第16話:吹雪の夜の母より、生まれなかった我が子へ
北の大陸を旅する二人を、猛烈な吹雪が襲った。
視界は白く染まり、風は獣のような咆哮を上げて、容赦なく体温を奪っていく。
「おい、リコ! こいつはまずいぜ! このままじゃ、俺様もお前も氷漬けになっちまう!」
リコの毛布の中で、クロが叫ぶ。
リコは答えず、ただ歯を食いしばって前へ進んだ。ボロボロの毛布一枚では、この極寒の嵐を防ぐ術はない。
だが、不思議なことに、胸元だけは、陽だまりのように温かかった。これまで集めてきた魂たちの温かい唄が、金のペンダントの中で、彼女の凍える心臓を守ってくれているのだ。
その、ペンダントの光に導かれるように、吹雪の向こうに、小さな黒い影が見えた。古い、避難小屋のようだった。
リコとクロは、最後の力を振り絞って、その小屋へと転がり込んだ。
小屋の中は、外の荒れ狂う世界が嘘のように、静かだった。しかし、暖炉には火の気がなく、空気は氷のように冷たい。
「へっ、九死に一生ってやつか。それにしても、気味の悪い小屋だな」
クロが羽を震わせる。その時、リコは気づいた。この小屋の冷気は、ただの寒さではない。それは、魂が発する、深い、深い哀しみの色をしていた。
金のコンパスが指し示していたのは、この小屋そのもの。そして、その魂の主は、暖炉の前にいた。
それは、美しい女性の姿をしていた。だが、その肌は雪のように白く、ドレスは氷の結晶でできており、瞳からは、絶え間なくダイヤモンドダストのような涙がこぼれ落ちている。
彼女の存在そのものが、この吹雪の源。悲しみのあまり、この地を凍てつかせる「雪の女王」と化した、一人の母親の魂だった。
リコがその魂に触れると、彼女の最後の「唄」が聴こえてきた。
数十年前に、この地にあった村が猛烈な吹雪によって一夜にして滅び、この避難小屋に一人取り残され、たった一人で赤ん坊を産もうとして力尽きた母親の記憶。
そして、その魂を今もなおこの世に縛り付けている、たった一つの心残り。
『……名前を、呼んであげたかった……。この腕に、抱いてあげたかった……』
この唄には、この世に存在する受取人がいない。それでも、届けるべき想いが、確かにそこにはあった。
リコは、決意を込めて呟いた。
「……手紙を、書きます」
彼女は、暖炉のそばに落ちていた、一枚の、凍てついた白樺の葉を拾い上げた。そして、そこに、母親の魂の唄を写し取る。
『私の、名もなき愛しい子へ。
あなたに、名前をあげることができなかった、愚かな母より』
リコは、出来上がった手紙を手に、その場に立ち尽くした。
受取人が、いない。この手紙は、誰にも届けることができない。配達人として、初めて直面する、あまりにも哀しい現実だった。
だが、彼女の脳裏には、母親の、魂を凍らせるほどの深い愛情が焼き付いていた。
リコは、目を閉じ、心の中で強く、強く願った。
(どうか、届いて。この、あまりにも温かい唄が、どこにも届かずに消えてしまうなんて、そんな哀しいことがあってたまるものか)
彼女は、その祈りを込めて、手紙を暖炉の冷たい灰の上に、そっと置いた。まるで、小さな墓標のように。
その、まさにその瞬間だった。
手紙が、淡い、温かい光を放ち始めた。そして、その光の中から、もう一枚、小さな、小さな光の手紙が、ふわりと現れたのだ。
生まれることのなかった、赤子の魂からの「返事」だった。
リコは、その光の手紙を、そっと拾い上げた。そして、雪の女王――悲しみに凍てついた母親の魂の前に、静かにひざまずく。
「……あなたへの、お届けものです」
彼女は、その光の手紙を、祈るように、そっと差し出した。
母親の魂が、震える氷の指で、我が子からの最初で最後の手紙に触れた。
その瞬間、たった一言だけ、しかし全ての想いが込められた言葉が、彼女の魂に直接響き渡った。
『お母さん、ありがとう。』
その言葉と共に、彼女の全身を覆っていた氷のドレスが、音を立てて砕け散る。雪のように白かった肌に、温かい血の色が戻り、ダイヤモンドダストの涙が、人間の温かい涙へと変わった。
「ああ……ああ……!」
母親の魂の前に、小さな、温かい光が現れる。彼女が、その腕に抱きたかった、我が子の魂。
母親は、初めてその腕に我が子を抱きしめると、二つの魂は重なり合い、一つの、あまりにも温かい光となって、静かに消えていった。
小屋の外では、荒れ狂っていた吹雪が、嘘のように止んでいた。
雲の切れ間から、柔らかな陽光が差し込み、雪景色をきらきらと照らし出す。空気はまだ冷たいが、あの骨身に染みるような厳しさは、どこにもなかった。北の大地が、ほんの少しだけ、温かくなったのだ。
「へっ。とんだ親子喧嘩だったな。おかげで、世界が少しだけマシになったぜ」
クロが、いつものように悪態をついた。
その言葉に、リコは陽光に手をかざしながら、静かに答えた。
「……うん。届いただけじゃなかった」
「あぁ?」
「届いて、そして、応えてくれたんだ。唄は、一方通行じゃないんだね」
クロは、何も言わずに、ただリコの肩をくちばしで優しくつついた。
リコは、陽光に手をかざした。それは、ただの太陽の光ではなかった。母と子が、最後に出会えた奇跡の温もり。その温かさを、彼女は肌で感じていた。
彼女は、再び、歩き出す。その足取りは、この北の大地を照らす陽光のように、確かに、そしてどこまでも温かかった。




