第四章 ⑧
目の前で起きた事象を、要は信じられない面持ちで眺めていた。
眺めることしか、出来なかった。
そんなことが起こりうるなど、どうして想像できるだろうか。
全身がぼろぼろになるほどの死闘を繰り広げた後だ。陽介とひなみが再び同調し、崩壊を免れて立ち直ったひなみが愛おしそうに陽介を見ていた。その陽介はと言えば、なぜか大切な少女を差し置いて要たちの方を振り返り、のんきに手を振っていた。
馬鹿が、俺たちよりも相手をするべき少女がいるだろうが――そう要は思いはしたが、口に出す気力は無かった。
崩壊しかけたひなみとの戦闘で身体は疲労困憊だ。それは要だけではない。必もまた、同様に限界を迎えていた。兄妹二人、寄りかかるようにして地面に腰を下ろしていた。気を抜けば、今にも意識を失いそうだった。
だが、全て終わった。いや、正確には彼らの目的に関しては一歩前進した程度に過ぎなかったのだが、少なくとも崩壊したひなみを救うという目的については、一つの解を見た。
だからこそ、どこか安心して、心は緩んでいた。気を抜いた、というのが率直な事実だ。
要も必も、彼らだけではない、少し離れた位置で相剋を解いた白滝と紫咲もまた、一つの幸せな結末とも呼ぶべきその光景に絆され、油断していた。
一切の警戒心を解き、ほんの少しだけ温かな気持ちでそれを眺めていた。
そんな全員の心の間隙を縫うようにして、『それ』は現れた。
『それ』が現れる瞬間、その場の誰一人して、知覚することが出来なかった。
まるで初めからそこにいたかのように、不意に現れ、形容しようも無いほどの強烈な違和感を世界に叩きつけた。
――その瞬間、どこかでカラスの群れが騒めいた。
――遠く離れた地にいる飼い犬が大声で吠えた。
――ごみを漁っていた野良猫が毛を逆立て、何もない空間に威嚇した。
白、透き通るほどの白く長い幻燈の髪が舞う。
全身を同色の和装に身を包んだその姿は、見た目だけなら年若い少女そのもので、まるでこの世の美を詰め込んだかのような流麗な容姿をしている。世界を睥睨するその瞳は、満天の星空よりも妖しく輝く金色。
和装の先から覗く素肌は病的なまでに白く、細い。
その見た目だけなら、異性同性を問わず、生物の枠すら越えてあらゆる存在を魅了したことだろう。
だが、その身に纏うのは強烈な違和感。
生物では無い。この世のものでは無い。存在してはいけない――とそう心の底から湧き上がる忌避感。
あらゆる存在を見下すような感情のこもらない冷たい瞳が眼前の幼い少女に向けられる。
直感で危険を察した要は、疲労も痛みも無視して叫ぼうとした。
その頃には、頭痛に苦しむように頭を抑えた陽介が、背後のひなみを振り返っていた。
だが、そんなものは全てが遅かった。
「ヨウ、くん」
鮮血が舞う。
幻燈の少女の細く白い腕が、血で彩られる。
ひなみの腹部が、幻燈の少女の手によって刺し貫かれていた。
「あ、ああ、あぁぁぁぁぁぁッ!」
突然の事態に混乱したまま、陽介が喉をからさんばかりの悲鳴を上げる。
一連の事態を前に、要は動くことが出来なかった。ただ、その突然の事態を呆然自失と見守ることしか出来ず、彼が我に返ったのは、幻燈の少女がひなみからその腕を引き抜いた後だった。
ひなみの身体がくずおれる。
急な衝撃と出血によって身体をびくりと震わせた後、瞳からは生気が失われ、眼前の陽介に向かって倒れこんだ。
「ひなみ!」
陽介がひなみの身体を抱きしめる。悲鳴のような叫びに、答える声は無い。
くずれるひなみを支えるようにして、陽介は膝をつく。何度も彼女の名前を呼び続ける。
そんな陽介の様子を、幻燈の少女は無感動の瞳で見つめていた。何かを確かめるように血で濡れた指を一舐めし、小首を傾げる。
「ボクの勘違いだったかな。こうすれば熟すと思ったけど……意外にまだ絶望していないんだね」
透き通るようなソプラノの声が響き渡る。まるで実験動物でも見つめるような冷静な声音に、陽介は顔を上げた。その瞳は怒りの色に染まっており、庇うようにして力尽きたひなみを守る姿勢を取る。
その陽介に、再度、幻燈の少女は逆方向に小首を傾げた。どうにも得心が言っていないと言いたげだ。
「あの時逃げ出したきみなら、もう一度希望を折ればさらに深く崩れてくれるかと期待したけど。意外や意外、まだは目は死んでいない」
「お前は……あの時の……っ!」
「ああ、やっぱり良いなぁ。すばらしい。食い出がある。期待外れに違いは無いけど、これはこれでいいスパイスだ。さらに実るなんて誰が想像できる? ボクには無理だ。きみたちみたいな豊かな想像力を持っていないからね」
陽介の言葉など聞いていないかのように幻燈の少女が一人でに喋り続ける。
その言葉の意味など、その場の誰しも分かりはしない。分かりたくはない。
ただ、一つの事実だけを理解する。
衝撃の硬直から解かれた要も、その身に寄り添っていた必も、遠くで倒れていた白滝と紫咲も、特対官として豊富な知見から唯一絶対の事実に辿り着く。
これは――こいつは――。
「人型、虚虜……!」
その声を発したのが誰だったのか、あるいは自分自身だったのか。
要には分からなかった。そんなことを考えている余裕すらも、その事実の前では無くなってしまった。
本来、生態系のあらゆる存在とも全く異なる見た目や容姿をしている虚虜。
体格も骨格も、物理法則すらも無視した異形の怪物ども。
だが、まれにそんな怪物たちの中に、常軌を逸した存在が確認されることがある。
見た目だけなら、どこにでもいる平凡なそれ。
しかし、纏うは強烈な違和感。
まるで世界からその存在を否定されたがゆえに、世界が――あらゆる正常な生物たちがその存在を認めていないかのような、本能から生じる圧倒的な忌避感。
生まれながらに心の奥底に刻まれた、言い様の無い嫌悪感。
見た目だけなら人とそん色のないその異形は、人型虚虜と呼称される。
その危険性は、並の虚虜の比では無い。
天災に例えられる虚虜の中でも特に珍しく、危険視されるその暴威は、容易に都市一つすらも壊滅せしめ、文献を紐解けば、はるかな昔に国一つすら滅ぼしたともされている。
あり得ない。なんだこれは。なんでこんな存在が突如として、この瞬間、狙いすましたように現れる。
理解不能な事態に常に冷静さを保っていた要も混乱しかけていた。だが、その手を必が強く握ったことで冷静さを取り戻す。取り乱してはいけない、と強く自覚する。
「じゃあ、次はどうしようか。鬼ごっこがいいかな? それともかくれんぼ? 幼子はみんな好きだよね。ボクも好きなんだ。逃げて隠れて、必死に駆けずっているきみたちを追いかけるのは。頑張れ頑張れ、あとひと踏ん張りだ。まだいけるよ。そんな風に応援したくなる。そして最後に足を止めたきみたちには、頬ずりしたくなるほどの愛おしさを覚えるんだ。不思議だよね。心の無いボクがきみたちに頬ずりしたくなるんだ。どうしてだろう? 誰か、分かる?」
ふざけた調子で一人語りを続ける幻燈の少女。誰も言葉を返せないその状況で全員を見回し、取り繕っただけのような不気味な笑みを浮かべる。
「分からないよね。ボクも分からない。きみたちの心は分からない。でも、興味と食指は止まらないんだ。不思議だよ」
いつまでも喋り続けるその怪物を、陽介はただ黙って睨み続けていた。ぐったりと血を流し、今にも命の欠片を零し続ける少女を抱きしめながら、大切な宝物を傷つけたその怪物を許さないと言外に語っていた。
誰もが息を呑んで事態を見守る中で、真っ先に動き出したのは、彼女だった。
濃藍色の髪を揺らし、呆けた同調者を一人置いて、強力な身体能力を用いて一歩で幻燈の少女の懐に飛び込む。
「ふざけんなや、この腐れカスがッ‼」
怒声を上げた紫咲が、首元を掻きむしって鮮血を滴らせる。宙を舞った鮮血は、まるで生き物のように紫咲の指示に従い、鋭い刃となって幻燈の少女に襲い掛かった。
「ひどいなぁ、ボクにはアセナって名前があるんだ。きみたちを見習って、自分で考えたんだよ。いい名前だろう。名前は恐怖の象徴になる。忌み名があるから人は恐れ、絶望する。だから良い名前を考えたんだ。きみたちが聞くだけで、震えるようなそんな名前をね」
「やったらそりゃ勘違いや! 誰もお前なんぞ恐れんわ、間抜けがッ‼」
幻燈の少女――アセナを鮮血の刃が襲う。迫り来る攻撃を前に、幻燈の少女は動くことすらしなかった。振るわれた一撃を冷静に見つめ続ける。その観察は、鮮血が自身を襲うその瞬間まで続いた。
「――ゼーンズフト」
「は……?」
アセナを鮮血の刃が襲う。その瞬間、まるで弾かれるように鮮血が飛び散った。形すら保てずあっさりと打ち砕かれる。
それを成したのは、アセナの身体から湧き出た青白く光る血のような液体の刃。まるで紫咲の生み出した鮮血の刃を模したような蒼白の刃が、そのまま、紫咲の身体を穿った。
「がは……っ」
蒼白の刃に貫かれ、紫咲の身体が宙に持ち上げられる。そのままゴミでも捨てるようにして、無造作に放り投げられた。小さな身体が地面に落ち、何度も跳ねる。
「悪くないね。やっぱり心があるきみたちの想像力には感嘆するよ。心躍る、というのかな。自分の身体を流れる体液を武器にするなんて、面白い発想――虚虜たちは思いつけない」
地面に倒れた紫咲は、力尽きたように動かない。
元々、彼女も激戦続きで疲弊していた。それでも対峙して戦ってきたからこそ、要たちにはその強さを身を持って知っている。そんな彼女が、あっさりと一蹴された。
「けど、少しおかしいな。心も記憶も奪われて、人間ですらない虚子たちが、まるで人であると訴えるように血を見せつける。認めたくないんだね。自分が人間よりも、ボクたちの側だなんて。健気だね。可愛らしくもある。虚子じゃなければ、きっとボクはきみのその在り様を気に入っていたよ」
誉めそやすようなその口ぶりだが、言葉の端々には多分な侮蔑が含まれている。心が無いと語る彼女にはそんな自覚も無いだろうが、その言葉を聞いた要たちには、それが虚子と呼ばれる彼ら彼女らにとって最大級の侮辱であると悟った。
「ふ、ざ……けんな、や」
倒れた紫咲の指が動く。もがくように地面を掻きむしり、ボロボロの身体を引きずるようにして立ち上がる。
「あぁ? 誰がなんやて? 笑わせんな。うちはお前らでも、ましてや人間でも無い。虚子や。失ったんや、無くしたんや。そんなもん分かっとる。受け入れとる。勝手に値踏みすんなや。うちはうちであることを、認めたくないなんて思ったことは、一度としてないわ!」
思いの丈をぶつける紫咲に、アセナは目を細めた。それから自身の身体を掻き抱くようにして身震いし、小さく吐息を漏らす。
「いいよ……。あぁ、残念だ。きみがただの残り滓だなんて、こんなに悲しいことは無い。きみを喰らった悪い子は誰かな? 羨ましくて仕方ない。誰かの食べかすなんて、気持ち悪くて仕方のないものに、初めて心震えたよ」
「ざけんな……お前ら虚虜は、心なんてはなから持ってないやろうが」
「あ、ばれた? でも、本能で乞い求めるのは、同じだよ」
アセナの右手に蒼白の刃が形成される。身の丈を優に超えるその刃は、触れれば空気さえも切り裂かんばかりの脅威を秘めている。
「しら、たきぃッ!」
「ああ!」
自身に迫る脅威を察して、紫咲は背後に向かって血液を伸ばしていた。同時に白滝が走り出し、その血液に向かって手を伸ばす。
「でもね、乞い求めても手に入らないものほど虚しいものは無い。そんなものは見ていられない。だから、きみはボクが終わらせてあげる」
蒼白の刃が振り下ろされる。
それとほぼ同時、白滝の手が紫咲の血液に触れた。
『――相剋』
血飛沫が降り注ぐ。
雨のように降り注ぐ血液が渦を巻き、白滝の身体を覆い尽くしていく。その時にはすでに紫咲の身体は消え去り、アセナの振り下ろした蒼白の刃は空を裂いた。
「あらら?」
手ごたえの無い感触にわざとらしく首を傾げるアセナの横っ面に、固めた血騎士の拳が叩き込まれた。
相剋状態の膂力でもって、殴り飛ばされたアセナが彼方の方向に吹き飛んでいく。
その光景を眺めながら、はっと気づいたように要は必の手を握りしめた。
いつまでぼんやりと眺めているつもりだ。
「必、やれるか!」
「当たり前! 要は、大丈夫?」
「やるしかないだろ!」
ひとたび動くだけで骨が軋む膝が震える。悲鳴を上げる肉体を無視して、要は必と手を重ねた。指を紡ぎ、意識を合わせる。
『――相剋』
白銀が舞う。
必と一体化した要は、すぐさま地を駆けて床に転がった黒刀を拾い上げる。その一瞬、通り過ぎ様に陽介と視線がぶつかる。彼の目は、まだ死んでいない。その手に大事そうにひなみを抱きかかえ、力になれない己に悔しげに唇を嚙んでいる。
「虚子は人間よりも頑丈だ! 守り抜け!」
それだけを叫び、要は方向転換して吹き飛んでいったアセナの方へ向かっていく。
要の言葉を受けた陽介は、小さく頷いた。
要の握りしめた黒刀が白銀へと変わる。必の力で満ちたその武器を握り、ゆらりと立ち上がるアセナに向かって要は切りかかった。
「――ゼーンズフト」
蒼白が舞う。
青白い光の粒子が周囲を覆い尽くし、アセナの握った蒼白の刃が光の粒子で包まれる。不吉を彩るその一言を前に、要は迷いなく白刀を振り下ろした。迷えばやられると、そう本能的に察していた。
「呆けてたわりに動けるやないかっ!」
要のすぐ隣で少女の声が響く。血鎧を纏う白滝の身体から伸びた血液の一部が、どう猛な少女の声を発していた。
血騎士の手には、長大な血鎌が握られている。その一閃は、すでにアセナへと向かっていた。
「絶望が足りないよ」
三者の武器がぶつかり合う。
その瞬間、大爆発が巻き起こった。
爆音と業火が轟き、激しい爆風に要は来た道を引き返す。
凄まじい衝撃波にあおられるようにゴロゴロと地面を転がりながら、要は先の現象を冷静に分析していた。
先ほどの爆発――あれは要たちの力では無い。
白滝たちを巻き込まないように、要は刀の一撃に爆発の力は込めなかった。込めたのは、もう一つ――断熱膨張による冷却の力。アセナを凍り付かせるために解き放ったその力は、刃同士が噛み合った瞬間、確かに効果を発揮し、アセナの蒼白の刃をほんの少しだけ凍り付かせることに成功した。
だが、その直後に爆発が起こった。
要たちの異能では無い。もちろん、白滝たちの力でも無い。彼らの異能の本質は、血を操ることにあり、爆発の力は持ちえないはずだ。
となれば、その爆発は誰が放ったのか。考えるまでも無い。
「まさか――」
「――わたしの、力を?」
愕然とした表情で固まる要たちの視界の先で、爆風を振り払うように周囲に冷気が吹き荒れた。
一歩、進むたびに地面が凍り付く。歩む先全てを氷の牢獄に閉じ込めるかのように、想像を絶する冷気を纏いながら、幻燈の白髪を揺らしてアセナが姿を見せる。
「まだだよ。まだ、そこまでじゃないよね。足りてない。全然、全く、これっぽちも、足りていない。きみたちの誰一人、絶望を抱いていない。だから、折れないで。心を強く持って。まだ、まだやれるよね?」
次の瞬間、空間全体が極寒に包まれた。
周囲一帯が凍り付く。要や白滝、陽介を除いて、世界全てが氷の白で染まる。
それを成した怪物は、ほぅ、と白い息を吐き出した。
「身を刺すような冷たい世界――この風景に相応しい一句でもそらんじてみせようか? 好きだろう、きみたちは。そういうの」
笑って、哂って、ただ嗤う。
何も楽しくないのに、何も心躍らないのに、何も胸を突き動かさないのに、まるでそうすることが当然のように、アセナは口元に笑みを浮かべる。
異常、異様、違和。
全く理解しきれないその在り様は、まさしく虚虜のそれに相応しい。
「気に入ったよ。きみたちは食べがいがある。けど、まだだ。まだだめ。まだ足りていない。大事に水をあげる。餌もたくさん、色んなものを好きなだけ。きみたちが肥え太って、熟れて食べごろになるその時まで、心ゆくまでたくさんの――絶望をあげる」
理解不能なアセナの言葉の意味するところを考えることを無視して、要が立ち上がって白刀を構えたその刹那――
――空間全体を覆いつくすほどの大爆発が轟いた。




