第五章 ①
燃えている。
街が、人が、草木が、空すらも――目につく全て、辺り一面が業火に呑まれ、恐怖も悲哀も狂気も絶望をも燃やし尽くし、ただただ轟轟と灼熱の炎が蠢く大蛇のように這いまわる。
大蛇が暴れまわった先、肉の爆ぜる音が響き渡り、鼻を刺す異臭が立ち込める。もはや生き残る者などいないかのように思われるそこは、まさしく地獄という陳腐な形容こそが相応しい。物語などで多く語られ、あるいは日常的な会話の中でも当たり前のように使われる表現が、真に現実のものとして色を帯び、堪えようのない非現実的な光景として、その場に顕現している。
響き渡る悲鳴。断続的に鳴り響く轟音。鼓膜どころか魂までも恐怖で震わせる、異形の鬨の声。
ただひたすらに飢餓感に苛まれた怪物たちが、その地獄を我が物顔で闊歩する。こここそ自分たちの居場所なのだと、言外にそう語る。怪物たちが歩むたびに地獄は広がり続け、誰もその歩みを止めることなどできはしない。
予期しない突然の襲撃は、深夜という時間帯もあってか、後手に回らざるをえず、ゆえに破壊の波は広がり続ける。
死せる者たちで溢れるその場所で、しかし生き残っている者がいる。
それは、一人の少女だった。
年のころは十を少し過ぎたばかりか。あどけないながらも見目麗しい彼女は、その透き通る栗色の瞳に恐怖を映し、表情を歪めながらも、先日プレゼントされたばかりの小さなウサギのぬいぐるみを握りしめ、炎で包まれたその街を一人歩いていた。
「お父さん……」
ぽつりと小さく呟く。叫ぶ気力すら失われ、煤で汚れた頬を、涸れはてた涙が一筋伝っていく。それは現実を受け入れられないがゆえの拒絶反応か。何故なら、彼女の目の前ですでに父は亡き者となっている。燃え盛る炎の一つにその身を焼かれ、悲鳴を上げる間もなく、一瞬にして炭化していた。
「お母さん……」
母もまた、同じだ。逃げ惑う人の波の呑まれながら、逃げ切ることは出来ないと判断し、彼女の小さな身体を身を隠せそうな廃墟の隙間に押し込んだ。だが、その直後に母は怪物の顎で食い裂かれ、まるで泡と消えるようにその肉体の一片も残すことなく、この世から消滅した。少女が助かったのは、おおよそ奇跡と呼ぶほかない。怪物が食欲を満たしたがゆえか。あるいはたまたま少女の姿が認知されなかったゆえか。どちらにせよ、彼女の両親は死に、彼女は一人生き残った。生き残り、現実を受け入れられず、ただ虚ろなまま廃墟を歩き、死した両親を探して声を枯らす。
見る者がいれば、その姿に胸を痛めだろう。哀れな少女の行進に同情し、救いの手を差し伸べたかもしれない。
だが、もはや彼女以外に生き残った者はいない。
地獄と表現されるそこは、怪物たちが悠々と闊歩した後だ。
誰もいない。皆食われ、あるいは殺された。
少女の足が何かに当たる。彼女はその衝撃で躓き、地面に転げた。強かに膝を打ち付け、見ればひどく擦りむいている。痛みに顔を顰め、今にも泣きだしそうな表情を浮かべかけ、そこで視界に入ったものに目を見開く。
彼女が躓いたそこには、誰ともしない一人の人間の死体が転がっていた。
目を見開き、絶望すらも生ぬるい表情で事切れたその姿に、少女は息を呑む。
心臓が深く拍動を打ち、呼吸が乱れる。息を吸って吸っても続かず、ただ苦しい。
「ひっ……ぅ……っ!」
堪えようのない恐怖に過呼吸に陥り、少女は胸元を抑えた。必死で息を吸おうともがくが、まるで酸素が取り込めない。理解できない事態にパニックに陥り、あまりの苦しさに大粒の涙を浮かべたその時、柔らかな声が頭上から響いた。
「だいじょうぶ?」
その場に似つかわしくない涼やかな声。
少女は苦しみに悶えながら、一筋の期待に顔を上げる。この地獄にも生き残りがいたのだと、そう期待を表情に浮かべ、その顔はすぐに絶望に歪んだ。
そこには、確かに人がいた。
人――なのだろう。その白い髪も、金色の瞳も、確かにある種異様ではあるが、見た目は十五、六歳の少女そのものだ。美しいとすらいえる容姿を持った、反物を無理矢理に衣服に見立てたような服装の少女である。
だが、少女の本能が告げる。これは人ではない、と。人とは全く異なる、異質な存在である、と。
心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。向けられた言葉とは裏腹な、まるで実験動物を眺めるような怜悧な瞳が少女に注がれる。そこにいたのは、間違いなく人ではない何か。
ああ、と少女はその言葉を思い返す。
これは――虚虜。人の心を喰らい、糧とする怪物。生物ではなく、人智を超えた災害だ。
その災害が、人の成りをして、人の言葉を話している。こんな異常なことはない。
「苦しそうだね。息がしづらいんだね。何かあった?」
怪物が口元を歪ませる。笑み、だろうか。まるで人のように微笑んでみせるが、少女はそれを微笑みとは認識できなかった。何故なら、そこには感情の色が無いからだ。人が笑みから連想し、読み取れる心の色が無い。微笑みがコミュニケーションの手段である以上、コミュニケーションの意思が無い怪物の笑みには、言葉通りの意味は宿らない。それゆえに、それが少女に伝わることも無い。
「すごいね、びっくりしたよ。ここら辺りは他の子たちが喰い尽くしたと思っていたけど、生き残ったんだね。人間の子供は弱くてすぐ死ぬものと思っていたけど、君は生存能力が高いのかな。そういうの、良いな。すごく、ボク好みだ」
手が伸びる。怪物が腕のようなそれを少女に伸ばし、触れようとする。その仕草に恐怖し、少女は咄嗟に手を振り払っていた。掠れた声で拒絶の意思を叫ぶ。
「いや……っ」
乾いた音を立て、怪物の腕が振り払われる。叩かれた腕を興味深そうに怪物が見つめる間に、少女は立ち上がり、走り出していた。ただ逃げなければ、と本能がそう告げていた。両親のことも忘れ、眼前の恐怖から距離を取る。
だが、それは全くの無意味なことだと、すぐに思い知らされた。
「うん、いいよ。逃げよう。生きたいよね。死にたくないよね。こんなところで終わるなんて、認められないよね」
怪物が、いつの間にか目の前にいた。
少女の行く先を塞ぐように、一瞬の瞬きの間に、怪物が現れる。目元を細め、その時ばかりは少女もそうと分かる楽しげな笑みを浮かべて、カラカラと不気味な笑いを漏らしながら嘯く。
「頑張ろうよ。諦めるなんてもったいない。頑張れば頑張るほど、きみの心は光り輝く。輝いて、煌めいて、どこまでも深く深く、大きく照らされて――最後に暗く落ちていくんだ」
「……っ⁉」
怪物が軽い力で少女の頬を叩いた。それは怪物からすればほんの少し、頬を撫でるような一撃。全く力のこもらない攻撃だが、少女の身体は紙屑のように吹き飛んだ。数メートルは軽く飛び、固い地面に叩きつけられて動きを止める。
息が出来ない。痛みが全身を駆け巡り、恐怖と不安で思考がパニックに陥り、歯がぎちぎちと音を鳴らす。理不尽な暴力に少女の心の防波堤は呆気なく決壊し、荒い息を吐きながら這って地面を進む。
逃げることしか、もはや頭に無かった。
「誇りなよ、その生き汚さ。ボクを前にしたら、大体の人間は諦めるんだ。ああ、無理だ。死ぬ、ってさ。生きようなんて思う人間がまず珍しいんだ。心がね、見えるから。よく分かる。キミはすごいよ。まだ小さいのに、すぐに生きることを考えた。助けて、お父さんお母さんどこ、生きてるよね、死んだなんて嘘だよね――さっきまでそんな風に思ってたのに、逃げなきゃ死ぬ、やだやだ死にたくないって、本当にすごい。感心したよ。――キミは何より自分が生きたいんだね」
怪物が何かを言っている。その言葉の意味を考える余裕など、少女には無かった。ただ生きることだけを考え、痛む身体で這って進み続ける。遅々とした歩みだが、怪物の追撃は無い。それがおかしいと考える思考すら、少女の頭には無かった。
「どうする? どうすれば生き残れる? ほらほら頑張って。無我夢中じゃ足りないよ。考えないと。頭を使って。必死で考えて。そうすればするほど、キミが落ちる穴は深くなるんだから」
背後から聞こえる怪物の言葉の何一つ理解できないまま、歯を食いしばって痛みに耐え、少女は立ち上がって再び走り出す。先のように怪物が先回りすることは無かった。ただ、背後から醜い哄笑だけが響き、それが少女の心を大きく揺さぶり続ける。
なに? あれはなに?
虚虜が人の姿をしているなんて聞いたことが無い。そもそも、あんな弄ぶような、人の尊厳を踏みにじるような真似をされたことは初めてで、少女の思考が追い付かない。
どれくらい走っただろうか。限界近く走り続けたために心臓は大きく早鐘を打ち、足はがくがくと震える。体力の限界まで絞り尽くし、少女はその場で膝をついた。擦りむいたそこが痛みを訴えるが、それ以上に身体は限界だった。逃げなければという意思に反して、全身から滝のような汗が溢れ出し、表情は驚くほどに青ざめている。もはや限界であることなど、誰の目からも明らかだ。
「はぁ……はぁ……お父さん、お母さん……」
再び、すがる者の名を呼ぶ。両親がどうなっているかなど、頭の奥底で理解している。出来ないのは納得だ。その事実を認めることが、少女にはどうしても出来ない。この世で天涯孤独、独りぼっちになってしまったなどと、どうして認められようか。それを認めるくらいなら、無毛な希望に縋った愚者の振る舞いを続ける方がよほどましと言えるほどに。
不意に何かが土を踏む音が聞こえる。空気の爆ぜる音の中で、それを不思議と少女は聞き取ることが出来た。身体がびくりと震え、追手が来たのかと振り返る。だが、そこにいたのは、先ほどの怪物では無かった。
自身よりもやや年上、白金色の髪に紅玉の瞳を宿した少女が、ぼろきれのような服を纏ってそこにいた。身を隠す最低限の衣服だけを何とか身に着けたといった感じの少女は、その瞳にとてつもない赫怒を宿し、前方を見据えている。その瞳が少女とぶつかり、見開かれた。信じられないものを見つけたといった様子だ。
「き、みは……」
ぼろきれを纏う少女が掠れた声を漏らす。かけられた言葉の意図は分からず、ただ少女は安堵していた。この地獄のような光景の中で、自分と同じ生き残りがいたことで少しだけ希望が芽生える。
「ひと、ひら」
だからこそ、少女は自身の名を素直に名乗った。一片と、両親がつけたその特徴的な名前を告げる。一片の花びらのように、散り行く最後まで美しくこの世にあり続けられるようにと、どこか後ろ向きともいえる由来でつけられたその名前を。
「ひとひら……。ねぇ、きみ。きみは……」
どこか名状しがたい表情に顔を歪めながら、ぼろきれの少女が一歩近づく。伸ばされた手が一片の手を掴み、両手で祈るように、強く強く握りしめる。
「きみは……生きたい?」
簡潔なその問いかけに、一片は答えに窮した。生きたいと言われ、否定するものはまれだろう。ゆえにその問いかけに困惑したと言うこともある。だが、それ以上にぼろきれの少女の問いには、深いところで全く異なる意図を感じてならなかった。まるでそれに頷いてしまえば、全てが変わってしまうような不思議な感覚。だが、逡巡は一瞬のことで、一片は迷いなく頷く。
「しにたくない」
ぽつりと漏らした一言には、先の怪物との遭遇で感じた恐怖も込めた、万感の思いが宿っていた。
ぼろきれの少女が笑う。自嘲気味に、どこまでも自分を責め苛むような痛々しい笑顔を浮かべる。
「わたしも、わたしも……諦められない。許せないんだ、絶対に。だから、ごめん。本当にごめん。きみみたいな小さな子に縋るなんて、絶対に許されないって分かってる。分かってるけど、もう、こうするしかきっと無いから」
「どういう、こと?」
「わたしは陽彩。ねぇ、一片。わたしと、一緒に生きてほしい」
握りしめられた両手から淡い光が放たれ、熱い何かがそこを中心に一片の全身を駆け巡る。それは感情と記憶の本流だ。怒涛のようなそれを処理しきれず、ただ、宿る想いの悲壮さに一片は胸を打たれた。この陽彩という少女は本気だ。本気で何かを一片に願っている。その姿に、その想いに、その心の熱さに、言い知れず心震える。
思わず、一片も空いた手で陽彩の手を包んでいた。感情のままに額を打ち付け、奇しくも同じく祈るような形を取る。
「生きよう、陽彩。ずっと……ずっと。だって、私はあなたを埋めることができるから」
何故、そんな風に思ったのか。一片には理解できていない。ただ、漠然と直感でそう感じたのだ。自分はこのぼろきれの少女の空白を満たす存在だ、と。そこで一片は自覚する。ああ、これが虚子。これが同調者なのか。これが心を通わせ、同調すると言うことなのか。知識として知っていたものに実感が宿り、その甘美さに思わず笑む。
包んであげること。満たしてあげること。想いが通じ合うこと。初めて会った相手にもかかわらず、まるで前世で再会を約束していたかのように、迷いなく受け入れることが出来る。
「ごめん、ごめんね。わたしがきみを守るから。絶対、守るから。だから――」
轟音が鳴り響く。高高度の空から何かが飛来し、それは二人のすぐ近くの地面を抉り飛ばした。砂埃が舞い、そこから白面の怪物が瞳を爛々と輝かせて現れる。
「――あいつを、倒そう」
怪物が笑う。それを見据えながら、二人は手を強く握り合わせる。そうしなければ生き残れないのだと、二人とも嫌なほどに分かり切っていから。
『――相剋』
炎が爆ぜる。それはまるで大蛇のように、荒れ果てた街並みを飲み尽くし、黒煙を立ち昇らせ、破壊の嵐を叩きつける。
後に望島大規模特殊災害と呼ばれた地獄の裏で、二人の少女が出会い、絶望的な戦いに臨んだことは、公的な記録に一切残されていない。ただ、彼女らの胸にはしかと宿り、忘れ得ない記憶として焼き付いている。いずれ来る絶望として、その身に宿る傷が痛みを訴える。それは陽彩だけではない。一片もまた、同じだ。
動かくなった両足が痛みを訴える。
まるで突き動かされるようにレイロンに訪れたのも、陽彩を追いかけてきたという理由のほかに、何か予感に突き動かされるものがあったのだ。
かつて見た恐怖。
記憶に刻まれ、忘れえない鮮烈な記憶の風景に、いても立ってもいられなくなった。
ここで動かなければ後悔すると、そう確信に近い思いを抱いた。
だから、このレイロンに来た。
陽彩を追いかけ、恐怖を乗り越え、再び笑い合うために。
なのに――
「ああ、懐かしい。すごくすごく、強く綺麗に、見惚れるほどに熟れた心に育ったね、ひとひら」
――何故、こいつがここにいる。
突如として目の前に現れた存在を前に、一片も、陽彩も、センリも、誰しもが息を呑んだ。
強烈な違和感に頭を殴りつけられたかのように、息をすることも忘れ、その恐怖に身体が震えだす。
「――約束だよ。きみの心を、喰らいに来た」
その一言は、かつて絶望の淵で戦い抜いた少女たちに告げられたものと全く同じ言葉だった。




