第15話:氷の棺より、春を待つ恋人へ
北の大陸。その名が示す通り、リコとクロが足を踏み入れた世界は、どこまでも続く白と、骨身に染みる静寂に満ちていた。
「へっ、いよいよ本格的になってきたじゃねえか。こんな場所に、本当に唄なんざ残ってんのかねえ」
クロの悪態に、リコは答えなかった。骨身に染みる風が、ボロボロの毛布の隙間から容赦なく体温を奪っていく。一歩、また一歩と雪道を踏みしめるたび、足先の感覚が麻痺していくようだった。
だが、その度に、胸元の金のペンダントが、陽だまりのように温かい光を放つ。その温もりは、凍える心臓に直接届き、かじかむ手足に、もう一歩だけ前に進むための力を与えてくれる。これまで集めてきた魂たちの温かい唄が、確かに彼女の命を繋いでいた。
コンパスが指し示したのは、人の住む集落ではなかった。万年雪に覆われた、巨大な氷河の裂け目。その、地の底まで続くかのような蒼い闇の奥底から、か細い魂の気配がしていた。
リコは、魔法の鞄から取り出したロープを岩に結びつけると、躊躇なくその裂け目へと下りていった。
「おい、リコ!無茶だ!」
クロの制止も、彼女の耳には届かない。
裂け目の底は、時間が凍りついたかのような、神秘的な空間だった。陽光が分厚い氷の壁に乱反射し、まるで巨大な青い宝石の中にいるようだ。
そして、その中央に、それはあった。
氷の中に閉じ込められた、一人の若い狩人の亡骸。その顔は驚くほど安らかで、まるで眠っているだけのようだった。
リコが、凍える手でそっとその氷の棺に触れた瞬間、彼女の心に流れ込んできたのは、唄ではなかった。
それは、音を失った、凍てついた『沈黙』そのものだった。
喜びも、悲しみも、怒りも、全てが長い、長すぎる年月の寒さの中で、完全に凍てついてしまっている。魂は、もはや自らが何を伝えたかったのかすら、忘れてしまっていた。
「……クロ。この唄は、凍ってる」
これでは、手紙が書けない。
リコは、途方に暮れた。だが、その時、胸元の金のペンダントが、ひときわ温かい光を放った。
「……そうか」
リコは、自らのペンダントをそっと外すと、それを氷の棺の上に、祈るように置いた。
ペンダントに宿る、数多の温かい唄たちが、陽だまりのような金の光となって溢れ出し、狩人の魂を縛る見えない氷を、ゆっくりと、ゆっくりと溶かしていく。
やがて、リコの耳に、か細く、しかし確かな唄が聴こえてきた。
それは、麓の村で彼の帰りを待つ、年老いた恋人への、あまりにも純粋な愛の言葉だった。
「……手紙を、書きます」
クロが、氷の裂け目の壁に、奇跡のように咲いていた一輪の氷の花を、器用に摘み取ってくる。
リコは、その花びらにそっと触れた。解凍された魂の温かい唄が、花びらへと流れ込み、それは淡い光を放つ一枚の氷の便箋へと姿を変えた。
手紙を大切に魔法の鞄にしまうと、リコはロープを握りしめた。
「行くよ、クロ」
「へっ、今度は天国への綱渡りかい」
クロはリコの肩にしっかりと掴まる。
裂け目の外は、いつの間にか猛烈な吹雪に変わっていた。白く荒れ狂う風が、二人の行く手を阻む。
「おい、リコ! 無茶だ! 一旦戻るぞ!」
クロの叫びも、風の轟音にかき消される。
だが、リコは止まらなかった。手紙を待つ人がいる。その一心だけで、彼女は膝まで積もる雪をかき分け、一歩、また一歩と、麓の村を目指した。
どれだけ歩いただろうか。体中の感覚がなくなり、意識が遠のきかけた、その時。吹雪の向こうに、小さな明かりが、一つ、二つと見えてきた。
麓の村は、まるで時の流れから取り残されたかのように、静かだった。
リコが訪ねた家には、一人の老婆が、ただ一人、窓の外の氷河を眺めながら、静かに椅子に座っていた。
「……お届けものです」
リコは、氷河に咲いていた小さな氷の花を媒体に書いた手紙を、老婆に差し出した。
老婆は、震える手でそれを受け取り、そこに綴られた、数十年前に止まったはずの恋人の言葉を、ゆっくりと読んだ。
『春になったら、必ず帰る。そう約束したのにな。すまない。だが、この氷の中で、私はずっと、君と過ごした春の夢だけを見ていた。愛している』
手紙を読み終えた老婆は、何も言わなかった。
ただ、その皺だらけの頬を、一筋の涙が静かに伝っていく。
「……ああ……待っていて、よかった……」
それは、悲しみの涙ではなかった。長い、長い冬の時代の終わりを告げる、あまりにも温かい、雪解けの涙だった。
魂が、満足そうに微笑むのがリコには視えた。長い孤独から解放され、ようやく、愛する人の心の中へと還っていく。
魂は光の粒子となり、リコの金のペンダントへと静かに吸い込まれていった。ペンダントが、新たな方角を指し示した。
村でしばし体を休めた後、離れる道すがら、クロはどこか呆れたように言った。
「へっ。何十年も待ちぼうけとはな。健気なのか、ただの馬鹿なのか、俺様には分からねえぜ」
その言葉に、リコは凍てついた道を一歩一歩、確かめるように歩きながら、静かに答えた。
「……ううん。きっと、ただ信じてたんだと思う」
「何をだよ」
「いつか必ず、想いは届くって。どんなに寒くても、どんなに長くても、温かい唄は、ちゃんと氷を溶かすんだって」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
クロは、何も言わずに、ただリコの頬をそっと羽根で撫でた。
リコは、小さく頷くと、再び前を向いた。金のコンパスが示す、次なる方角へ。
その一歩は、凍てついた大地を踏みしめる、温かく、そして力強い一歩だった。




