第四章 ⑦
痛い。
呼吸が乱れる。肺が潰れそうだ。
ほんのわずかな距離が、まるで永遠に感じられる。恐怖で足はもつれ、心臓は痛いほどに高鳴っている。何より周囲一帯にまかれた冷気のせいで肺が痛い。
あのアニキは、こういうことを考えなかったのだろうか。
そんなことを思って、陽介は内心で笑う。
そんな余裕があるわけも無く、彼自身、余裕ぶっている場合でもない。
だが、そう思ってしまう。
背中を、押してくれた。
自分よりも年若い少年と、その少年の妹であり虚子でもある少女が、彼の背中を押して、道行を作ってくれた。
レイロンで初めて会った時は、なんだこいつら、と思ったものだが、特対官と聞いてその評価は逆転した。自分たちが憧れた正式な特対官、虚虜と戦う本物のヒーロー。
それは一年前、陽介とひなみが絶望の中で見た希望の光に似ていた。
態度も振る舞いも全く逆だ。
彼女は、まさしくヒーローだった。虚虜に襲われて虚子と化したひなみと出会い、どうすることも出来ずにおろおろと立ち尽くす陽介に迫っていた危機を、刀の一振りで払いのけ、太陽のような笑顔で二人を救ってくれた。
要は、そんなヒーロー像とは真逆だ。彼は陽介をチンピラと言うが、自分もそうだという自覚が無いのだろうか。勢いで殴ったり蹴られたり、なかなか散々な目に遭わされた気がする。
それでも、何故だか重ねて見えたのだ。
かつて自分を救ってくれたあの輝かしい背中に、要のやる気のない猫背気味のそれが重なって見えた。
だからこそ、かつての光を思い出してしまったのだ。
自分たちが何を想い、何に憧れ、何を目指したのか。
ヒーローになりたかった?
いいや、違う。そんなことは取り繕った言い訳でしかない。
だって、言えるはずが無いだろう。
あの日あの時、初めて出会い、心を通わせた虚子の少女に対して、心底から心を通い合わせたあの同調者と虚子のように、お互いを想い合える関係になりたいなんて。
恋なのだろうか。おそらく、違うんだろう。
きっとそんな甘酸っぱいものでは無くて、もっと心底から湧き上がる、当たり前の祈り。
ただそばに――そばにいたいし、そばにいてほしい。
当たり前のように体現する二人の姿に、憧れてしまった。
自分も――自分たちもああなりたいと、心底から願った。
「ひなみ!」
要が作り出した氷の道の最後の一段を駆けあがり、陽介は揺りかごの中で眠る少女に手を伸ばす。震えるように全身を丸めて、大粒の涙を浮かべる大切な少女の手を握る。
「ひなみ! 来た、来たんだ! ここにいるよ!」
大声で名前を呼ぶ。形にならない思いのたけを、ただ叫びによって昇華させる。感情も思考もぐちゃぐちゃで、気の利いた言葉なんて思い浮かばない。元々、陽介はそういう性質ではない。
だから、ただひたすらに名前を呼ぶ。彼女が自身をヨウくんと呼んでくれた時、むず痒くも温かな気持ちに満たされたことを思い出したから、同じように彼女の名前を繰り返す。
「ヨウ、く、ん……?」
ひなみの目が開かれる。彷徨うように視線が宙を踊った後、焦点を結んだのか、その視界に陽介を捉えた。その表情が驚愕に見開かれ、陽介が握った手を振り払う。
「だめ!」
「ひ、なみ?」
振り払われた手がじんじんと痛む。愕然とする陽介に、ひなみは、だめだめ、と繰り返す。
「だめだよ、ヨウくん……。なんで来ちゃったの……。だめ、絶対にだめ……ひなみは、もう、限界なんだよ……?」
顔を伏せたひなみの声は、震えていた。いやいやと首を振り、彼女は陽介を拒絶する。自分の今の状況が理解できているのだろう。だからこそ、陽介を巻き込みかねないこの状況をただ恐れていた。
「ひなみ、聞いてくれ」
「いや……聞きたくない。聞かせないで。もう、いいの……ひなみはいいの……」
耳を塞ぎ、陽介の言葉を聞くまいと駄々をこねる。そんな彼女に、陽介は優しく語りかけた。
「ひなみは良くても、俺がダメなんだ。知ってるだろ。俺は、やれば出来るけどやる気が無くて、詰めが甘いんだ。だから、いつも何をしても失敗する。上手くいかない。ひなみがいないと、何にもできないんだよ」
「……できるよぉ……。ひなみがいなくても、ヨウくんならなんでもできる……だから、来ないで。逃げて……嫌なの。ひなみは、ヨウくんを傷つけたくない……ッ!」
どこかで氷の割れる音がする。
要の力によって氷漬けにされていた無数の茨が、圧力を増して氷を割り始めているのだ。その拘束が解かれるのも時間の問題だ。
再びの氷を放つほどの力は、いくら要たちでも残されていないだろう。
そうなれば、やがてはひなみの力が陽介に牙を向く。彼女の宝物が壊れてしまう。
ひなみは、それを恐れている。
陽介は笑う。相も変わらず人のことばかりで、その不器用さに笑ってしまう。
もっと、強欲になればいいのに。失った飢餓感に突き動かされる虚ろなる子どもだと言うなら、その本能に従えば楽なのに、彼女はいつも不器用だ。他者を思いやり、自身を顧みない。こんな状況になっても陽介の心配ばかりで、助けてなんて一言も言わない。
ああ、と陽介は小さく息をこぼす。
自分はこの光に魅せられたのだと、初めて気づいた。
炎が燃え盛る街中で初めて見た時、何故かどうしようもなく心惹かれた。
同調者とか虚子とか、何一つ興味が無かったのに、何故かその姿を恐れることなく受け入れることが出来た。
ひなみもまた、自分を受け入れてくれたのだと思う。きっと彼女も、陽介の中の何かを見たのだろう。
あの時から、ひなみはずっと変わらない。何一つ、変わらないままに壊れかけている。
「俺は傷つかない。何も、何一つ、傷つかない。約束する」
陽介は、再びひなみに向かって手を伸ばす。彼女の方からその手を取ってくれるのを待つ。
「ヨウくん……?」
「初めて会ったあの日、あの時、言えなかった言葉があったんだ。言うのが恥ずかしくて、その後に虚虜に襲われて、色々とうやむやになったけど……けど、言いたかった」
「な、にを……」
炎あふれる街で、絶望の中で見た唯一の希望の光。
心を失い、記憶も曖昧で、それでもただ必死になって絶望の中を彷徨う自身を救い、導いてくれた少女。
何もかも失い、死んでもいいとそう思っていた陽介が踏みとどまれたのは、この少女が頬を叩き、背中を押してくれたからだ。
「――ありがとう。自分がどうなっているかも分からない状況で、不安でいっぱいなはずなのに、それでも俺なんかを気遣ってくれて。あの時からずっと、俺はひなみに感謝してる。だから、今度は俺にひなみを支えさせてほしい。俺ともう一度、一緒に」
ひなみの瞳が見開かれる。
差し向けられた手を一心に見つめる。
次第に表情が歪み、大粒の涙が頬を零れていく。
彼女の心は、陽介の示した覚悟をしっかりと見た。彼が何を差し出そうとしているのかを、理解した。
「いいの……心が、壊れちゃうかもしれないんだよ……」
「それでもひなみがいる。失った記憶も心も、お前と作っていけたらと思うよ」
「ひなみ、すっごい、わがままだよ。ヨウくんの味を知ったら、いっぱい食べちゃうかもしれないよ……」
「好きにしてくれ。今まで、我慢してきたんだ。ちょっとくらい多めに食べても、罰は当たらないさ」
「ずっと……ずっと、そばにいてくれるの? 小さな女の子がそばにいたら、恋人だって作れないよ……?」
「あー……まぁ、それは。ひなみがいるって……いうのはちょっと絵面的に言いづらいんだけど、まぁ」
「なにそれ……浮気するの?」
「え、え、ええ? そうなる?」
「なるよ!」
怒ったように頬を膨らませて笑い、ひなみは陽介の手を取る。その瞬間、二人の間を光が循環する。互いの心が同調を始め、虚子の欠けたそこを陽介の想いが満たしていく。
それだけでは無い。
陽介は、初めて心の中から何かが欠けていく感覚を覚えた。それはかつての同調時には感じなかったもの。ひなみが行わなかった、心を喰らわれる感覚。それはほんの少しの痛みと悲しみを伴って、終わった頃には失ったことすら分からなくなる。
だから、陽介は失ったそこを目の前の少女の涙交じりの笑顔で埋めた。記憶に刻み、忘れるものかと決意する。
「ヨウくん……ヨウくん」
ひなみの甘えた声が耳朶を打つ。その甘美な響きに、陽介は胸が擽られる想いだった。
「約束するよ。もう二度と手放さない。だから、ひなみ。お前も約束してくれ。一人で抱え込まないって、無理しないって。しんどくなったら俺を頼ってくれ」
陽介の祈りにも似た願いに、ひなみは小さく笑って頷きながら、冗談めかした言葉を送る。
「えぇ、でもヨウくん……結構、適当だからなぁ」
くすくすと笑うその姿は、かつての記憶そのもので、陽介は少しだけ涙ぐんだ。
「じゃあ、何でも言ってくれ。なんでも一個だけ、お願い聞いてやる」
「ふーん……じゃあね」
陽介の気合のこもった言葉に、考えるような仕草を見せた後、ひなみは無邪気な笑みと共に告げた。
「指輪、ほしい。ここにはめる指輪。大事な指輪」
「は……」
「じょーだん!」
左手の薬指を撫でていたひなみが、呆気に取られる陽介をよそに立ち上がった。揺りかごから一歩踏み出し、異能の光で輝く右手を掲げる。
「もう、いいよ。みんなありがとう。ひなみを、守ろうとしてくれたんだね」
慈しむように、自身の異能で生み出した植物の数々をひなみは見つめる。彼女の言葉を引き金に、色とりどりの植物が光の粒子となって泡と消えていく。幻想的な光が空間全体を包み込み、やがて陽介とひなみがいる揺りかごもおぼろげな光へと変わっていく。
「お、おい、ひなみ。これ、落ちるんじゃ」
「大丈夫だよ」
足元が薄く透き通り始めて慌てる陽介に、ひなみは手を伸ばした。陽介がひなみの手を取ると、揺りかごから伸びた蔦が二人の身体を支え、静かに地面に下ろす。先ほどまで陽介を襲っていたとは思えないほど、その力は優しく温かみに溢れている。
二人が地面に降りると同時に、揺りかごも蔦も光の粒子となって消失した。
「あ、そうだ。アニキ!」
陽介は、思い出したように要たちの方を振り返った。背中を押してくれた恩人に無事を伝えるように手を振る。
要は、疲れ切った表情で地面に腰を下ろしていた。ぼろぼろの様子で少しだけ口元を緩めている。その隣には、必が彼に寄りかかるようにして座っている。二人ともぼろぼろで、陽介たちのためにどれだけ尽力してくれたかがよく分かる。
陽介は、感謝の気持ちで一杯だった。一刻も早く、この感謝の気持ちを形にしたい。
そう思い、走り出そうとして、何かが引っ掛かった。
それはほんの些細な違和感――何かを見落としているようで、ずきりと頭が痛む。
何か、何かを忘れてしまっているような――。
――すごいね。本能に抗って、心を抑えて、大切な人を守り続けている。本当にすごい。でも、残念だ。もう虚子には興味が無いんだ。
頭の中で声が響く。思い出さないように記憶の底に封じていた過去の光景が、何故だか蘇る。
ひなみが戻ってきてくれた安堵感のせいか、目を逸らしていた過去の後悔がフラッシュバックのように流れていく。
――けど、きみの心もそこまで食欲をそそらないね。希望も絶望も、愛も悲しみも、勇気も恐怖も、足りていない。だから、ボクが味付けをしてあげる。いつか、きみが、きみたちが全てを乗り越えたその時。
なんだ。誰の声だ。
いや、違う。覚えている。忘れてなどいない。記憶に蓋をして、見ないようにしていただけだ。刻まれた恐怖と後悔が鮮烈過ぎて、目を逸らしてしまっていた。
ずっとその声は響いていた。陽介の頭の中で、何度もリフレインし、そのたびに心の安定を保つため、忘れたふりをし続けた。
――きみの心が熟れた果実みたいに食べごろになったその時に。
陽介の背筋が粟立つ。
それは、ほとんど直感のようなものだった。
何かに突き動かされるように、陽介はひなみを振り返る。
――ボクが全てを喰らってあげるよ。
「ヨウ、くん」
震えるひなみの声がどこか遠くから聞こえる。
彼女の瞳が揺れ動き、小さな身体が跳ねて――
――鮮血が舞った。




