獲物から捕食者へ
※【後書き】
第一章完結:「決別」
ルティアンの物語をここまで追いかけてくださった皆様、心から感謝申し上げます!
この第一章「決別」は、これから始まるはるかに壮大な旅の、ほんの序章に過ぎません。
物語はまだ始まったばかりであり、ここまで読んでいただいたのは、ルティアンを待ち受ける運命のほんの一部に過ぎません。
ですが、まだ終わりではありません。
このエピソードのあとには、本編の結末と同じ時間軸で起きていた出来事を描いたボーナスチャプターがいくつか追加されます。これにより、何が起きたのかを別の視点から見ることができるようになります。
というわけで、第一章は完結しましたが、物語はまだまだ続きます。どうぞお楽しみに!
「きゅ、九十八……きゅ、九十九……くぅ……!」
呼吸をするたびに、ガラスの破片が肺に突き刺さるようだった。 青ざめた指で欠けた岩の出っ張りにしがみつき、何度目か分からない自重を引き上げる。 横殴りの雪が、暴力的な突風に煽られて顔を打ちつけ、ガルガルドの峰の輪郭をかき消していく。
限界だった。 腕の筋肉は悲鳴を上げ、今にも力尽きそうだった。 だが、立ち止まるわけにはいかない。 魔力も闘気も持っていない僕には、他の何かにすがるしかなかった。
「ひゃ、百っ……」 這うようにして立ち上がり、額の汗を拭った。
(テオが言っていたあの流派のこと、もっと詳しく調べ始めた方がいいかもしれない)
クレバスの縁を完全に越えようと力を込めたその時、ヒルダの腕輪が反応した。 ただの痺れではなかった。 強烈な熱の波が前腕を貫き、皮膚の下へと浸透してきた。 それは瞬時に乳酸を焼き尽くし、硬くなった腱をほぐし 、僕に呼吸を取り戻させた。 僕は平らな岩の上に崩れ落ち、凍りついた石に頬を押し付けながら荒い息を吐いた。
あの夜、テオと衝突してから、もう一年近い歳月が流れていた。
その間、僕は週に一度、多い時には二度、警備の目を盗んで壁外へ抜け出し、ガルガルドの峰で訓練を続けていた。夜明け前に野営地へ戻るのは、僕のように魔力の痕跡を一切発しない者にとって、まるで子供の遊びのように簡単だった。
厩舎へ向かう道すがらテオとすれ違うだけでも、あるいは彼が先回りして待っている姿を想像するだけでも、僕は踵を返した。どうしても顔を合わせたくなかったのだ。実際にカエルの元へ行こうとして、彼の姿を遠目に見つけ、無言で引き返す夜も少なくなかった。
だが、本当の拷問は太陽と共にやってきた。本当の拷問とは、テオのあの捨て犬のような目に耐えることだった。彼が僕の前腕を握り潰しかけて以来、どうにかして許しを得ようとしていたが、彼が謝るたびに僕たちの間の溝は深まるばかりだった。僕たちの間の沈黙は、息が詰まるほど重苦しくなっていた。
僕は上半身を起こし、手首をさすった。
カエルと彼のいまいましい本も、結局は何の役にも立たなかった。 隠れて読み漁ったが、そのページにはより強力な流派についての手がかりも、闘気を覚醒させる方法も一切書かれていなかった。 だから僕は、この白い地獄の中で、自己流の訓練を強行するしかなかった。
(それに……あの感覚がある)
腕輪を見つめ、数メートル先にあるクレバスの濃密な闇へと視線を移した。 あの裂け目に近づきすぎると、腕輪は疲労を和らげるために温まるだけではなくなる。 脈打つんだ。規則的に、そして重く。まるで第二の心臓のように。 さらに不気味なことに、あの暗闇の底で、何かが僕を見つめているというはっきりとした感覚があった。
その思考を振り払い、訓練を再開した。 腕輪が今までとは違う反応を見せたのは、クレバスの近くに突き出た岩の上で、息を切らしながら休憩していた時だった。長く、痛みを伴う強い振動が一度走った。
その直後、音が聞こえた。 黒板を爪で引っ掻くような鋭い軋み音。 それに続いて、圧縮された雪が潰れる重い音が響いた。
疲労で息を弾ませながら、僕は勢いよく振り返った。 目の前には、ついさっきまで硬い氷の壁しかなかったはずの場所が、突如として崩れ落ち始めた。凍てついた表面が一瞬にして溶け落ち、厚い雪の毛布に隠されていた洞窟の黒い入り口が姿を現した。
その暗闇から、悪夢が這い出してきた。 まず一本の脚が、次に二本……。 真っ黒なキチン質の八本の肢が、鈍い音を立てて雪に突き刺さる。 その怪物は、深淵から這い出すように前へと進み出た。
洞窟の内壁からは、暗闇の中で微かに光る蜘蛛の巣の太い糸が垂れ下がっていた。 その粘着性のある唾液の切れ端が、いまだに怪物の黒々とした脚に絡みつき、一歩踏み出すごとに小さな音を立てて引きちぎられていく。 洞窟内に張られた糸のいくつかが、見えない風に揺られるように微かに震えていた。
体は低く構え、攻撃に備えて張り詰めており、その無数の青白い眼球は、曇り空の灰色を反射しながら、感情のない飢えを宿していた。 僕は硬直した。 ラプランだ。
(腕輪が警告していたのは、こいつのことだったのか?)
一瞬、夢でも見ているのかと思った。
(冬の間は冬眠しているはずじゃないのか!?)
だが、そいつは僕から数メートルのところにいた。しかも、途方もなく巨大だ。
(あり得ない! どうしてこんなところに!?)
僕の脚は強張っていた。 膝まで埋まる深い雪と、訓練による乳酸で鉛のように重い。 こんな地形で逃げ切るなんて不可能だ。
(動け。逃げなきゃ!)
凍てつく空気の中で微動だにせず、一瞬だけ、奴が僕に気づいていないことを祈った。 だが、寒さで震える僕の歯がカチカチと鳴る鈍い音が、その静寂を破ってしまった。無数の眼球が一斉に僕の方へと向けられた。
ラプランが弾かれたように動いた。 前脚が突然振り下ろされ、僕の胸を真っ直ぐに狙ってきた。 横に飛び退こうとしたが、疲労で麻痺した脚が裏切った。 無様に足をもつれさせ、完全にバランスを崩した。
ただのまぐれで後ろに倒れ込んだその直後、まさに僕が立っていたその場所の地面が爆発するのを感じた。 衝撃波によって僕は後ろへと激しく滑り飛ばされ、雪に隠れていた岩の突起に肩を強く打ち付けた。 喉の奥で息が止まった。 砕けた岩と氷の破片が顔を打つ。 凍てつくような雪が目に入り、視界を奪われた。
僕は転がり、むき出しの別の岩に肩をぶつけ、その衝撃を利用してよろめきながら立ち上がった。 腕輪は依然として振動を続けており、第二の鼓動のように、その深い脈打ちが腕を伝い上がってくる。
息を吸う。 もう一度吸う。速すぎる。 僕は震える手で、腰に差していた短剣を抜き放った。 だが、怪物の鳴き声を聞いた瞬間にビクッと体が跳ね、短剣を落としてしまった。
(ここで死にたくない!)
「何か解決策を見つけないと……早く」凍てつく息に途切れながら、その言葉がどうにか口から漏れた。
ラプランは岩に引っかかったまま、しわがれた唸り声を上げながら狂ったようにもがいていた。地面にへばりつきながら、どうにか顔を上げた。 怪物の巨大な質量が灰色の空を覆い隠し、僕の小さな体をその影へと飲み込んだ。 六つほどの乳白色の眼球が、まぶたもないまま一斉にこちらを向いた。
かかとで地面を蹴って後ろに下がろうとしたが、脚の筋肉は反応せず、鉛のように重かった。 呼吸が喉の途中で途切れ、押し殺したような喘鳴へと変わる。 その濁った瞳には何の収縮もなく、野獣のような凶暴性の欠片もなかった。
それは不透明で、静止した鏡だった。 氷のような無関心さで、僕を見つめている。 肺の中で息が止まった。 僕はこの視線を知っている。父上の目の中で、何百回と見てきたものだ。
上から僕を見下ろすあの空虚な表情と、全く同じだった。 息子を見ているのではなく、無価値なゴミを見つめるような目。 怒りを向ける価値すらなく、魔力もない、ただの鬱陶しい虫けら。 空っぽの胃袋が裏返るような吐き気を催した。
「僕は……」僕は囁いた。
突如として、暴力的とも言える熱が胸の中で爆発した。 抵抗もせずにここで食い殺されるということは、彼の言うことを認めるということだ。 父上が僕のことをそう思っていたように、ただの廃棄物として死ぬということだ。
骨が軋むほど強く顎を噛み締めた。 その反逆の本能が一瞬にして、僕を縫い留めていた恐怖を焼き尽くし、麻痺していた肩を無理やり動かした。 その僅かな勇気を振り絞り、地面から短剣を拾い上げ、怪物に向かって駆け出した。
「あああああっ!」
「――っ!」キンッ。
刃は獣の甲殻に激突し、虚しく滑り落ちた。 僕は信じられない思いでその硬い装甲を見つめた。かすり傷一つつけられなかった。
(力が足りない)
(もし……もし僕に魔力があれば……あるいは闘気があれば……)
ラプランがゴボゴボと濁った唸り声を上げ、雪と氷を振り払った。 奴は拘束から抜け出していた。 一瞬の躊躇もなく、奴は僕の方を向いて突進してきた。
僕は反射的に両手で短剣を振り上げ、奴がのしかかってくる直前に刃を横にして構えた。 その大顎が、信じられない力で刃に食らいついた。 凄まじい反動だった。 僕はまるでぬいぐるみのように吹き飛ばされ、凍りついた地面に背中から激しく叩きつけられた。
獣が牙を突き立てようともがいている最中、その脚の一本が僕を掠めた。 ゴキッ。 左肘のあたりで、乾いた、吐き気を催すような破裂音が弾けた。
世界が真っ白になった。 絶対的な痛みが神経から脊髄を貫き、僕の思考を真っ白に染め上げ、失神の縁へと追いやった。 その激痛で指先の感覚が完全に消え去り、危うく短剣を取り落とすところだった。
だが、その純粋な苦痛が引き起こした無意識の痙攣、神経の反射的な収縮こそが、右腕を狂ったバネのように前方へと弾き出させた。 刃が勢いよく突き刺さり、ラプランの眼球の一つを正確に貫いた。 血の凍るような、人間離れした鋭い叫び声が響き渡る。
獣は数メートル後退し、ヒステリックにもがきながら頭を雪に打ち付けた。 破壊された左腕から絶え間なく激痛が押し寄せ、 これほどの苦痛は、今まで味わったことがなかった。
目が脈打つように痛んだ、心臓の鼓動が耳の奥まで響いていた。 熱い涙が頬を伝い落ち、極寒の空気に晒された肌の上で瞬時に凍りついた。 左腕を持ち上げようとした。 喉から悲鳴が爆発した。あまりの痛みに、言葉すら途切れてしまう。
「あああああっ! 助け……」
(助けて! ここで死にたくない!)
立ち上がろうとしたが、足が崩れ、後ろに倒れ込んだ。右腕を使って起き上がろうとしたが、体はまた崩れ落ちた。僕は倒れた。 悲鳴を上げながら、ラプランが背後に雪煙を上げて前方に突進してきた。 その大顎が、おぞましい破裂音とともに大きく見開かれた。
むせ返るような酸の悪臭が僕の顔を打ち据え、牙から滴り落ちる粘り気のある液体が、僕の数センチ横の雪を溶かし、そのジュージューという不気味な音が頭蓋骨の中で響き渡った。 後ずさりしようとしたが、両脚は完全に崩れ落ちた。 腱を喰い荒らすような激痛が、視界を霞ませるほどに鋭く突き刺さる。
僕は制御不能なほど震えていた。 ガルガルドの峰のいかなる極寒であろうと、これほどの震えを引き起こすことはできない。 それは胃袋を鷲掴みにするような、純粋で動物的な恐怖だった。
「くそっ……くそおおおっ!」パニックでひび割れた声で、僕はしゃくり上げた。
痛むほど強く目を閉じ、自分の肉を引き裂きにくる牙を待ち受けながら、体を丸めた。 こんな終わり方は嫌だ。 魔力を持たない惨めなゴミとして、暗闇の中で食い殺されるなんて。 僕は短剣を地面に落とした。
(もし僕が……もっと強ければ……)
(動け。今だ!)
それは懇願ではなかった。絶対的な命令だ。 僕は雪の中を手探りで短剣を探し出し、決死の動きでその柄を歯で強く噛み締めた。 本能的に背後にある突き出た岩に両足を踏み込み、前方へと身を投げ出した。 ラプランに向かって。
どうすべきかは分かっていた。あの試合の時のように。 完全な狂気であり、自殺行為だった。 だがその瞬間、僕の頭は背筋が凍るほど澄み切っていた。氷を擦りそうなほど身を低くし、獣の腹の下へと滑り込んだ。柄の革を顎が外れるほど強く噛み締める。
もう痛みは感じなかった。 あるいは、単に痛みが強すぎて、体がその影響を処理しきれなくなっていただけなのかもしれない。
口から短剣を引き抜き、残った右腕で刃を真っ直ぐ上に向けて突き上げた。怪物は自らの全重量をもって僕の刃の上に落ちてきて、その腹部に刃が深く突き刺さった。
肉が引き裂かれる、生々しい音が聞こえた。暴力的な震えが獣の体を揺るがし、それが僕の腕にも伝わってきた。
ラプランは重い音を立てて雪の上に崩れ落ち、その脚は最後の狂乱した痙攣を起こしながら、僕にぶつかり、引っ掻き傷を作った。 その大顎は僕の顔から数センチのところで空虚に音を立て、雪の上に毒を吐き出した。
僕はその場に取り残され、荒い息を吐きながら、獣の緑がかった血と、急速に凍りついていく自分の汗にまみれていた。 生きている。僕は怪物を殺したんだ。
立ち上がろうとしたが、膝が崩れた。前方に倒れ込み、顔を雪に埋めた。 深く息を吸い込むことができず、肺が焼けるように痛い。 腕輪の振動が遅くなっていた……だが、再び脈打ち始めた。より強く。 洞窟から、
別の音が聞こえてきた。 他のラプランだ。
(動け)
その声が、さらに深く響いた。ただの僕の想像じゃない。 最後の力を振り絞り、右腕を雪に突き立てて岩の出っ張りの下まで体を引きずり、怪物が入れないほど狭い隙間へと潜り込んだ。 叫び声を上げないように、歯が軋むほど強く噛み締めた。
吹雪の勢いが増した。 怪物たちが通り過ぎていく気配がした。指先がもう僕の言うことを聞かない。頭を上げようとしたが、できなかった。 風は咆哮を続けていたが、その音はどんどん遠ざかっていくように感じた。 まぶたが重くなる。
(あの……声……)
そして、暗闇が訪れた。
乾いた音。僕は目を開けようとした。 真っ暗だった。 隙間の外で何かが動く気配がした。 脚がすれる音。シューという鳴き声。 そして、湿った、暴力的な音。 ズバッ。 ラプランの血が雪を染め上げた。
それが記憶なのか、今本当に起きていることなのか、僕には分からなかった。 動こうとしてみた。 左腕に激痛が走る。
「――っ!」叫ぶことすらできなかった。
(誰かが僕を引きずっているのか?)
体が跳ねた。一度。そしてもう一度。
(何が起きているんだ? どこへ……連れて行かれるんだ……?)
痛みが、少しずつ遠ざかっていく。 その時、それが聞こえた。 メロディ。 言葉はなかった。歌っているようにも聞こえなかった。 それでも……誰かが、その旋律を口ずさんでいた。
そして、何かを感じた。かすかな温もりが傷ついた腕から広がり、ゆっくりと皮膚の下へ忍び込んでくる。 痛みが消えたわけではなかったが、ほんの数秒間だけ、遠のいたように感じた。
(これは、何だ……?)
再びまぶたが重くなった。 熱が一瞬だけ強まった。 そして、暗闇に包まれた。




