カウントダウン・前編
僕はテーブルに座り、右手に置かれた一本のロウソクだけが、すでに暗闇に包まれた部屋をかすかに照らしていた。『貴族の礼儀と慣習』の第二巻を読み終えたところだった。
立ち上がったことは覚えている。そのあとは、何もない。
暗闇は前触れもなく、痛みもなく、何が起こったのかを思い出すための手がかりとなる感覚さえなく訪れた。
目を開けた。すぐに、冷たいものが頬に押し当てられているのを感じた。床だった。
少しの間混乱したが、体を起こそうとした。ズキズキとした痛みが頭を貫いた。髪の間に手を入れると、肌や髪の束に何かが乾燥してこびりついているのを感じた。
指を見ると、血の跡があった。
(頭を打った? なにが……)
床に目を落とした。僕の横には、すでに固まった小さな血だまりがあった。
ドアの向こうから足音が聞こえた。
ヒルダが入ってくる前に、僕は急いで血の跡をこすり落とした。ヒルダが入ってきて、温かいパン、冷たい牛乳、そしてチーズを一切れ持ってきた。食事をテーブルに置いた後、彼女はエプロンのポケットに手を入れ、新しい本を取り出して食事の横に置いた。
僕はできるだけ自然に振る舞おうとした。
「わあ、これは何について書いてあるの?」
「もう少し休んだほうがいいのではないですか?」
僕は微笑んで、何か言おうと口を開いた。
(こんなふうに言うのを聞くのは、いつ以来だろう?)
少しの間、僕は黙り込んだ。ヒルダがあんなふうに微笑むのを見たのが、いつ以来だったのか、ほとんど思い出せなかった。
「心配しないで。むしろ、久しぶりにそんな反応が見られて安心したよ。一瞬、僕のこと忘れちゃったのかと思ったから」
彼女は目を閉じ、僕がとても恋しく思っていた、かつての厳格な乳母に一瞬だけ戻った。
「はあ!? 坊ちゃんの目には私がそんなふうに映っていたのですか?」彼女は腕を組み、片手に持ったトレイを腰に当ててトントンと叩き始めた。
少しして、二人とも思わず笑い声を漏らした。しかし最後の方で、彼女の笑顔が自然さを失っていることに気づいた。彼女の目は疲れきっており、隈が目立っていた。
彼女がこれほどまでに消耗するような、どんな困難に直面しているのか僕には分からなかったが、それでも彼女と少しでも長く一緒にいたかった。この平穏は永遠には続かない。遅かれ早かれ、何かがそれを壊すだろう。それがいつになるかは分からなかったから、今のうちに彼女と一緒にいたほうがいいと思った。
僕は急いで椅子に座った。
「今日持ってきてくれた本はなあに?」
表紙を見た。他の本よりも装丁が均一で丁寧だった。
「それは文法の基礎についてです」彼女は近づきながら言った。
僕は表紙を指でなぞり、本を開いた。最初の数ページには、これまで見たこともないような規則、例文、単語がびっしりと書かれていた。最初の文を読んだ。そして二番目の文。三番目の文で、僕は前に戻った。
「待って……」僕は呟いた。
僕が指で文を指し示すと、ヒルダは少し首を傾げた。
「この助詞は、位置によって文の意味を変えるんだね」
「ええ」
ページをめくった。別の例を見つけた。
「じゃあ、この規則もここにあてはまるんだ」
彼女は近づき、本に視線を落とした。数秒間じっとしたまま、ゆっくりと僕の方へ目を上げた。
「どうやって……どうやって分かったのですか?」
僕はページのほうへ視線を落とした。
「分からない。なんだか全部すごく簡単に思えて」
ヒルダは瞬きをし、本の縁を少し強く握った。
「でも……坊ちゃんは……」彼女は言葉を切り、静かに咳払いをした。「これを全部……一度読んだだけで理解したのですか?」
僕は頷いた。
彼女は再びページに目をやり、自分も正しく読んだか確認するかのようにしてから、もう一度僕に目を向けた。
「坊ちゃん……それは、尋常ではありません」彼女の声は少し低く、震えを帯びていた。
「ましてや、坊ちゃんのお年を考えれば……」
僕は本に視線を落とした。自分では何も特別なことをしたつもりはなかった。
(どうして今まで気づかなかったんだろう?)
おそらく、この数日間に起こったすべてのことに気を取られすぎていたのだろう。それでも、それはあまりにも明白なことだった。
本に目を戻し、いくつかの行を素早く読み返した。少し前ならもっと長く勉強しなければならなかったはずの単語や公式に目を留めた。
以前何度も感じていたような混乱はもうなかった。ヒルダに指摘されて、ついに気づくことができた。
(以前はこんなことできなかった。)
説明を見つけようとしたが、見つからなかった。おそらく、これまでに起きたすべてのことに対する僕の体の反応にすぎないのだろう。
それなのに、あの頭への圧力は消えていなかった。
むしろ、集中しようとするたびに重くなっているように思えた。目の奥で脈打つような重みを感じ、しばらくの間、視界が少しぼやけた。
こめかみに手を当て、ゆっくりと呼吸をした。
(普通じゃない……)
僕はそれを無視しようとして本に戻ったが、その感覚はそこに残り、頭蓋骨の内側から何かが圧迫しているかのようだった。
唇を動かしているヒルダを見た。
(話してる? なんで……聞こえないの?)
その時初めて彼女が話しかけていることに気づいたが、彼女の声には何か奇妙なところがあった。
くぐもって聞こえ、まるで遠くから来ているようだった。言葉が混ざり合い、聞き取るのが難しかった。まるで水の中にいるような状態で彼女の声を聞いているようだった。
突然、彼女が近づいてきた。何も言わずに数秒間僕を見つめた。目を見開き、僕の肩を掴んで、激しく揺さぶった。
「坊ちゃん……大丈夫ですか!?」
彼女は瞬きをし、頭を素早くあちこちに向けた。
「ここで待っていてください。水を持ってきます」
彼女が振り返り、急いで部屋を出て行くのが見えた。
(前はこんなことなかったのに……僕に何が起きてるの?)
彼女は両手にコップ一杯の水を持ってすぐに戻ってきた。急いで近づき、僕の横にしゃがみ込んだ。
「さあ、水を少し飲んでください」
彼女は僕の頭を両手で優しく包み込み、僕の唇にコップを持っていった。僕はまだ混乱したまま、数口飲んだ。冷たい水が喉を通り抜けたが、消える気配のないあの奇妙な感覚は、ほんの少しだけ和らいだだけだった。
ヒルダは手を離さず、僕の横にいた。
「私を見てください」
僕はゆっくりと彼女に目を向けた。彼女の表情が変わっていた。唇がわずかに震え、指が僕の肩をそっと強く握っていた。僕はさらに数口飲み、ヒルダはゆっくりとコップを下げた。彼女の視線が自分の手へと落ちた。
僕は彼女の目を追った。彼女の震える手の指の間に、乾いた血の跡が少し残っていた。
(ああ、だめだ……)
拭き取るのを忘れていた。ヒルダは数秒間黙っていた。
「これは何ですか?」
僕は視線を落とした。乾いた血は髪の間にも残っていた。忘れていたのだ。
(見つかった)
胃が締め付けられるのを感じた。彼女が入ってくる前に、もっときれいに拭き取っておくべきだった。ヒルダはすぐに立ち上がり、僕の頭に近づいた。
「見せてください」
彼女は僕の髪の間に手を入れ、血がどこから出ているのかを注意深く探った。指がこびりついた部分に触れると、彼女の顔が真剣になった。
「どうしてこんな怪我を?」
僕はためらった。
「なんでもないよ」
「なんでもないなんて言わないでください」彼女の声は低くなった。「どうして髪に血がついているのですか?」
「ベッドの木枠に……頭をぶつけちゃったんだ」
ヒルダは動かなかった。
「ベッドの下に落ちたものを取ろうとして……」
「どうしてそんなに強く頭をぶつけたのですか? 下から何かを取るためだけに」
「あり……ありえるでしょ?……」僕は唾を飲み込んだ。
彼女は数秒間僕を見つめ続けた。それから静かにため息をつき、突然僕を彼女の方へ引き寄せた。
「何かおかしいことがあったら、私に言わなければだめですよ、分かりましたか? 全部一人で抱え込んではいけません」
僕は彼女の腕の中でじっとしていた。そして、目を閉じた。
彼女の清潔な香りがもう一度僕を包み込んだ。それは親しみやすく、安心できるものだった。僕は彼女に身を寄せ、彼女に抱き寄せられ、顔を胸に押しつけられた。彼女の体の温もりを感じた どういうわけか、奇妙な感覚が僕を通り抜けた。それがどこから来たのか、どうしてそんな気持ちになるのか分からなかった。
僕はじっとしていた。
「いいですね?」
ヒルダは何も言わずに、僕を少し強く抱きしめた。
「うん!」
僕に言えたのは、それだけだった。




