最終話:作者より、本作を読んでくれた読者の方へ
リコは、石造りの牢獄の中で、静かに目を閉じていた。
北の大陸にある王国の兵士に関所で捕らえられ、三日が過ぎた。食べ物も、水も与えられていない。飢えと渇きが、容赦なく体力を奪っていく。
だが、彼女が気がかりなのは、自分のことではなかった。あの時、散り散りになったクロは、無事だろうか。
四日目の朝、牢の扉が開かれ、彼女は罪人として国王の前へと引きずり出された。
玉座に座る王は、死の影が色濃く浮かぶ、年老いた男だった。
「儂が長年探し求めていた、長寿の種族エルフよッ!」
王は、欲望にぎらつく目でリコを睨みつけた。
「儂に、その長寿の秘密をあかすのだ!」
リコは、弱々しく、しかし凛とした声で答えた。
「……私は、何も知りません」
「何日も牢におったのに、まだ嘘を申すか!」
「……王様は、長い時間生きて、何をされるのですか?」
「決まっておろう! 儂が生き続けることが、この国の繁栄となる!」
「……私は、そうは思いません」
リコの瞳に、これまでの旅路で出会ってきた、数多の魂たちの顔が浮かんでいた。
「王様。生き続けることよりも、生きている間に何を成すのかが、大切なんだと思います」
彼女の言葉は、これまでの旅路で出会った、すべてのものへの鎮魂歌であり、旅の果てに見つけた未来への切なる祈りそのものだった。
「誰かに必要とされて生まれる命は、どれだけ長く生きるかではなく、生きている間に何をして、その想いを誰に託すのか。それが大切なのだと、私は知りました。…王様、お願いです。 どうか、ご自身の生に、正しい価値を与えてください」
「……話にならん! 大臣、この娘をもう一週間牢に入れておけ!」
王の怒声が響き渡り、リコは兵士たちによって再び牢へと連れ戻された。
重い扉が閉ざされ、玉座の間には、王と大臣だけが残された。静寂が場を支配する。王は玉座の肘掛けを強く握りしめ、その指の関節は白くなっていた。
「……大臣、なんだあれは? あれは本当にエルフなのか?」
王は、苛立ちを隠そうともせずに言った。その声には、怒りよりもむしろ動揺と困惑が滲んでいた。
「なにぶん、わたくしも実物を見るのは初めてでして…。しかし、あの気高さは、常人のものではありますまい」
「……だが、あれでは話にならんぞ。儂に残された時間は、もう……」
王は、自らの皺だらけの手を見つめ、命の砂時計が傾いていることを悟ったように、言葉を詰まらせた。長寿への執着が、彼を焦燥と苛立ちの淵に追い込んでいる
大臣は、静かに進言する。その声は、王の焦りをなだめるように、低く抑えられていた。
「陛下。もはや、こうなれば例の遺跡の氷竜を討伐した方が早いかと存じます。エルフの至宝を手に入れる、最後の機会やもしれません」
王の瞳に、再び獰猛な光が宿る。リコの言葉で揺らいだはずの心は、自身の延命という絶対的な欲望によって、瞬く間に閉ざされていった。
「……うむ。あの娘も、何かの役には立つだろう。氷竜への盾か、あるいは餌か。準備を急がせよ」
◇
その日の午後、リコは再び牢から引きずり出された。彼女が連れていかれたのは、城の中庭。そこには、王の親衛隊が、北への遠征の準備を整えていた。
リコは、無情な手つきで、鉄格子のはまった檻馬車へと乱暴に押し込まれる。その檻は、まるで彼女の気高き魂を閉じ込めようとするかのように重々しい。
やがて、王と大臣を乗せた豪華な馬車を先頭に、親衛隊の列が、北の果てにあるという古びた遺跡へと向かって、ゆっくりと動き出した。
ガタガタと揺れる檻の中で、リコはただ、静かに外の景色が流れていくのを見つめていた。兵士たちの冷たい視線、王の飽くなき欲望。人間の悪意をその一身に受けながらも、彼女の心は折れてはいなかった。
(クロ……どこにいるの……)
ただ、相棒の無事だけを、彼女は祈り続けていた。
遺跡の最深部で、一行は、神々しいまでの威厳を放つ一頭の氷竜と対峙した。
『人間共、前にも申したであろう。我が守るエルフの至宝は、貴様らが求めているものではない』
「はっはっは、今回はこちらにエルフがおる! 儂に従え、氷竜よ!」
王は、リコの体を盾にするように、竜の前に突き出した。
『何……!? この世界の最後の希望に対して、なんとおろかなことを……!』
氷竜は、王の浅はかな行動に怒りではなく、深い驚愕の声を上げた。その声は、一瞬にして広大な空間の冷気を震わせる。
王が勝利を確信したかのように下卑た声で叫んだ、「かかれ!」、その時だった。
ゴオッ、という冷気を切り裂く音と共に、空から、一羽の漆黒のカラスが、黒い稲妻のように急降下した。カラスは、王の皺だらけの手に持たれていたリコの鎖を、正確に、かつ暴力的な力で弾き飛ばした。
「クロ!」リコの瞳に、久遠の闇に差し込んだ光のような輝きが戻る。
「リコ、大丈夫か!?」
クロは、一瞬でリコの肩に着地し、安堵と焦りの混じった声を上げた。
「おのれ、カラスめ!」
王が激昂し、リコたちに襲い掛かろうとした、まさにその瞬間。
『――全員、動くな』
氷竜の一声で、全ての兵士、王、大臣たちの足が、地面から伸びた氷によって凍りつかされてしまった。
『これから、貴様らに裁きをくだす!』
氷竜の、絶対零度の怒りが遺跡を震わせる。その怒りは、何世紀もの間、人間の愚かさを見てきた古代の悲嘆のようだった。
だが、リコは、鎖から解放された小さな体を奮い立たせ、その巨大な氷竜の前に立ちはだかった。
「お願いします。やめてください!」
『な…なんだと? 自分を苦しめた人間を救うと言うのか?』
「王様の命令に従っただけの兵士さんにも、家族がいます。彼らも、誰かに必要とされて生まれた命なのです」
リコの声は、ひどく弱々しいはずなのに、氷竜の絶対的な冷気を打ち消すかのような、温かい力を持っていた。
「どうか、王様に、正しい行動を選択する機会をあげてください」
氷竜の、何世紀もの時を生きた巨大な体が、微かに震える。
その、彼女の気高い魂に呼応するかのように、リコの胸元の金のペンダントが、まるで彼女を応援するように、柔らかな、しかし神々しい光を放った。
それは、長く厳しい旅路でリコが出会った、数多の魂たちの愛と感謝の具現だった。彼らの想いが、ペンダントという絆の結晶を通して、彼女の心にささやく。
『君は、正しい』と。
リコは、はっと顔を上げた。その瞳には、迷いや弱さは一片もない。今自分がするべき「生きている間に成すべきこと」を理解した、揺るぎない希望の光が宿っていた。
「……クロ、協力して。手紙を書きます」
それは、リコが起こす、最初で、そして最後の奇跡だった。
彼女の胸で、金のペンダントが、これまでの旅で集めてきた全ての唄を、一瞬の爆発的な優しさとして、一度に解き放つ。
神々しい黄金の光は、広大な遺跡の冷気を溶かすように広がり、無数の手紙となり、氷に拘束された全ての兵士、大臣、そして動揺する王の手元へと、静かに、羽毛のように舞い降りた。
そこに書かれていたのは、王の命に従う中で置き去りにしてきた、それぞれの兵士の、故郷で眠る大切な人からの切実な愛の言葉だった。大臣の、権力への渇望を諫める、亡き父からの、忘れていたはずの激励の言葉だった。
そして、王の手元に届いたのは、彼が誰よりも愛し、そして誰よりも恐れていた、若くして亡くなった王妃からの、最期の、そして初めての「手紙」だった。
王は、その手紙を掴んだまま、まるで何百年も失っていた記憶に触れたかのように、震えた。その紙片は、長寿の秘密よりも遥かに重く、彼が築き上げた傲慢な鎧を、一瞬にして打ち砕いた。
『あなた。もう、良いのです。あなたの弱さも、あなたの孤独も、私は、死んだ後もずっとそばで見ていました。どうか、王として正しい行動を。王子達に託すのです』
ペンダントの光は、王妃の優しさそのもののように、静かに消えていった。
次の瞬間、絶対零度の冷気の中、嗚咽が、凍りついた遺跡に響き渡る。武器を落とし、兜を脱ぎ、男たちは皆、自分の弱さと、誰かからの愛に気づいた子供のように泣いていた。
「……大臣、帰ろう。儂は、王として、この場におる資格がない」
王は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、そう呟いた。その言葉は、リコが教えてくれた「生きる間に託すべきもの」を、ついに王自身が理解し、受け入れた魂の降伏だった。
◇
王が涙を拭い、兵士たちと共に去り、親衛隊の喧騒が遠ざかると、遺跡には再び、深遠な静寂が戻った。リコとクロ、そして巨大な氷竜だけが残される。
氷竜は、その巨大な顎を静かに持ち上げた。その瞳には、もはや怒りも、長寿への嘲りもない。あるのは、ただ畏敬の念だった。
『……儂が用意した試練など、もはや不要のようじゃな。これほどの奇跡、この儂ですら見たことがない』
リコは、力なく、しかし誇らしげに氷竜を見つめ返した。彼女の「生の価値」は、力ではなく、愛と希望によって、この古代の存在に認められたのだ。
『……よかろう。進むがよい、最後のエルフよ。おぬしには、その資格がある』
氷竜に促され、リコは遺跡の奥へと、決意を新たに、一歩、足を踏み入れた。
クロが、心配そうに彼女の肩に止まる。小さな翼が、リコの頬に優しく触れた。
静寂の中、リコの小さな足音だけが、古代の遺跡に律儀なリズムで響き渡る。その一歩一歩が、長きにわたる旅の終着点へと彼女を導く。
やがて、彼女の目の前に、一つの巨大な石の扉が現れた。これが最後の扉だと、リコには不思議な確信があった。
リコは、一度だけ深く息を吸うと、その重い扉に、震える両手で、そっと触れた。
扉は、音もなく、内側へと開いていく。
その先にあったのは、小さな、円形の広間だった。壁には星々が描かれ、天井からは、月の光のような、宇宙の彼方から届くような、柔らかな光が差し込んでいる。
そして、その中央に、一つの古代の石造りの台座が、静かに彼女を待っていた。
リコは、遺跡の中心にある台座に、旅のすべてが詰まった金のペンダントをそっと置いた。
これまで彼女が集めてきた、別れと再会の全ての唄が流れ出し、台座の中心に、虹色の粒子を伴い、光り輝くゲートが出現する。
虹色の粒子を伴い光り輝くゲートが、微かな摩擦音と共に、ゆっくりと開いていく。
その瞬間、リコの鼻腔を、幾度となく夢で見た、忘れていたはずの、あまりにも懐かしい花の香りがくすぐった。耳に、優しい風の音が聴こえた。それは、彼女が、あの森の棺で目覚める前にいた、故郷の匂い、魂の原風景の音だった。
そして、光の奔流の中から、時を超越したような威厳を持つ、気高いエルフの女王が静かに、しかし絶対的な存在感と共に姿を現した。
「――リコ。よく、一人で頑張りましたね」
その、あまりにも懐かしい響きは、何千年も探し求めていた故郷の旋律のように、リコの魂の奥深くに沁み渡った。リコの瞳から、堰を切ったように熱い涙がこぼれ落ちた。
「……女王様。一人ぼっちでは、ありませんでした」
リコの声は、震えながらも、確かな誇りを含んでいた。
「俺もいたけど、皆、リコに救われたんだぜ」
女王は、金のペンダントを見ると、優しく微笑んだ。
「言葉は、もう不要ですね」
女王の瞳は、リコの魂を深く覗き込み、彼女のすべての苦悩と喜びを承認していた。
「さあ、リコ。共に、私たちを必要としている、次なる安らぎの世界へ共に」
その、あまりにも甘美な誘いに、リコは、ゆっくりと首を横に振った。
「……一緒には、行けません。この世界が、きっと、まだ私を必要としてくれている。そんな気がするのです」
「……そうですか。この世界で、あなたは『成すべきこと』を見つけたようですね」
「はい。エルフの皆さんには、いつでも会えますから。必要とされているうちは、この世界の皆さんと、一緒にいたいです」
「あなたの選択を、心から祝福します。皆も、勇気あるエルフの子、リコに祝福を」
女王は、満ち足りた微笑みと共に、光の中へと静かに消えていった。ゲートもまた、使命を終えたように、音を立てずに静かに閉じる。
遺跡の広間には、再び静寂が戻った。しかし、それはもはや冷たい沈黙ではない。
彼女は、もはや「最後のエルフ」ではなかった。
自らの意志で、この世界を選んだ、ただ一人の「最期の郵便配達人」だった。
◇
作者より、この物語を読んでくださった、親愛なるあなたへ
この物語を、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
強い風に逆らいながら、リコは今日も元気に、郵便配達を続けています。
彼女が旅をするこの世界は、決して優しいだけではありません。
それは、私たちが生きる、この世界と、少しだけ似ているのかもしれません。
もし、あなたが、誰にも必要とされていないと感じることがあるのなら、
どうか、リコとクロの旅を思い出してください。
それはきっと、気のせいです。
世界は、あなたを絶対に必要としています。
誰からも感謝されない日があるかもしれません。
一生懸命やったことが、裏目に出てしまうこともあるかもしれません。
そんな時は、どんなに辛くても、元気に郵便配達を続ける、一人の少女の姿を心の片隅にでも、思い浮かべてください。
あなたが辛い時、あなたの魂が、本当に救いを求めている時。
もしかしたら、あなたのためだけに。
あの小さな少女が、大切な誰かからの手紙を、届けてくれるかもしれない。
この物語が、あなたの心に、ほんの少しでも温かい光を灯せたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。この「手紙」を心から貴方へ送ります。
(了)




