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第三章 ⑨

 さだめと紫咲が苛烈極まる戦闘を行っていたちょうどその頃、陽介を追いかけて地下鉄に降りた要は、途方に暮れていた。


 辺り一面に広がる暗闇。どこかでぽちゃりと小さな水の音だけを響かせるそこは、かつては駅であっただろうと思われる最低限の設備だけを残して、すっかり荒れ果てていた。


 光源らしいものは何も無く、スマホの明かりを頼りに周囲を見渡せば、地上以上の惨憺さんたんたる有様と化している。おそらく、特殊災害が起きたその当時に虚虜デーヴァの被害に遭ったのだろう。そのまま修復もされずに放置された結果、経年による劣化が加速したのか、なんとかかつて地下鉄であったと思われる名残だけが残っている。


 朽ちたエスカレータの手すりに触れる。劣化の影響か、合成ゴムの加水分解によるべたついた感触に要は眉をひそめた。


 見上げた行先表示の案内表示がもの悲しさを漂わせている。どこにもたどり着けないその表示は、行くあてを失って久しく、矢印の指し示す先は瓦礫に覆われ、先をうかがい知ることは出来ない。


 特殊災害発生当時、虚虜は望島うらじまを起点に本土に上陸し、あらゆるルートを通って人口の密集地へ侵攻した。そのルートの一つがこの地下鉄であったのだろう。上は高速道路から、下は地下鉄まで渡って、大規模な虚虜の侵攻は周囲へと甚大な被害を及ぼしたとされている。


 当時はニュースでその過酷な様を目の当たりにした要だが、特対官としてあらゆる虚虜との戦いを経験した今、当時のそれがどれほど大きな悲劇であったかを思い知る。


 いや、実際に一年前の特災テロを経験したことを思えば、彼も被災者の一人だ。


 無意識に、災害の痕を色濃く残す目の前の光景に唇を強く噛んだ。


 レイロンを入った時には、人の手によって見事に造り替えられたその被災地の現状にややも圧倒されたものだが、この地下鉄は光が一切届かない状況ゆえか、そうした改築の結果は見られず、それゆえに当時の災害の痕跡が色濃く残っている。


 この場所を訪れる前は、人が隠れるには適した場所だと思ったものだが、これほど暗闇に覆われた場所をわざわざ拠点とする者もいなかったのだろう。


 地面には亀裂が走り、漏れ出た地下水によって浸水したその場所は、とても人が住める環境には思えなかった。


 一歩一歩、警戒しながら先を進む。


 虚虜による被害ゆえか、広かったであろう地下構内は、ところどころ崩落して瓦礫に覆われている。壁には、虚虜が強引に進んだと思われる巨大な穴がいくつも開いており、よくもまぁ安定して空間を保っているものだと感心する。


 何か大きな衝撃を受けてしまえば、たちまちに天井は崩れてしまうかもしれない。そんな危機感を抱いてしまうには、奇跡のようなバランスでその広大な空間を維持していた。


 陽介を追いかけて地下へ入った要だが、その姿をすっかり見失ってしまっていた。


 地下の様子に圧倒されたこともそうだが、何よりこの暗さだ。


 地下に入って即座にスマホの明かりで周囲を照らした要だが、その時には陽介の姿はどこにも無かった。明かりすら見えない。


 まさか、この暗闇を明かりも無しに進んでいるのだろうか。


 あり得ない。だが、実際に彼の姿が見えないのだから、そう判断するしかない。


 そもそも、何故、足も止めずにこの地下を進んでいったのか。そこからして要はまず疑問だった。


 仮に一連の話を聞き、興味を惹かれて地下鉄に向かったまでは分かる。いや、納得も理解も全く出来ない思考回路だが、そこまではまだ分かる。だが、普通はこの暗闇に圧倒され、この惨状に足を止めるだろう。地下鉄の階段を降りたところで足を止め、あるいは引き返すのが正常な判断では無いだろうか。


 だが、地下鉄を降りた先に陽介の姿は無かった。彼はこの暗闇を進んでいったのだ。


 軽薄で愚かな男だとは思っていたが、危機感に欠けるタイプには見えなかった。


 要は、陽介の一連の行動に違和感を覚えていた。そうなると、嫌な予想も頭に浮かぶ。


 あの男は、地下鉄に降りて自ら先に進んだのではなく、降りた後に何かに連れ去られたので無いだろうか。


 元々、要は地下に虚虜が潜んでいることを懸念していた。それに失踪者の話もある。


 虚虜が地下に降りてきた陽介を連れ去ったのだとすれば、彼が姿を消したことにも得心が行く。むしろ、その可能性が一番高いようにすら思われる。


 確証はなかったが、相応の警戒心をもって要は先に進んでいく。どこに行けば良いかも分からないが、まずは進める先に向かっていくしかない。大声を出して陽介を呼ぶことも考えたが、なんだかその行動は躊躇われた。


 単純な理由として、あの身勝手な男の名前を大声で呼び、迎えに来たと知らせる行動に忌避感を覚えた。


 何故、あんな男を心配して名前を大声で呼ばなければいけないのか。


 必に言われた手前、追いかけてきたが、そもそもその妹と離れる原因を作ったのもあの男だ。


 もちろん、そんな感情的な理由ばかりではないが。


 本当に陽介が連れ去られたのだとすれば、ここには何かが――要の予想では虚虜が潜んでいる可能性が大いにある。明かりを付けている手前、今更の感はあるが、無警戒に自身の存在を大声で知らせるのは避けた方がいいだろう。それに本当に連れ去られているとすれば、返事があるとも思えない。


 先の見えない地下の駅構内を進んでいると、要は何かに足を取られた。ゆっくりと進んでいたおかげで何とか体勢を崩すことだけは避け、踏みつけたそれにスマホの明かりを向ける。


 そこには、白骨が転がっていた。


 死後、何年も経過して朽ちた何者かの遺体がそこに転がっている。ただ一人、打ち捨てられたようにそこにいる死体に目を細め、次いでその脇に転がっているあるものに気付く。


 恐る恐る手を伸ばす。埃の被ったそれを拾い上げると、予想通り、見覚えのあるものだった。


(旧式の、特対官専用の武器か)


 政府からライセンス発行された特対官には、望みに応じて自身の戦闘スタイルに特化した武具が支給される。要などは汎用型の、刀と警棒に変形可能な武具を支給されている。


 要が拾い上げたのは、その特対官専用の武具だった。形状から汎用的な刀だが、要が支給される物と異なり、旧式のものだ。刀や警棒への変形機構を持たないことが特徴である。


 手にした刀を馴染ませるように何度か振るう。使用感は要が支給されているものと大きく変わらない。変形機構は存在しない旧式だが、今は不要だろう。


 何より、特対官に正式に支給される武器は、一般の武器とは大きく異なり、高い耐久性を兼ね備えている。強固な肉体を持つ虚虜と渡り合うために研究を重ねて造られたそれらは、その高い威力から大型の獣すらも一撃のもとに屠ることが可能だ。もちろん、使い手の腕次第ではある。


 必に武器を渡してしまっていた要には、ちょうど良い拾い物だった。


 白骨死体の方に目を向ける。おそらく、この遺体が持ち主だったのだろう。彼、あるいは彼女は、特対官だったのだろう。六年前の大規模特殊災害に際して、解決のために力を振るい、力及ばず倒れた。そのまま誰からも忘れ去られ、この暗闇の中、一人で朽ちていったのだろう。


「借りていくぞ」


 名も知らぬ先達に敬意を示し、要は刀を握りしめると、再び歩み始める。武器を手に入れたことで、少しは大胆に行動できそうだ。これならば、そう簡単に虚虜に後れを取ることも無いだろう。


 足元に注意しながら奥へと進み、中折れした改札ドアを通って駅のホームへと入る。


 聞こえてくるのは自分の足音か、あるいは水漏れした水滴が跳ねる音ばかりだ。その他は一切の物音もせず、気配すら感じられない。


 駅のホームはがらんとしている。元々、半分以上が車両の通る線路ゆえか、目に見えて分かるような被害の痕は少ない。要は穴の開いた地面を避けるように進み、途中で線路に飛び降りた。進む先はただの勘に過ぎなかったが、この暗闇で道の制限されている中で、人が取り得るルートなどそう多くは無いだろう。


 問題は線路を前後のいずれに進むかだ。


 前後を振り返ってもそこに違いは無く、下を照らしても人が進んだ形跡など見つけられるわけもない。少し迷い、要は道なりに真っすぐ進むことに決めた。ここまで前に進んできた人間が、わざわざ反転して後ろに進むことは無いだろうとの当てずっぽうである。


(くそ、はやく必のところに戻ってやらないといけないのに)


 内心で悪態をつく。


 心配なのは、一人残してきた妹の方だ。今頃、パソ子の家で襲撃してきた濃藍色の髪をした虚子トリシュナの少女と激闘を繰り広げていることだろう。あの少女の実力のほどは、能力も含めて未知数であり、安心できる材料は何一つ無い。必は虚子の中でも戦闘に特化した強力な異能を持つが、一方で制御に難があり、一対一の戦闘を得意としているわけでも無いのだ。一方でパソ子の家で少し戦いぶりを見た限りでも、あの濃藍色の髪の少女は戦闘に秀でているように見えた。


 苛立ちをぶつけるように、少しだけ足を速める。地面を踏む力が強まり、静寂の中にその足音が大きく響いた。


 音が反響する。何度も何度も地下を木霊し、それは連鎖を繰り返す。


 足音が繰り返される。何度も地下を響き渡る。


 すでに要は足を止めているというのに、足音が止まらない。


「――ッ!」


 その違和感に要が気づいた時には、すでにそれは要の目前に迫っていた。


 獣である。


 見た目からして大型の四足歩行の犬、あるいは狼のように見える獣。長い尾を持ち、手足に鋭い爪を光らせている。犬や狼と異なる点と言えば、その頭部だろう。まるで花が開くように、頭部がぱっくりと割れ、無数の蔓のようなものが頭部から生えている。


 明らかに生態系から逸脱した姿。


 人とも獣とも異なる、慮外の化け物。


 虚虜だ。


 虚虜の爪の一撃を間一髪、刀で受け止め、反射で威力を殺すように身体を流す。


 勢いを流された虚虜は、自身の勢いで地面を転がった。だが、その勢いは止まらない。転がったまま無理矢理に態勢を立て直し、再び要にその猛威を向ける。


 視界不良の中で何とかその動きを捉え、要は刀を構えた。すでにスマホは手元を離れ、地面を転がってわずかばかりに辺りを照らしている。


「ずいぶん、小型だな」


 虚虜のサイズに決まりはない。それこそ建物よりも巨大なものもいれば、目の前のように小さな個体もいる。一つ言えることは、そのサイズこそが虚虜の危険性を示す一つの指標であるということだろう。


 大型とはいえ獣大サイズの虚虜では、特対官の相手にはなり得ない。


 先よりも余裕の動きで獣型の虚虜の攻撃を躱し、一刀のもとに切り伏せる。


 胴体を両断された虚虜は、地面に倒れた。だが、その手足は絶えず動き、頭部から伸びた蔓が不気味にうごめいている。生物足りえない怪物は、ただ身体を切り落とした程度ではまだまだ健在だ。


 もがく虚虜に近づき、要は刀を振り下ろす。頭部を両断し、その中にある核を粉砕した。


 存在核《、、、》とも呼ばれるそれは、虚虜の急所とされている。これを破壊することで、虚虜は完全に動きを停止する。


 存在核を壊されたことで動きを止めた虚虜を観察し、脅威が去ったことをしっかりと確認する。


(本当に虚虜がいるとはな)


 危機が去り、冷静になったことで改めて要は事実を再確認する。


 センリが予期していた懸念、潜伏した虚虜。それがこの地下に本当に存在していたのだ。地上で見た痕跡と照らし合わせてもそれは一致する。鋭い爪など良い例だろう。


 地面に転がっていたスマホを拾い上げ、そう分析したところで、要はふと思い出した。


(いや、こいつ……上で見た鱗が無いな。それにこのデカさじゃあの穴を通れるとは思えない)


 陽介が見たという現場のいたるところで見つけた爪の痕跡とは一致する。だが、陽介や必が見つけた鱗や穴の痕跡には一致しない。


 地面で伏して動かない虚虜を一瞥する。


 この虚虜は、地上で痕跡を残した虚虜とは異なる個体なのだろうか。


 複数の虚虜が存在するという嫌な予感が頭を過る。思えば、要を襲った虚虜は四足歩行で移動していた。そう、移動できるのだ。わざわざどこかに潜伏したり、人を攫って連れていく必要が無い。人間をその場で喰らい、次の場所へ移動することが出来る個体なのだ。


 そんな要の思考を遮るように、再びの足音が響いた。それもさっきよりも遥かに多い。


 音の方を振り返ってスマホの明かりを向けた要は、暗闇から突き出るようにおびただしい数の小型の怪物が大群のように押し寄せる光景を目にした。


「お、いおい」


 一体一体は小さい。それこそ、サイズで言えば、小動物よりやや大きい程度だ。長い尾と細長の胴体。後ろ足は無く、前足だけが地面に垂れるように伸びている。その前足の先には、胴体の半分ほどの大きさを持つ三本の鉤爪。頭は無く、首らしき部分からは細長の蔓が伸びている。その頭だけは、先ほどの大型犬サイズの虚虜によく似ている。


 小型の虚虜が迫る。


 地面を、壁を、天井を蹴り、四方八方から迫り来る。


 怒涛の突撃を前に――要は即座に動いた。


「群生型か!」


 群生型――いくつかある虚虜の形態の一つがそれだ。無数の虚虜がまるで群れを成すように存在し、一つの集合意識にもとづいて活動する。一見すると同型の虚虜が群れを作っているようにも見えるそれは、全てが同一個体から分離した肉体の一部だ。


 前方から迫る一体を刀で切り伏せ、立ち位置を素早く入れ替えながら次の一体を刀の柄で殴り飛ばす。絶えず迫る虚虜の攻撃を紙一重で躱し、次々と刀の一撃で屠っていく。存在核を探る暇など無い。まずは動きを封じることにのみ集中し、戦術も何も無く特攻するだけのそれらを撃退する。


 まるで踊るような動きで要は刀を振るう。時に壁面を蹴って空中で攻撃を回避し、天井すらも利用して三次元的な動きで虚虜の怒涛の攻めを凌駕する勢いで攻撃を続ける。


 全てが終わる頃には、辺り一面、無数の虚虜の死骸が転がっていた。中には偶然に存在核を破壊できたものもいれば、破壊できずに不気味に蠢くものもいる。だが、狙って虚虜の可動部を破壊したためか、もがくだけで大きく動き出すことは無かった。


 一連の激しい動きを終えても息一つ乱さず、要は足元の数えるのも億劫な量の虚虜を見る。群生型の虚虜は、身体を分離する分、一体一体の体積が小さく、脅威も低い。もちろん、数の暴力という観点で言えば、また意見は異なるが、一体を相手取るならまるで苦戦しない。


(群生型となると、さっきのデカいのもそうか? よく分からないな……だが少なくとも、この奥に本体がいるはずだ)


 立て続けに虚虜が現れた方角に目を向ける。まるで要の気配を嗅ぎつけたかのように虚虜が現れた。この先に、おそらくいるのだろう。先の虚虜たちの親玉、群生型の本体。


(あれだけの量を切り離せるってことは……本体は相当にデカいな)


 刀を握り直し、奥に向かって歩き出す。だが、その足は背後から聞こえてきた足音に止められた。


 またか、と再びのそれに煩わしさを感じながら振り返った要は、その光景に少しだけ目を見開いた。


 背後から何かが迫ってくる。動きは両手足を用いた類人猿のそれだ。片手に何かを抱えて走る姿は少し滑稽であり、その姿は相も変わらず生態系とは異なる歪な不気味さを備えている。存在そのものが人間に忌避されるために生まれたかのような、不気味なクリーチャーだ。


 見慣れたその虚虜の姿に、今さら要は驚いたわけでは無い。彼が驚いたのは、その虚虜が片手に抱えたものだった。


 少女だ。髪の長い少女がぐったりとした様子で虚虜に運ばれている。


 反射的に要の身体が動いていた。凄まじい勢いで猛獣のごとく移動する虚虜に迫り、少女を抱える方の手を切り落とす。


 鋭い刃が一瞬にして虚虜の腕を切り落とす。その反動で少女が宙を舞い、腕を切り落とされた虚虜が勢いよく地面を転がった。地面を削りながら進み、壁に激突して動きを止める。


 その行く末を見ることも無く、要は落下する少女をなんとか受け止めた。いわゆるお姫様抱っこの要領で少女の身体を抱え、そっと地面に下す。顔はぐったりしてやや苦しそうだが、外傷は見られない。


 少女を下す瞬間、その顔立ちに要は息を呑む。素直に美しい、とそう思えるほどに整った顔立ちをしていた。


 見惚れたのは一瞬のことであり、すぐに頭を切り替える。まるで芸術品のような人間離れした美しさだが、いつまでも思考を止めて見惚れているわけにもいかない。


 背後で大音響が鳴り響く。


 壁に激突した虚虜が立ち上がり、怒るように両手を地面に何度も叩きつけていた。ゴリラのドラミングを地面に変えたかのようだ。


 滑稽なその様を前に、要は口元を歪めた。


「お前らがいっちょ前にキレてんじゃねぇよ。感情も分からない化け物が」


 要の言葉を皮切りに、両者の姿が交錯した。


 虚虜の首が胴体から離れ、返す刀の一撃で頭部が粉砕され、その中にある存在核を打ち砕かれた。


 崩れて倒れる虚虜には目もくれず、要は少女のもとへ向かう。思わぬ闖入者だが、放置もしていられないだろう。


 ただでさえ陽介を捜しているのに面倒になったものだ。


 自分の不運さを少しだけ呪いながら、要はこれからの動きに頭を悩ませた。さすがにこんな虚虜だらけの場所に少女を置いていくわけにもいかない。そうなると一度、地上に戻る必要がある。


 だが、陽介の生存が危ぶまれる。腹立たしいし本音では助けてやる気もゼロに近いが、それでも必の頼みだ。見捨てるわけにはいかない。


「おい、あんた」


 地面で眠る少女に膝を下ろし、要は声をかける。それでも少女は起きないため、何度かペチペチとその頬を叩いた。少しして、少女が目を開く。


「あ、れ……ここ、はどこでしょうか?」


 状況が分からないのだろう。


 周囲を見回し、そのあまりの暗さに少女は驚いているようだ。その大きく透き通った瞳が要の方を向き、口元が柔らかな笑みを形作る。


「そう、いえば……私は、突然、虚虜に襲われて……あなたが、助けてくれたんでしょうか?」


 こんな状況にも関わらず、少女は驚くほどに穏やかな声音で問いかけてくる。その様子に要は少しだけげんなりした。状況が分からずに混乱して暴れられるのも困るが、まるで当然の如く要を救い主と想像する楽観性も恐ろしい。


 こんな暗闇の中で、虚虜に襲われたことも覚えていて、第一声が助けてくれたのかと問いかけてくる。まともな神経では、そうはならないだろう。普通の人間ならもっと動揺するはずだ。


 天然、いや、バカすぎるほどに素直で人を疑うことを知らないのだろうか。


 柔らかな笑みすら浮かべている少女に頭を悩ませつつ、要は淡々と説明した。


「あんた、虚虜に襲われた自覚はあるみたいだな。ここはレイロンの地下だ。それは分かるな? ここには虚虜の住処がある。だから早く逃げないといけない。立てるか?」


 理解する暇すら与える気も無く、そう要はまくしたてる。そのことに多少は切迫した状況であると認識したのだろう。少女の表情が少し困ったように歪んだ。


「すみません、私は足が動かないんです」

「どういうことだ。怪我でもしたのか?」


 身体を起こして少女が足に触れる。ワンピースで隠れて素足は見えないが、ケガをした様子は無いように見える。


「いえ……あの、間違ってはいませんが、ちょっと昔にです。足を怪我してしまって、二度と動かなくなってしまって。普段は車椅子を使っているんですけど、ここにさらわれた時になくしてしまったようですね」


 少しだけ冗談ぽく口にし、少女が小さく笑う。おそらく、要が重く受け止めないように配慮したのだろう。


 だが、そんなことに要は特に心を動かされることも無く、ただ淡々と事実だけを受け止めた。


 足の動かない少女では、自力で地上に戻ることも出来ない。


 暗闇の奥に目を向ける。おそらくその方向に陽介がいる。生死は不明だが、骨くらいは拾ってやらないと少し後味が悪い。


「あんた、名前は?」

「あ、そういえば名乗っていませんでしたね。私は、神島一片と言います。神島でも一片でも、好きによんでいただければ」

「じゃあ神島さん、あんたおんぶは平気か?」

「え? あの、それはどういう?」

「俺はあっちの奥にいかなきゃいけない。けど出口はこっちだ。あんたは自力で帰れないし、俺もあんたを上まで送ってやってる時間は無い。じゃあ、取り得る手は一つだ」


 刀を無理矢理に腰のベルト突き刺し、要は腰を下ろして背中を向けた。乗れ、と片手で指し示す。


「え、その……あの?」


 困惑する少女――一片。それもそうだろう。いきなり見知らぬ男に背中を向けられて、何も言わずにおんぶされる人間などいない。それは要も理解している。だが、そう迷っている時間も無い。


「あんたを運びながらあの奥に進むには、こうするしかないだろう」


 再びの仕草に、一片は迷いながら要の背中に手を伸ばした、腕の力で肩に触れ、少しずつ体重を預ける。要もそれを補助するように身体を近づけ、一気に抱えて立ち上がった。


「あ、あの!」


 勢いよく持ち上げられながら、一片が少しだけ大きな声を上げる。首元数センチの距離で響く声に、要は視線だけで振り返る。


「どうした?」

「あの、お名前を。あなたはなんというのでしょうか?」


 そう言えば、名乗り返していなかった。


 しっかりと一片の足を抱えて重心を安定させながら、要は名乗る。


「周防要だ。そっちも好きに呼んでくれていいぞ」

「では、要さんとお呼びさせてもらいます」


 馴れ馴れしい奴だな、とそう思いはしたものの、要は口に出すことは無かった。自分から好きに呼べと言った手前、そこに言及するのも自分勝手に過ぎるだろう。まさか本当に名前の方で呼ばれるとは思わなかったが、そのこと自体に何か不快感を覚えるかと言えば別にそうでもない。


 一片を抱えながら、要は奥に向かって進み始めた。危険極まりない行為であることは十分に承知しており、どこかで陽介探しを切り上げる必要があるだろう。最悪、彼のことは見捨てて一片だけでも避難させる必要がある。


(そのあとは、必と合流して、改めてこの奥にいるだろう虚虜を倒す)


 そもそも要たちの本来の目的はそれでは無い。陽介も、虚虜も、回り道に過ぎないのだ。あまり悠長にしてもいられない。


 外で戦っている必のこともある。どこかキリの良いところで切り上げて、逃げてくれていればいいが、もしあの濃藍色の少女の同調者まで現れていたらそれも難しくなるだろう。


 何を優先すべきか、感情と理性の間で混乱してしまいそうだ。


(次から次へと面倒事ばかり……)


 考えれば考えるほどに鬱々とした苛立ちが募っていく。自然と要の口数は減り、無意識に真っ暗闇の中を無造作に進んでいた。


「要さん、あの、暗くないでしょうか?」

「ん? ああ、そうか」


 一片に声をかけられ、スマホの明かりをつけていなかったことを思い出す。ズボンのポケットに突っ込んでいるために漏れ出た光だけがわずかばかりの光源と機能しているが、それでも暗い。


 一片を抱えるために両手が塞がっており、スマホの明かりを使うことを失念していた。要は片手でポケットからスマホを取り出し、それを一片に渡す。


「これを持って、明かりを前に向けてくれ」

「分かりました。これでいいです?」

「ああ、助かる」


 一片が安堵したように小さく息を吐く。冷静に余裕のような態度を見せていたが、内心は不安だったようだ。ずっと暗闇ばかりに包まれ、助けてくれた相手の顔もまともに分からないままに抱えられていたのだから、心情的には普通では無かったのだろう。


 一片のその不安げな様子に気づき、要は少しだけ表情を改めた。不満も苛立ちもあるが、背中には虚虜被害に巻き込まれた一般人がいる。特対官としての意識などかけら程度にしか持っていない自覚はあったが、被災者の気持ちまでないがしろにしたいわけでは無い。


「そういえば、要さんはどうしてここに? それに私を助けてくれたということは、まさか虚虜を?」


 明かりがあることでやや饒舌になったのか、一片は素直な疑問を口にする。ろくに説明もしないままにこんな状況なのだから、当然の問いではある。


「ここに虚虜がいるって聞いてな。俺は特対官だ」


 一片の問いに、要は端的に答えた。わざわざ自身の事情を事細かに説明する必要性は無いだろう。


「特対官……でも、お一人ですか? 虚子は……」

「まぁ、ちょっと今は離れててな。あとで合流するつもりだ。今は、この奥に向かったもう一人の一般人を捜してる。あんたからすればさっさと地上に戻してほしいだろうが、我慢してくれ」

「いえ……私は大丈夫です。今みたいに虚虜に襲われるのは初めてのことでは無いですから」


 一片の発言に、要は少しだけ得心が行く。妙に落ち着ていると思ったら、過去にも虚虜の被害に遭っていたのか。


 だが、それは決して良い思い出では無かったことだろう。


「あんた、どうしてこんな――レイロンなんかに? 見た限り、ここの住人じゃないだろう」


 暗闇のせいで分かりにくいが、一片の服は小奇麗でまるで新品の下ろしたてのようだった。見た目も十分に整えられており、特に長い髪は綺麗に手入れされて小汚さは微塵も無い。薄く赤みがかった頬も健康的であり、何より薄く化粧もされている。とてもその日を生きるのも精一杯なレイロンの住人の姿では無い。あるいはレイロンでも上下関係があるだろうし、上位の裕福といえる者たちはその限りでは無いのかもしれないが、少なくとも要には、一片の振る舞いも含めて、どこかの上流階級のお嬢様のような印象を受けた。


「ええ、そのとおりです。今日は……古い友達に会いに、ここに来たんです。ずっと探していて、ようやく見つかったんです」

「あんた一人で?」

「いいえ。私は足が不自由なものですから、お世話をしてくれる人たちと一緒に」


 お世話をしてくれる人、という言外のお嬢様発言に自分の考えが当たっていたことを確信しつつ、要は他の疑問も覚える。一片がどれだけの人数でここに来たのかは定かでは無いが、こんな入った瞬間から投石で襲われるような危険地帯にただの一般人が気軽に来られると考えるのはやや不自然だ。


 何かそうしたレイロンとの繋がりでもあったのだろうか。あるいは、本当に何人も人間をかき集めてここに来たのだろうか。そこで虚虜に襲われ、全滅して一片だけが連れ去られた。


 当たっているような気がしないでもない考えだが、それも少し不自然だろう。


 そもそも何故、足の不自由な彼女自身がここを訪れたのか。お世話をしてくれる者とやらを捜し人の迎えに寄越せば済む話では無いのだろうか。


 要にとってはどうでもいいことをつらつらと考えて黙っていると、そんな沈黙に何かを察したのだろう。一片は少し付け足した。


「私には、強力な護衛がいるんですよ。あなたと同じです。同調者と虚子の」

「ああ、そういうこと」


 政府公式のライセンスを持つ特対官以外にも、市井には同調者と虚子は存在する。彼らは公的には特対官として認められてはいないが、社会的にはその存在を認知され、様々な場面で重宝されている。いわゆるボディガードや用心棒、後ろ暗い話で言えば、それこそ闇社会の殺し屋の中にもいるという噂だ。


 特災に対抗し得る強力な同調者と虚子は、本来は政府によって一括管理されるべき存在である。だが、特災が無秩序に発生し、その結果として多くの虚子が生まれ、見つからないままに野に放たれてしまう以上、全てを管理し切るということは難しい。


 行く当てもなく彷徨った末にそうした虚子たちは、心通わせる同調者と出会い、その同調者に力を貸す。それがただの一般人であればまだいいだろう。だが、いわゆる裏社会に通ずる者に拾われてしまえば、その強大な力は十全に利用されることになる。


 ボディガードや用心棒はそうした裏社会で暗躍する虚子や同調者とはやや趣が異なり、政府管理の上で特定の就労を許容されたものではある。例えば、一国のトップの護衛には必ず特対官が務める。襲撃する側も虚子や同調者であることが懸念される以上は、必要な措置なのだ。


 同調者と虚子が専任で護衛を務めるほどの人間。この少女は、一体どういった立場なのか。


(それに……かしま、神島か)


 一片の名乗った名字を思い出す。音の並びだけでは漢字までは読み取れないが、もし想像通りの神島であれば、思い浮かぶのは一つだ。


 神島家――戦前より貿易事業で財を成し、その資金を元に虚虜災害への対策に尽力した一族の名前だ。戦後の財閥解体の影響を受けながらもその財力を保持し、政界への強力なパイプも持つとされている。何より虚虜災害へ尽力してきた背景から、現代では虚虜災害対策の専門家ともされている。


 本当に一片が、要の想像する神島の人間であるのなら、同調者や虚子が護衛として付いているのも納得である。何より神島の人間が最も得意とするところだろう。


「それにしても要さんは、あの周防の同調者なのですか?」


 要が一片の名字に意識を傾けていたのと同じように、一片も要の意識に思うところがあったようだ。問われた要は、どう答えたものか迷った末、隠すことでも無いために首肯した。


「ああ、まぁあんたが思ってる周防で合っていると思うよ」

「同調者の一族――周防家。なるほど、要さんは同調者のエリートなんですね」

「別にそんな大層なもんじゃない。それにあんた、そんなことまで知ってるってことは、もしかしてあの神島か?」

「さぁ、どうでしょうか。ふふ、なんだかお腹の探り合いをしているようですね」


 何が楽しいのか、一片は笑った。


「話を戻すが、あんたの護衛は一体どこでなにしてる? どうしてあの程度の虚虜にあんたは連れ去られたんだ」


 一片を攫っていた群生型の虚虜の一体と思われるあの個体は、大した脅威では無かった。並みの同調者と虚子であれば、苦も無く撃退できたはずだろう。あっさりと一片が連れ去られた事実が腑に落ちない。


「なんと言えばいいか……護衛ではあるんですが、護衛と言いつつお友達なのであんまり言うことを聞いてくれないといいますか。いえ、言うことを聞かせたいわけでは無いんですが……うーん、説明が難しいですね」

「なんだそれ」


 一片の物言いに少し呆れてしまう。まさか、本来、一片を守るべき護衛が勝手に行動して彼女のそばを離れたというつもりだろうか。


「ちょっと事情があってはぐれてしまいまして。おまけに急な突風のせいで離れ離れになってしまって……」

「突風?」

「はい! もう、すごかったんですよ。台風かと思いました」


 よほどの突風だったのだろう。語気を強めて話す一片だが、要の頭の中には一つの予想が浮かぶ。この日本で突然の突風、それも台風と表現してしまうほどの強風だ。自然現象では決してないだろう。


(必のダウンバーストか?)


 必の力の利用方法の一つは、要が考え、必に伝授したものだ。条件や周囲への被害が甚大ゆえに普段は使うことを制限しているが、それを使ったのであれば、急な突風も頷ける。


 それほどの強敵なのか、あの虚子は。


 少しまずいかもしれない。要がこうして陽介捜しに時間を割いているのは、必への信頼もあったのだ。彼女の異能は、虚子の中でも異質なほど強力である。破壊に特化しており、並みの虚子とは一線を画する。ゆえに彼女一人でも大丈夫だろうという思いもあったのだが、楽観的過ぎたようだ。


「悪いな、少し急ぐ。揺れるだろうからしっかり捕まってくれ」

「え? は、はい」


 一片をしっかりと抱えなおし、要は走り出した。瓦礫塗れで足を踏み外しそうになるが、時間をかけて探索もしていられない。この地下の線路内は真っすぐに道なりに続いている。進めばそれだけ目的に近づいていくはずだ。


(一つずつやるしかない。まずは陽介を見つけて、この子と一緒に地上を出る。その後に必と合流して、虚虜を見つけて討つ。あの虚子と同調者が邪魔をするようなら、そいつらもなぎ倒す)


 不安に駆られて悩むだけ時間の無駄だ。行動指針を定めて、出来ることから進めていくしかない。


 そう決意し、要は線路を駆ける。同調者の人間離れした脚力は、グングンとその速度を上げ、背中に密着する感触がつられて強くなる。前方を照らすスマホの明かりは、揺れる一片の動きに合わせてふらふらと纏まりが無く、もはや大した効果は得られていなかった。


 要はもはや明かりに期待せず、ほとんど勘で先に進む。暗闇にそろそろ目が慣れてきており、わずかな光源さえあれば物の輪郭は掴める。


 一気に線路を駆け抜けると、突然に開けた場所に出た。明らかに元からあった線路内の構造では無い。まるで無理矢理に穴を削って広げたような、広大な空間がそこにある。


 要が足を止める。激しい振動が無くなったことで、スマホの明かりも落ち着きを見せた。真っすぐに明かりが前方に向けられ、そこに見慣れた後ろ姿を見る。


「おい、やっと見つけたぞ」


 陽介がそこにいた。その広大の空間の中心らしき場所でぽつりと一人立ち、何かを見上げている。要の声に気づき、彼は振り返った。


「ああ、アニキ。やっと来たんすね」


 普段の軽薄な笑いはすっかりなりを潜め、陽介は感情のうかがえない瞳で要を見た。


 その表情を一目見て、一歩進もうとした要の足が止まる。強烈な違和感がそこにはあった。


「遅いっすよ。それにアネキもいないし、一人で何しに来たんすか」


 淡々と告げる陽介の様子は、つい先ほどまで共に行動していた姿とはまるで異なっている。軽薄で陽気な調子はなりを潜め、かといって真剣ともまた違う。全てにおいて諦観したような、どこか達観した雰囲気をまとっている。


 自身の今の在り様を受け入れ、ただ受動的に流れ去れるだけのような、陽介の意思などそこには介在しておらず、ゆえに覇気というものもまるで無い。


「お前がいなくなるからだろうが。ここで何してる」


 陽介のその姿に警戒しながら、表面上は常のように応じて見せる。だが、すでに彼を助けようという考えは失いつつあった。それどころか頭の奥で絶えず警鐘が鳴っている。


 警戒する要の様子に気づいたのだろう。陽介は儚げに笑う。


「なに……そっすねぇ、何してるんでしょうね、俺。憧れてたのになぁ……いや、憧れてたのを思い出したんすよね、アニキたちのおかげで……」


 過去を懐かしむようにどこか遠くを見つめながら、陽介は思いを口にする。その独白の意味するところは要には分からなかったが、彼が何かしら思い詰めていることだけは伝わってくる。


「助けられて、そうなりたくて……俺もなれるような気がして……でもまぁ、人生なんてこんなもんすよね」

「何が言いたいんだよ」


 一方的な物言いに耐えかねて、要は口を挟んだ。それに長々と陽介の一人語りに付き合っている時間も無い。


 何故なら、要にもそれははっきりと見えていたのだから。


 陽介の頭上、無理矢理に広げて作った地下線路の天井近くに、巨大な繭のようなものが張り付いている。守られるように蔦に覆われたそれは、中から拍動するようにかすかな光を明滅させている。繭からは無数の蔦が伸び、周囲の壁やコンクリートを這うように伝っている。


 明らかな異常。現実感に欠けるそれ。自然現象では無い物体。


 まず間違いない。確信をもって要は理解する。


「アニキには言ってなかったっすけど、俺も昔は同調者だったんすよ。公式のライセンスはなかったっすけど。一年前の特災テロの時に命を助けられて、本物の特対官ってやつに憧れて、俺もあんな風になりたいって思ったんす」


 拍動を繰り返して繭の光が止まる。ほんの一瞬、天井から明かりが消えたことで周囲が薄暗くなり、それは次いで圧巻の光量に塗り替えられた。繭から莫大な光輝が広がり、陽介の姿に影が差す。


「けど、分かってなかったんすよね。素人同然で虚子と同調して、使い方も分からずに力を使い続けて、それであの子は――こうなる方を選んだ」


 陽介が天井を眺める。


 光の先で何かが蠢く。それは無数の蔦だ。視界を覆うほどの蔦が伸び、それは地面に突き刺さると、さらに光の中から巨大な何かが降りてきた。まるで卵から孵るように、少女とも大人の女性とも取れる姿形をした怪物が姿を見せる。身体の下半身は無数の蔦で覆われた巨大なそれは、轟音を立てて陽介のすぐそばに落ちた。


「まさか、崩壊スクリタか……ッ!」


 突然の事態に、要の中でその事象が思い起こされる。実際に目で見るのは初めてであり、話に聞く限りのそれで確信は持てないが、陽介の言葉や目の前の事象を鑑みれば、それは確信に近い予想だ。


「すく、りた?」


 状況を飲み込めないのか、復唱する一片に、要は端的に答えていた。ある意味で自身の思考や理解を整理する意味もある。


「力を使い尽くした虚子は、やがて自分の抑えきれない飢餓感に呑まれて虚虜になる。それが崩壊だ」

「で、でも、それを抑えるのが同調者の役割ですよね?」

「ああ、だから同調者は代償を払う。俺たちは、虚子にその感情を――心を喰わせている。だが、それもいつまでも続くものじゃない。心は経験や記憶で形作られるからすぐに枯渇するわけじゃないが、戦いを繰り返して虚子の異能を使えば使うほど、加速度的に擦り減っていく。そうしてやがて、心が死に、廃人になる」

「それは、知っています。だから普通、同調者は心を喰らいつくされる前に、虚子との同調を解く、と」


 虚虜に心を喰われた虚子は、失ったものを求めて同調者を求め、その同調者の心を喰らうことで自身の飢餓感と崩壊を抑えている。だが、同調者の心も無限では無い。心が時間と共に形作られるよりも喰われる速度が勝った場合、やがて擦り減った心は同調者から感情を、記憶すらも奪い取り、廃人に至る。


 ゆえに通常、心を喰らいつくされる前に虚子と同調者は分かれる。同調者は時間をかけて心の回復に努め、虚子は他の同調者を見つけ、再び崩壊を抑える。


「ああ、だから同調者持ちの虚子が崩壊を起こすことはまれだ。ほとんど無いと言っていいだろう。ただ、例外があるとすれば――」

「――虚子が同調者の心を喰らわなかった場合、っすよ」


 要の言葉を引き継ぐように、陽介は続ける。隣に立つ虚虜を愛しむようにそっと触れ、額を押し付ける。


「この子は、優し過ぎた。俺と同調しても俺の心を喰わなかった。ずっと、ずっと……俺が気づいた時には、もう限界だったんす。虚虜を追ってきたこの場所で、なんとか勝って、あの時の特対官みたいにカッコいいヒーローになれたと思った矢先に……全部崩れた」


 同調した相手の心を喰らうかどうかは、虚子の裁量による。飢餓感に堪えきれずに相手を喰らいつくすほどの勢いで食欲を満たすものもいれば、最低限の量で抑えるものもいる。喰らいつくせば新たな同調者を探す必要もあるわけだし、何よりそれは虚子の性格に依存するところが大きい。ただ、喰らう量が多ければ多いほど、虚子はより大きな力を引き出すことが出来る。それゆえに特対官の心の摩耗は、ただ虚子と一緒にいる同調者の比ではない。


 そんな状況で、虚虜と戦っていたような虚子が、同調者の心を喰わずに力を使い続ければどうなるか。膨満する飢餓感は、あっという間に限界点を越えてしまう。


 もし、真に知識があれば、そんなことにはならなかっただろう。同調者がその事実にいち早く気づき、双方にとって長く共にいられる方針を提示できたはずだ。


 だが、陽介の言うとおり、彼らはおそらく素人だった。


 虚子も同調者も、ただ憧れだけで虚虜と戦い、十分な知識も無く、力を使った。何も知らなかった虚子は、ただひたすらに相棒である同調者を守るために、飢餓感を抑え続けた。


「すみません、アニキ。ほんとは、別にアニキをここに近づけるつもりはなかったんす。適当にレイロンを案内して、さっさと目的を果たして出て行ってもらうつもりだった。ただ少しでも長く、この子といられたらって……。けど、センリちゃんがあんな条件を出して、アニキも虚虜捜しに乗り気になって、だるそうにしながらちゃんと人のために行動するアニキを見てたら、俺たちが特対官に憧れたことを思い出したんです。そしたら、人を襲い続けるこの子を、このままにしていいのか分からなくなった。だから、だからアニキ……頼みます。この子を、助けてくれ……」


 涙さえ浮かべて陽介は懇願する。その陽介を虚虜が襲うことは無い。飢餓感に苛まれているだろうに、陽介の言葉どおりなら、崩壊にともなって人を襲い続けただろうに、それでもすぐ近くの陽介だけは襲う素振りすら見せない。


 それが彼らの深い絆の在り方を如実に表している。


 理性を失ってなお、虚虜と化した虚子は陽介のそばにあろうとしている。もう戻れないと分かってなお、その隣で立っている。


 要はそっと一片を地面に下すと、腰元から刀を引き抜いた。それを片手で構え、陽介の傍らに立つ虚虜に向ける。


「その意味、分かって言ってんだろうな」

「覚悟は、出来てる」

「そうか。おい、チンピラ。この子を守れ。元同調者なら、それなりに立ち回れるだろ」


 さすがにあれだけの巨体の虚虜と戦いながら、足の不自由な一片を守り切ることは難しい。陽介に一片を任せ、要は虚虜と対峙する。


 だが、それよりも早く、この場への乱入者が現れた。


 要たちがやってきた背後の線路から轟音が鳴り響き、きりもみしながら二体の何かが転がり込んでくる。そのうちの一体が要の足元で動きを止めた。


「ごほっ……あ、要」


 頬に煤を付けて咳き込みながら、彼女は要の名前を呼ぶ。見慣れた銀髪は、間違いなく彼の妹だった。


「必、お前……すごい現れ方だな。大丈夫か?」

「大丈夫……じゃないけどぎりぎり生きてるよ。何回か死ぬかと思ったけど……。っていうかあれ、虚虜?」


 要との再会に喜色ばんでいた必は、要が対峙する巨大な怪物に気づき、その瞳に真剣な色を宿す。


「ああ、どうやらこいつがレイロンの失踪事件の原因のようだ。それもあいつが関わってるらしい」


 陽介を指さす要に、必は少しだけ驚いてみせた。


「え、ヨウくんが? へぇ、うさんくさいと思ってたけど」

「後で色々と話は……いや、別にどうでもいいか。とにかく、あいつ自身が目の前の虚虜を殺せと言ってる。手加減抜きで行くぞ」


 心底からどうでも良さそうな調子で吐き捨て、要は必に左手を向ける。


 それに応じるように必も右手を重ね合わせようとした寸前、二人の間を血液の鞭が通り過ぎた。


 反射的に二人は飛び退き、お互いに距離を取る形となる。


「そういえば、もう一人いたな」


 未だ動きを見せない虚虜を警戒しつつ、要は必と共に現れたもう一人の存在に目を向ける。


 血濡れの騎士――そんな表現が似合う存在がそこにいた。右手に赤黒ずんだ長大な血鎌を抱え、一片を庇うような格好で立っている。鎧のように全身を血液の触手で覆っているために姿は見えないが、その異様な風貌には思い当たる節がある。


「相剋か」


 人間大の虚虜という可能性もあるが、目の前の一片を一顧だにしないところを見れば、それはほとんど無いと言い切れる。それよりも一片が言っていたではないか。自分には強力な護衛がいる、と。


 相剋は同調者と虚子が一体化する戦闘形態だ。その過程で姿形が変わるものもいる。


 目の前の血濡れの騎士は、そうしたタイプの相剋なのだろう。それにあの血鎌や血液を操るという異能や必と一緒にこの場所に乗り込んできた事実。目の前の騎士は、つい先ほど、路地裏で要たちを襲った濃藍色の少女とその同調者と見るのが妥当だ。


「お嬢様、無事でしたか」


 騎士の口から重々しい声が響く。見た目にそぐわない、威厳のある声だ。要は、その声でパソ子宅で襲い掛かってきた同調者――大柄の姿を思い出していた。背格好もちょうど、目の前の騎士と酷似している。


 血濡れの騎士から血液の触手の一部がうごめき、デフォルメされた小さな顔を形作る。それは少女のようにも見えた。


「お前、一片をこんなところ連れてきて何のつもりや! 一緒に行動してたんは分かってんのや!」


 血液の口が開き、怒声を上げる。その不気味と言えばいいのか、一種コメディと言えばいいのか、表現の難しい光景に要が言葉に詰まっていると、必が何故か要にジト目を向けていた。


「あんな綺麗な人をこんな暗闇に連れ込んで、要は何をしてたの?」

「お前、わざと言ってんだろ」


 必の誤解を招く言い回しについては、要は無視することに決める。


「あんたらも、状況を見て物を言え」


 要が視線で虚虜の方を示したことで、ようやく血濡れの騎士――白滝もそちらを見た。顔は隠れているために表情はうかがえないが、要に向けていた敵意の方向性が虚虜の方に向いたことが分かる。


「虚虜……人型か? いや、あれは……」

「たぶん、あれは崩壊やろ。中途半端に人の形保っとるし、典型的な成り損ないや」


 自身らへの敵意が逸れた隙に、要は必との距離を詰める。だが、再び血の触手が襲いかかった。警戒していたがゆえにこれを刀で弾くが、その拍子に血液の一部が分離し、要から刀を奪い取ってしまう。


 手元からすっぽ抜けた刀を見送りながら、要は心底からため息をついた。呆れたように肩を竦め、追撃で振るわれた血の触手を素手で掴み取る。


「いい加減にしろ」


 まさか素手で掴まれるとは思ってなかったのだろう。一瞬だけ白滝の動きが止まる。その隙を見逃さず、要は血の触手の勢いを利用したまま、全身を回転させるように身を捻った。血の触手が要の腕から全身を起点に引っ張られ、その勢いに押されるように白滝の身体が大きく横に流れていく。その勢いの中でさらに血の触手を腕の中に引き寄せ、結果として白滝の身体が宙を舞った。


「むっ!」

「は? おい、ウソやろ……ッ」


 驚愕の声を露わにする二人を一瞥しながら、要は引き寄せた血の触手に全体重をかけた。結果として、力の方向性を急激に転換された白滝の身体が思いっきり地面に叩きつけられる。


 轟音が鳴り響く。遠心力と人間離れした同調者の身体能力、白滝本人の体重も重なり、凄まじい威力となって地下全体を揺らす。


 それを成した当の本人は、まるで埃を払うように血の触手を身体から外して立ち上がった。地面に倒れたままの白滝を冷たい瞳で見下ろし、冷たい声音で告げる。


「何のつもりか知らないが、やるならまとめて相手してやる。お前らが必をここまで追い詰めたこと、別に見逃してやったわけじゃないぞ」

「あちゃー……要、結構怒ってるね。っていうか、苛ついてる?」


 必の問いに肯定も否定もせず、要は右手を必に差し出した。意図を察し、必は懐から特対官専用に支給された柄を取り出して渡す。受け取った要は、それを黒刀の形へと展開した。


「まさか……相剋もしていない同調者に投げ飛ばされるとはな……」

「はん、なんやこいつ。豚女と違ってずいぶんやるやないか。ほんまにただの同調者か?」


 白滝が立ち上がる。声には驚きの色が見て取れるが、肉体的なダメージは皆無に等しいだろう。あの全身を覆う血の鎧が、生半な攻撃は容易くガードしてしまっている。何より相剋状態の同調者に対して、あの程度の一撃が効くはずも無い。要もそれを狙っての攻撃では無く、頭を冷やさせる目的で実力の一端を垣間見せたのだ。


「いいか、あんたら。あんたらの目的は知らないし、俺たちを狙う理由も皆目不明だが、別に俺たちはあんたらに対して、敵意は無い。俺はあいつの頼みで、あそこの虚虜を倒さなきゃいけない。今はまだ動きを止めているみたいだが、いつ動くかも分からない。分かったか? 分かったらさっさとあの神島さんを連れてどこかへ行け。邪魔だ」


 一息で言い放ち、要は一片の方を向く。視線を向けられた一片は、思い出したように白滝に告げた。


「要さんの言うとおりです。彼は私を守ってくれた恩人であり、決して危害を加えるようなことはされていません。敵対するなどもってのほかです」


 一片がそう補足したことで、ようやく白滝から敵意が消えた。彼も要と同様に虚虜の動向を気にしているために武器はそのままだが、必に近づく要を再び邪魔することは無かった。


 だが、そんな白滝の意志とは異なり、彼から伸びる血液の少女が怒りを露わにする。


「ふざけんな! 一片、自分騙されとんで! そもそも本当に助けるつもりやったんなら、なんでこんなところまで連れて来とんのや!」


 当然の紫咲の指摘に、要の面倒くささが爆発しそうだった。一から十まで説明すれば納得するのかもしれないが、これ以上、時間をかけてもいられない。未だなお、虚虜は泰然として動き出しはしないが、その身体から伸びる蔦が少しずつ蠢いているのを要は見逃していなかった。


 言うなれば、あの虚虜は生まれたてだ。崩壊する直前の虚子が繭を作ってこの地下で巣籠し、群生体としての一部が餌を求めて狩りに出ていた。餌を十分に確保したために繭から孵化し、時間をかけて身体を馴染ませ、今、それが完了しようとしている。


 もはや理解してもらう気も失せた。邪魔をしたいならすれば良い。そもそも地上で攻撃され、必を危険に晒す結果となったのも目の前の虚子のせいだ。


「必、やるぞ」

「おっけー」


 要と必が両手を合わせる。まるで二人で柏手を打つように、乾いた音が響く。


 重ねた両手から淡い光が生まれ、それは円を描くように二人の身体を循環し始めた。その光に身を任せながら、二人は同時に声を発する。



『――相剋』



 それとほぼ同時、虚虜が動き出した。耳を劈くほどの不協和音を上げ、束ねた蔦の一撃を振るう。それは光を灯す要たちに向けられ、圧倒的な大質量が二人の頭上から襲いかかる。


 轟音が炸裂し、地響きが起こる。舞い上がった土煙が周囲に漂い――




 ――それは目を覆いたくなるほどの大爆発によって振り払われた。




 天井に向かって伸びるように火柱が上がり、蔦の全てを吹き飛ばし、焼き払う。


 その中心で光が灯り、一瞬にして火柱が消失した。先とは異なり、圧倒的な冷気が周囲へと漂い、さらに動き出そうとしていた蔦の動きそのものを封じ込める。


 急激な温度差によって水蒸気が舞い上がる中、それを振り払って要が姿を現す。


 その身を白銀の髪と碧眼に変え、小さく零した白い吐息は上空へ向かって流れて消える。


 必と完全に一体化した要の手には、黒刀から一変、冷気で覆われた白い刀身を持つ刀が握られている。それを陽介に向け、要は冷たく告げる。


「早くそこから退いて、そこの男と神島さんと一緒に逃げろ。巻き込まれるぞ」

「あ、アニキ……おれ……」

「きっちり片付けてやるよ。けど、最後を見届けたいなんてワガママは聞いてやれない。巻き込まない自信は無いからな」

「わかり、ました……っ。――ごめん」


 最後の言葉は、かつての相方に向けたものだったのだろう。肩を震わせながら陽介は走り出し、一片の方に向かう。それを許容しないかのように白滝の身体から血液の触手が飛び出るが、白滝の一言で動きを止める。


「紫咲、やめろ。今は彼らと争っている状況ではない」

「ちっ……しゃーないな」


 意思統一が図れたのか、白滝は立ち上がると、陽介を襲うことは無く、要を一瞥してから一片の元に向かった。


「逃げるっすよ!」

「あ、は、はい」


 陽介が一片を抱え上げ、大空洞を後にする。その背後を守るように白滝が続いていく。


 それを横目で見送りながら、要は白刀を構え直した。


「虚子にも色々いるよな。心を喰われて、記憶を奪われて、それでも失ったものを乞い求めて足掻き続けてる。それでもお前の中に残ったのは、誰かを想う気持ちだったんだろうな」


 蔦の虚虜が悲鳴のような咆哮を上げる。人間だった頃の面影などもはやどこにも無く、吹き飛んだ理性は、飢餓という本能にのみ支配されている。


 要の言葉に、返す言葉すら持っていない。それを理解しながら、要はかつて虚子だった存在を労うように、普段に無い優しい声音で話しかける。


「だから、奪えなかったんだよな。本能に抗って、自分の中に残ったわずかな感情をかき集めて、それを必死で守り抜いた。尊敬するよ。それに、憧れる。――だから、もう苦しまないで済むように、きっちりと終わらせてやる」

「うん、終わらせてあげよう。あの子は、苦しんでる」


 要の背後で冷気が揺らめき、必の姿を形作る。冷気からは必の声が発せられ、それはかすかな同情を含んでいる。


 虚虜の頭部、かつては瞳があったであろう深い暗闇の空洞の奥で、何か小さな光が煌めいた気がした。


 その意味を深く考える暇も無く、ついに完全なる羽化を迎えた虚虜が動き出す。その身体から無数の小型の虚虜を生み出し、大群でもって要に襲い掛かった。

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