虚無の色・前編
「じっとしていてください、ルティアン坊ちゃん。お願いですから……」
僕の襟元にある銀の留め具を直すヒルダの指は、微かに震えていた。
アイゼンハルト家では、五歳という年齢には特別な意味があった。今日行われる『魔術試練』――それが、僕のこれからの人生すべてを決定づけるのだと、子供ながらに理解していた。 失敗は、許されない。
不安をごまかすように僕が文句を言うと、彼女はピタリと動きを止めた。
「ヒルダ、体中が痒いよ! キツすぎて、うまく息ができないんだ」
僕は彼女の手から逃れようと身をよじりながら文句を言った。
「柔らかいウールの服を着てもいい? お庭に遊びに行きたいよ」
彼女はピタリと動きを止めた。僕の額を軽く指で弾いた。それから一歩前に出て僕の正面に立ち、両手で僕の顔を包み込んだ。その手のひらは冷たく、指先には硬いタコがあった。
彼女は僕の目をじっと見つめ、少しの間何も言わなかった。その視線があまりにも真剣で、僕は胸が締め付けられるような気がした。心臓がドキドキと音を立てていた。
思わず腕を伸ばし、彼女にしがみついた。
「今日は遊べませんよ、坊ちゃん。完璧でなければならないのです」
彼女は僕の耳元で囁いた。彼女は僕を抱きしめ、安心させようとしてくれているようだった。
「外に出たら、ご自分が何者であるかをしっかりと示すのですよ!」
僕はこみ上げるものを喉の奥に飲み込み、小さく頷いた。
ヒルダは鼻をすすりながら勢いよく立ち上がった。その姿が誇らしげに見えて、僕にはそれだけで十分だった。瞬時に彼女は普段通りの、厳格で妥協を許さない乳母の顔に戻った。
「マルタ! グレーテ!」
開いたドアに向かって彼女は声を張った。
僕の部屋でよく雑用をしている二人の若いメイドが、うつむき加減で足早に入ってきた。
「ルティアン坊ちゃんを月の広間の入り口までお連れしなさい。そこで護衛が待っています。分かりましたね?」
「はい、ヒルダ様」
二人は声を揃えて囁き、物言わぬ歩哨のように僕の両脇に立った。
ヒルダは僕の襟元を素早く直し、僕の体を出口のほうへ向かせた。
「さあ、行ってらっしゃいませ、坊ちゃん。そして、胸を張っていくのです……何があろうとも」
背後で衣擦れの音がして、微かで優しい風が僕のうなじを撫でた。
(なんで彼女の声が……?)
僕は胃の奥が締め付けられるような感覚を覚え、勢いよく振り返った。
「ヒル――」
だが、彼女はすでに消え去っていた。
彼女がこうして姿を消すことには、どうしても慣れなかった。 時折、何の説明もなくただふっと消えてしまうのだ。どうやっているのかも見当がつかなかった。一瞬前までそこにいたのに、次の瞬間にはもういない。
「坊ちゃん、急がないと遅れてしまいます」
「う、うん!」
僕は頷いた。
「ヒルダは一緒に来れないの?」
「急ぎの用事があるそうで、私どもがこの役目を任されたのです。安心してくださいませ、坊ちゃん。どうぞご安心くださいませ。広間に着くまで、少し長く歩くことになりますから」
僕は右側にいるメイドのスカートの裾をぎゅっと掴んだ。彼女は僕の背中に手を添えて微笑みかけ、一緒に歩き出した。
僕たちは自室を出て、宮殿の一階から続く尖塔へと向かった。決して短い道のりではなかった。階段を二階分下りて、応接室を通り抜け、さらに別の階段を上って廊下に出なければならなかった。
廊下は騒然としていた。お盆やロウソクを持った使用人たちが、あちこちを走り回っていた。
僕の姿を見ると、彼らは頭を下げて歩く速度を速めた。まるで、僕を見るだけで不運に見舞われるとでもいうように。僕が物心ついた時から、ずっとこんな調子だった。
だけど、このチュニックのことは、嫌というほど知っていた。首を締め付けられ、動くたびに硬い生地が肌に擦れる。宮殿が貴族たちで埋め尽くされるような、重要な宴の席で着せられるのと同じ服だ。
この服を着る時はいつも、誰かの前に出なければならないということだった。
歩きながら、不安で足が震えるのを感じていた。
(ロン、ダン、間に合うといいんだけど。待っててね!)
僕は両手を握りしめ、深呼吸をした。
一階に到着し、プライベートな庭園を通り抜けた。空気にはバラや花々の香りが漂い、その柔らかな香りは、僕の中で渦巻く焦燥感とは対照的だった。
僕たちは進み続け、宮殿全体で最も大きな広間がある尖塔の中へと入った。
月の広間。
広間の扉は巨大で、薄暗がりの中に漂う静寂が、僕を足の先から頭のてっぺんまでさらに凍りつかせた。
宮殿のこの区画には数回しか来たことがなかったし、僕の知る限りでは完全に立ち入り禁止で、近づくことすら許されていなかった。
二人のメイドは扉の前で立ち止まり、大柄な護衛に僕を託した。
今日のこの場所は護衛で溢れかえっていた。ここにいる人数の多さを見れば、その理由は火を見るより明らかだった。
ついに、待ち続けていた魔術試練の日がやってきたのだ。
それなのに、僕にはまだ実感が湧かなかった。
月の広間の扉が内側へと重々しく開き、耳をつんざくような金属音が響き渡った。
宙に浮かぶ炎の熱と輝き、そして広間を満たす無数の声が僕を包み込んだ。先ほどまでとはまるで別世界だった。
僕の呼吸はさらに荒くなった。
黒大理石の床にブーツの音を響かせながら、護衛は足を止めた。
「栄えある月の広間に、ルティアン・シュタール・アイゼンハルト様のご入場です!」
恐怖と驚きに襲われ、背筋に悪寒が走った。僕の思考は完全に止まった。
背中に何かが触れるのを感じて、僕はその場で飛び跳ねた。護衛が顎で右へ進むように合図していた。
そこには子供たちの長い列ができていた。さらにその奥には、子供たちの右側に沿うように、騎士や護衛たちの列が並んでいた。
僕は歩き出し、その集団の最後尾へと向かった。
(少なくとも最初じゃない)
僕は安堵の吐息を漏らした。
だがそれも束の間だった。
広間の左側に視線を向けると、すべての視線が僕に突き刺さっているのが分かった。
視線を中央に移すと、広間に浮かぶ炎を反射して、中央の巨大なテーブルが目も眩むほどの光を放っていた。
その上には、異様なほど丁寧に折りたたまれた何かが、僕らを待ち受けていた。
エーテルのヴェールだ。
テーブルの傍らには、威圧感を放つ叔父の姿があった。
シラード・シュタール・アイゼンハルト。
だが、本当に息が詰まるほどの威圧感を放っていたのは、広間の奥、一段高くなった壇上にいる人物だった。
ヴォルガス・シュタール・アイゼンハルト……僕の父上だ。
彼は左足を曲げ、玉座の上に乗せ、気だるげで、ほとんど傲慢とも言える姿勢で座っていた。 片腕で顔を支え、もう一方の手は肘掛けからだらりと垂らしている。
その感情のない視線が広間を貫いていた。彼がそこにいるだけで、僕には空気が重く、息をするのさえ苦しく感じられた。
先に並んでいる子供たちは皆、彫像のように微動だにせず沈黙していた。 広間に響くのは、貴族たちのひそひそ話だけだった。
当家の宰相が、父上の横へと進み出た。父上に向かって一礼すると、中央のテーブルへと続く数段の階段を下りた。そこに着くと、広間のほうへ向き直り、しばらくその場に立っていた。
ざわめきと話し声が、依然として空間を満たしていた。
宰相は咳払いをして、マントから取り出した羊皮紙をわずかに掲げた。
「皆様、本日の試練は――」
彼の声はざわめきにかき消された。
さらに声を張って最初の言葉を繰り返そうとしたが、ざわめきは収まらなかった。
僕が父上を見たのは、まさにその時だった。
彼は頭を支えていた手を下ろした。指を一本だけわずかに持ち上げ、数秒後にゆっくりと下ろした。
ざわめきは一瞬にして止んだ。
月の広間にゆっくりと静寂が降りた。最後の話し声が数秒ほど響いた後、完全に消え去った。
宰相は、まさにその瞬間を待っていたかのように、わずかに視線を下げた。そして再び咳払いをした。
「ここに集いし貴族諸公の御前にて、ウィストリア領の誉れ高き諸家の、五歳児を対象とした魔術試練の開始を公式に宣言する」
ざわめきが広間を駆け巡った。
「以前より告知されている通り、本年の試練ではマナを検知するための新たな手法を導入する。体内のマナの存在を感知できる、エーテルのヴェールを使用するものだ。これを用いることで、過去のいかなる手法よりも安全かつ確実な検知が保証される」
彼は少し間を置いた。
「本試練の監督は、宮廷大魔導士であるシラードに一任される」
叔父が一歩前に出た。
「一人ずつだ」
シラードが告げた。その抑揚のない声が柱の間に響き渡った。
「近寄れ。我が主の御前にひれ伏し、そしてヴェールを握れ」
シラードは僕と目を合わせ、わずかに目配せした。
(今日は一番大事な日だ。あんなにたくさん授業を受けたんだから……もう少し落ち着けないのかな?)
僕は息を呑み、両手を握りしめ、これから起こることについて考えないようにした。
はじめまして。作者のEisekiです。
この作品を見つけてくださり、そして読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語が少しでも皆さんの心に残り、「続きが気になる」「もう少し読んでみたい」と思っていただけたら、とても嬉しいです。
まだまだ未熟なところも多い作品ですが、自分なりに大切にしながら、最後まで物語を書いていきたいと思っています。
もし読んでいて「ここが面白かった」「このキャラクターが好き」「この先が気になる」など、何か感じたことがありましたら、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。
皆さんからいただく感想や反応は、これから書き続けていくための大きな励みになります。
一人でも多くの方に「この物語を読んでよかった」と思っていただけるよう、これからも頑張っていきます。
どうぞ最後までお付き合いいただければ嬉しいです。




