第17話:危機を知らせる若者より、最後の人へ
北の大陸を覆っていた永い冬に、終わりの兆しが見え始めていた。
万年雪が溶け始め、凍てついていた大地からは、何十年ぶりとなる黒い土が顔を覗かせている。陽光はまだ弱々しいが、その温かさは、確かに春の訪れを告げていた。
「へっ、前の時よりゃだいぶ動けるようになったぜ」
上空から偵察を終えたクロが、リコの肩に舞い降りた。
「春の陽気のせいで、雪解け水がとんでもねえ川になりやがった。しかも、上流のでけえ氷の壁が、今にもそいつを吐き出しそうだぜ」
クロの報告に、リコは顔を上げた。
彼女の視線は、雪解け水を集め、轟音と共に荒々しく流れる大河と、その上流を指し示す金のコンパスに注がれていたからだ。コンパスの光は、クロの言葉を裏付けるかのように、これまでにないほど切迫した、警告のような響きを放っていた。
リコは、川に沿って上流へと向かった。
そして、目の前に広がる光景に息をのむ。
大河をせき止めていた巨大な氷河の壁が、温暖化によって融解し、今にも崩落寸前だったのだ。もしこれが崩れれば、この下流に村があるのなら、一瞬で壊滅するだろう。
そして、その氷河の壁の麓に、一つの魂の残滓があった。
『頼む……伝えてくれ……村が、危ない……!』
それは、この村が抱える潜在的な危機に、いち早く気づいていた一人の若者の魂のようだった。リコは、彼の最後の唄を、近くに生えていた高山植物の葉に写し取った。
「クロ、急いで!」
手紙を魔法の鞄にしまい、リコは雪に足を取られながらも、必死に川沿いの道を駆け下りた。クロも、彼女の焦りを感じ取り、先導するように低く飛び、時折鋭い声で最短の道を指し示す。
一刻も早く、この絶望的な警告を村へ届けなければならない。
その一心だけが、彼女の凍える体を突き動かしていた。
◇
だが、リコがたどり着いた村は、すでに滅びていた。
洪水で滅びた様子ではなかった。家々は朽ち果て、人の気配はない。おそらく、何年も前に、この地の厳しい寒さに耐えきれず、人々が放棄したゴーストタウンなのだ。
若者が命を懸けて守ろうとした村は、彼が死んだ時点で、もう存在しなかった。
リコは、呆然と廃村を歩いた。その、ただ一軒だけ、人のものではない、しかし確かな気配が残る家を見つけるまでは。
家の戸口で、一匹の老いた狼が、ただじっと、主人の帰りを待っていた。
リコが近づくと、老狼は弱々しく一度だけ唸ったが、敵意はなかった。リコの「耳」には、その心の声が聴こえてくる。
『……主は、まだか……。もう、何年も……何年も、ここで待っているのに……』
リコは、悟った。この老狼こそが、あの若者が気にかけていた村の最後の生き残りなのだと。
「…大切な人を待っているのにごめんなさい。この場所から急いで離れないとっ!時間がないの」
リコが伝えようとした、その時。
ゴゴゴゴゴ……という、大地が震えるような音が、遥か上流から響いてきた。
氷河の壁が、ついに崩落を始めたのだ。
「逃げて!」
リコは叫んだ。
「もうすぐ、ここも水に沈む! 早く、高いところへ!」
だが、老狼は動かなかった。その瞳は、ただ、主が帰ってくるはずの道を、まっすぐに見つめている。
リコは、若者の魂の手紙を、老狼の前に差し出した。
「これが、この村を気にかけていた人の、最後の唄です! どうか、読んで……!」
老狼は、その手紙に鼻を寄せ、そこに込められた主人の魂の匂いを嗅いだ。そして、全てを理解した。主人は、もういない。何年も前に、死んでいたのだ。
リコは、迫りくる激流の音の中に消えゆく老狼の心の声を、確かに聴いていた。
『……これで良い。……主人の愛した村の最期を見届けねばな。ここで永久に待とう。主が愛した、この村と共に……。そして、今度こそ、主と……』
「だめだ、リコ! もう来るぞ!」
クロが、リコの服を必死にくちばしで引っ張る。
「いやだ! このままじゃ、この子も……!」
リコは、必死に老狼を説得しようとした。だが、老狼は、ただ穏やかな目でリコを見ると、ゆっくりとその場に伏せ、そして、静かに目を閉じた。主との再会を、覚悟したのだ。
背後から、全てを飲み込む濁流の音が迫る。
リコは、涙でぐしゃぐしゃになりながら、クロに引きずられるようにして、村の裏手の高台へと駆け上がった。
そして、目の前で、村が、家々が、そして、老狼が眠る一軒家が、一瞬で濁流に飲み込まれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
◇
手紙を届けたのに、老狼を救うことができなかった。
リコは、自らの無力さに打ちひしがれ、ただ嗚咽するばかりだった。自分の行いは、本当に正しかったのか。魂を救うとは、こういうことなのか。
その、彼女の絶望の淵で。
嗚咽するリコの足元に、波が何かを打ち上げた。
それは、一枚の、泥に汚れた高山植物の葉。彼女が、老狼に届けた、最後の唄だった。
リコが、震える手でそれを拾い上げると、彼女の「目」には、驚くべき光景が映った。その葉には、若者の魂の残滓だけでなく、老狼の、穏やかで、満足げな魂の光が、確かに重なっていた。
リコが、その葉にそっと手を触れる。
すると、若者の警告の言葉が、光の中にすうっと溶けて消え、そして、その同じ場所に、今度は二つの魂からの、リコへの感謝の言葉が、震えるような、しかし温かい光を放つ文字となって、浮かび上がってきた。
宛名は、『僕たちを、再会させてくれた君へ』。
差出人は、若者と、老狼ボルクの、二人の連名。
『ありがとう。
君が、僕の最後の唄を、ボルクに届けてくれたおかげで、僕たちは、八年越しに、ようやく再会することができた。
僕たちは、もう一人じゃない。
君が命をかけて届けてくれた手紙のおかげだ。君と、村が滅びる前に出会えたことは、僕たちにとっては、最高の奇跡だったんだよ』
手紙が、リコの涙で滲んで読めなくなった。
救えなかった。だが、救えていた。
その、あまりにも哀しく、しかし、どうしようもないほど温かい真実に、彼女はただ、声を上げて泣き続けた。
「……クロ」
涙が枯れた頃、リコは、夕日に染まる水面を見つめながら、静かに言った。
「……私、忘れない」
「あぁ?」
「私がもたらした春が、一つの村を消し去ったこと。そして、その悲劇の向こう側で、二つの魂が救われたこと。……どっちも、忘れない。全部、背負っていく」
クロは、何も言わずに、ただリコの肩をくちばしで優しくつついた。
リコは、再び、歩き出す。
その、あまりにも重い覚悟を乗せた一歩は、これまでのどの旅よりも、確かに、そして哀しいほどに、力強かった。




