おい、白滝、やめろ!」
「お嬢さまを心配させた償いだ。受け入れろ」
「は、はぁ⁉ ぶへ――ッ」
「良かった、本当に。ごめんなさい、紫咲。私のわがままであなたが傷つくことになって……」
「ふぇ…………」
一片に抱きしめられ、紫咲は弛緩したように大人しくなる。わずかに覗くその表情は、普段の厳しい様子とは比べ物にならないくらいに緩んでいた。派手な抵抗もなりを潜めたことを思えば、彼女自身、満更でもないのだと察せられる。
「竜胆さん。私たちが出せる戦力は、この白滝と紫咲、それから足手まといですが、私自身です」
「心強いです――え、か、神島さんも、ですか?」
顔を上げた竜胆が、一片の最後の言葉に疑問符を頭に浮かべる。まさか足の不自由な一片が名乗りを上げるとは思っていなかったのだろう。即座に否定しようとしたが、支援を頼む立場で頭ごなしに否定することも躊躇われ、少しだけ言葉に詰まっている。
そんな竜胆の気持ちを察してか、一片は説明するように続けた。
「はっきり言います。アセナの目的は、私です。陽彩を連れ去ったのも、この特殊災害を発生させたのも全て、私に自分のところへ来いと言っているんです」
「一片さんを……?」
「はい。アセナは六年前、そして陽彩が連れ去られるついこの間、私に言いました。私の心を喰らいに来た、と。それからこうも言いました。――だけど絶望が足りていない。まだ熟れていない。もっときみの心が育つように、水を上げる。ボクのところまでおいで、と」
「虚虜が……そんなことを……」
竜胆にとって、一片の話した内容は信じ難いものだったようだ。そもそも知性を持つ虚虜という存在さえ、一般には普及していない隠された事実でもある。その心の在り様など、知っているはずも無い。
人型虚虜アセナは、人の心を慰みものにしている。一片はそう伝える。
「おそらく、彼女は私を待っています。逆に言えば、私がいかなければ姿を見せない可能性も考えられます。ですから、陽彩を救うためには、私が行くしかありません」
「ぷはっ! おい、一片! まだ懲りんのか!」
ようやく一片の抱擁から解放された紫咲が、怒り交じりに怒鳴りつける。彼女にとって、自分のいない間に一片が襲われたことは、許容できない出来事なのだろう。これ以上、一片を危険にさらすわけにはいかないと、全力で拒絶の意思を見せる。
「ごめんなさい、紫咲。あなたには一番迷惑をかけるかもしれません。けど、さっき言った通りです。要さんたちの努力を無駄にしないためにも、私も同行する必要があります」
「そうとは限らんやろ! あの人型は、元々はあのちゃらんぽらんの前にも姿を現した! 気に入った人間なら誰でもええねん!」
ちゃらんぽらんとは、陽介のことだろう。ふと、要はレイロンで出会ったあの軽薄な男はどこにいるのだろう、と疑問が過った。必の話では、陽介の虚子、ひなみが重傷を負ったとのことである。彼女もまた、この病院のどこかで治療を受けており、陽介はそこに寄り添っているのかもしれない。
「そうですね。アセナは、気に入った人間の心を育て、奮い立たせ、そして最後に心を折ることで生まれる絶望に執着している節があります。そういう意味では、仮に私でなくとも、姿を見せることはあるでしょう。けど、それは確実ではありません。少数で、今最も危険な望島へ向かって、延々とアセナを探し続けて疲弊するリスクを考えれば、私が同行する方がリスクは低くなるとは思いませんか?」
「うちらのな! けどお前は違う! 虚虜の一撃を受けただけで死ぬかもしれん奴を連れていけるか! レイロンとは危険度の桁が違う!」
一片の言葉には、一定の理屈が通っている。トレードオフを考えれば、闇雲に望島を探りまわるより、一片を連れたって確実にアセナをおびき寄せる方がリスクは低いと言えるだろう。少なくとも、望島に行った結果、アセナとも出会えず、ただ疲弊するという可能性は限りなく低くなる。
一方で紫咲は、ひとえに一片を想い、心配している。ただの人間が虚虜に抗し得るはずも無い。一般的な兵器すら虚虜には通じないからこそ、特対官と呼ばれる存在が重宝されるのだ。
ただの腕の一振りでさえ、一片には致命傷となる。あるいは虚虜に存在ごと心を喰われる可能性もある。
レイロンであれば、その危険は人間だ。白滝や紫咲でも十分に護衛することは出来ただろう。だが、彼らにとっても油断すれば虚虜は脅威となり得るのだ。自身の身を守ることさえ危うい状況で、一片を守り切ることなど考えるまでも無く困難を極める。
それだけではない。大量の虚虜から守り抜いたその先で、おそらく待ち受けているであろう最大の脅威――アセナ。そのアセナと戦いながら一片も守る。およそ不可能なミッションだ。
檄を飛ばす紫咲の様子を、要は無感動に見つめていた。まとまりかけていた話が振り出しに戻りつつある状況に、やや辟易していたとも言える。
この話がまとまらなければ、彼は動くに動けない。竜胆がそれを認めないだろうし、人工島である望島に行く手段も無い。一刻の猶予を争うわけでも無いが、無為に過ごす時間を良しとするほど慎重でも無かった。
何より、一片が自ら決断していることだ。巻き込まれた一般人ならいざ知らず、自分の意思でそれを為そうとすることに対して、要は非常に淡泊であった。
「紫咲だっけ。お前も虚子なら、そういう自分の中の意思が一番大事だって、分かるんじゃないのか?」
援護射撃をするつもりでは無かったが、要は思わずそう言っていた。
その言葉に、紫咲は目を見開いた。何を言いかけて口を噤み、悔しそうに強く唇を噛みしめる。
「そんなん……自分に言われんでも、わかっとるわ……! けど、ちゃうやろ。お前ら人間はそうやないやろ……。未来があるんや、うちらみたいにこだわるだけが生き方やないやろ……っ」
張り裂けそうな想いをそのまま口にしたような、苦しげな様子で紫咲はそう吐き出した。だが、それ以上に一片を止める言葉を続けることは無かった。彼女にとって要の言葉がどれほどの意味を持つのか。
要は、その様子に少しだけ自省する。少しだけ、知らずに紫咲の心を抉る結果となったようだ。だが、話が前に進まないのであれば、仕方なかったとも言える。
紫咲のそんな様子を見かねて、必がベッドから這いだし、紫咲に近づいてその手を取った。
「だいじょうぶ。要も私もいる。ちゃんと一片ちゃんを守る。だから安心して。紫咲ちゃんも強いよ。何が起きても、どんな相手でもきっと守り切れる」
必にとっては、言い過ぎた要のフォローも込めての言葉なのだろう。
紫咲が顔を上げ、いつもの笑顔を浮かべる必と視線を交わす。何かを言いかけた言葉は、しかし言葉にならず、代わりに憎まれ口だけが口をついてでた。
「ふん、あんちゃんはともかく、お前みたいな豚女は頼りにならん。うちに負けたこと忘れたんか」
「あー! もうその呼び方、何回目⁉ 怒るよ! それに負けてない!」
わざとらしく怒り顔になる必のことなど、もう紫咲は見ていなかった。彼女の視線は真摯に一片に向けられ、その胸元に手を当てる。
「分かった、一片。お前の言うことも一理ある。それに……お前の意思は尊重する。それさえ否定したら、うちはうちでなくなる……。だから約束するわ。お前はうちが守る。絶対に」
身を切るようなその誓いに、一片はそっと紫咲の手を取った。その手を自身の額に当て、紫咲の純心に報いてみせる。
「ありがとうございます。私も、紫咲に誓います。絶対に私は死にません。そして、陽彩を取り戻します」
「言うたな? じゃあ、いつもみたいに我儘天然マイペース炸裂するのはやめるんやで」
「それは……どうでしょう?」
「おい」
巣に戻った一片と紫咲が、互いに笑い合う。仲直りでは無いだろうが、互いに想いを通じ合えたからこそ、心底から湧き上がる親愛の笑みだ。
すっかり蚊帳の外に置かれた必がすごすごと要のもとに戻ってきた。そのまま、何かを確かめるように要の手を握る。彼女にとって一片と紫咲の関係性に感じるものがあったのかもしれない。
感情も記憶もそのほとんどを失っている必が、彼女らの関係性に何かを見た。
それはきっと、良いことなのだろうと、と要は必の手を握り返す。
一片と紫咲の話がまとまったところで、今まで黙っていたパソ子が両手を打ち鳴らした。
「それじゃあ、具体的なプランに移ろうよ。あと座ろ。あたしらいつまで立って話聞かなきゃなの?」
彼女らしい重大な事態にも動じないその呑気な発言に、少しだけ場が弛緩したことは言うまでもない。




