正当な対価・前編
その日の夜、僕たちは宿舎へ戻る道を歩いていた。いつの間にか、辺りには僕とテオの二人しかいなくなっていた。
正直なところ、彼がどうしてあんなに元気でいられるのか、僕には全く理解できなかった。まるで何事もなかったかのように、調子外れなメロディを口笛で吹きながらピョンピョンと跳ねている。まあ、彼は自分の試合に勝ったのだ。あんなに嬉しそうにしているのには、それなりの理由があるのだろう。
ゾルタンは僕たちにひどく後味の悪い宣告を残していった。特に僕にとっては最悪だ。
「明日、負けた奴らは通常の二倍の訓練だ」と言い渡されたのだから。
僕は完全に疲労困憊していた。木刀の打撃を受けたあちこちの痣が熱を持ち、鋭い痛みが絶え間なく続いていた。
しかし、今日起きた出来事のあとでは、僕はすべてを別の視点から見つめ直すようになっていた。
(テオはどうやって勝ったんだ? その前には兄さんたちもいて、それから……)
僕は自分の両手を見下ろし、その片方を夜空へ向けてゆっくりと持ち上げた。今夜は月が高く、煌々と輝いていた。まるでふざけているかのように、僕はその月を掴もうと手を伸ばした。
(……そのあと、僕の試合では一体何が起きたんだ?)
(あの日読んだあの本……どうしてあんな風に内容を瞬時に理解して、真似することができたんだ?)
(本当にただの運だったのか?)
(それとも、魔力が使えないからこそ、僕にもできる『何か』の一部だったりするんだろうか?)
テオの唐突な声が、僕の思考を断ち切った。
「明日は僕、休みだ!……最高だよね?」
「ああ……最高だな」痛む肩を揉みながら、僕はボソリと呟いた。
前を歩く彼の背中を見つめた。
(隊長は彼に何を言ったんだ?)
考えれば考えるほど、疑問と疑念が湧いてきた。
「ねえ、テオ……」
彼は立ち止まり、いつもの笑顔でこちらを振り向いた。
「何?」
僕は一瞬、彼を見つめた。
(こんなことを聞いてもいいのだろうか? もしかしたら、彼と隊長だけの秘密なのかもしれない)
(もしそれが重大なことなら、僕みたいにまともに知り合いでもない相手に話すわけがない)
(それでいいのかもしれない)
(ただ尋ねただけで教えてもらえるようなことじゃないんだ)
「えっと……ちょっとアドバイスをもらえないかと思って……その、うーん……僕みたいに、魔力がない人間が強くなるにはどうすればいいんだろう? 使うには少なすぎるって場合でも」
テオは一瞬笑顔を消し、後頭部を掻いた。
「いい質問だね。うん、ここにいる全員が魔法を使えるほどの魔力を持ってるわけじゃないんだ。君みたいな人たちは、僕の知る限りだと、闘気を発現させる方法があるらしいよ」
「闘気?」
「自分の精神から生まれるエネルギーのことだよ。誰でも持ってるんだけど、みんながそれを引き出せるわけじゃないんだ。すっごく過酷な訓練が必要らしいよ。僕なんかには絶対無理だね!」
「じゃあ……もしそれすら上手くいかなかったら?」
テオは再び後頭部を掻いた。
「うーん、戦い方を学べる流派や道場はいくつかあるけどね。でも、僕は魔法使いになりたいから、そういうのには全然興味持ったことがないんだ」
(魔法使い? シラード叔父上みたいに?)
しばらくして、テオはその場でピョンと跳ねた。
「あ! そうだ!……誰かが言ってた気がする……うん、そうだ……一つだけ知ってるよ。たぶん一番有名なやつで、龍神流だったかな!」
(龍神……神、流?)
背筋にゾクッと寒気が走った。
「何、それ?」
「詳しいことは覚えてないけど、剣術が基本らしいよ。全然興味湧かなかったからさ」
僕は数秒間、黙り込んだ。 叔父上も、他の誰かも、そんな話をしているのを聞いた記憶がなかった。
「じゃ、じゃあ……僕でも強くなれる可能性があるってこと!?」
テオは微笑んだ。
(僕は魔力が使えない。でも、その闘気なら引き出せるかもしれない)
「まさにそういうことだと思うよ」
(闘気……)
「どうしてそんなことまで知って……」
「あー! ずっと前にいた訓練生でさ……自分の体を限界まで追い込みすぎて、筋肉が弾け飛んじゃった奴がいるって噂があって。それで……」
「……」
ドンッ!という鈍い音が響き、僕はビクッと肩を震わせた。
背筋に冷たい悪寒が走った。 テオが巨大な樽にぶつかり、それが倒れると、立て掛けてあった他の物も次々と巻き込み、目の前の柵に激突したのだ。 樽の蓋が外れ、中から悪臭を放つ黒い糖蜜が溢れ出し、広場のかなりの部分にまで広がっていった。
少し離れた暗闇の奥、灯りのない建物から、けたたましい馬のいななきが聞こえた。
(厩舎に着いたのか?)
ここに来てから、すっかり頭から抜け落ちていた場所だ。
「シィー……落ち着け、いい子だ、落ち着け」僕たちの前の暗がりから、しわがれた声が響いた。
その直後、テオは焦りと緊張の入り混じった顔で僕を見た。
「あ、ああ、どうしよう!? わざとじゃないのに、もし見つかったら……」
「どうやら、お客様がお待ちかねのようだな」
僕たちは二人同時に飛び上がった。 薄暗がりの中から、ゆっくりと一つの影が現れた。巨漢だった。 テオは驚きのあまり後ろへ仰け反り、僕に寄りかかりながら、僕ごと巻き込んで倒れた。
「テ、テオ、このバカ……」
僕たちは二人揃って、あの悪臭を放つ黒い糖蜜の海へと倒れ込んだ。 街灯の光に照らされて、横にいる馬の手綱を引きながら足を引きずって歩く、中年の男の姿が浮かび上がった。
僕は勢いよく立ち上がり、その惨状を見下ろした。僕たちの体にはその吐き気を催すような汚物がべったりとこびりついており、危うく嘔吐しそうになった。
(ああ、最悪だ、とんでもないことをしでかした……テオのバカ……)
彼がしでかしたこの大惨事に対して、言葉も見つからなかった。僕は一歩前に出た。 その老人は僕の顔を一度も見ようとせず、馬を撫で続けていた。
(もしかしたら、うまく解決できるかもしれない。怒っているようには見えないし)
「え、えっと、すみません。申し訳ありません、邪魔をするつもりはなかったんです。僕の友達がうっかり……」
「どう思う、トレンテ。こいつら、やらかしたか?」
馬は甲高く鳴き、首を振った。 僕はその老人と獣のシルエットを凝視しながら、この夜更けにこれ以上何が起こるというのかと自問した。
「行儀の悪いガキには、どうしてやるべきだと思う?」
馬は再び鳴き声を上げ、まるでその宣告に同意しているかのようだった。
「ふむ、そうだな。お前の言う通りだ」
テオはまだ地面に座り込んだまま、震える手で僕の手を引っ張っていた。
(馬と喋るこのイカれたジジイは誰なんだ?)
突然、彼が棍棒 のようなものを投げつけてきた。反射的に空中で掴み取ったが、危うく自分の顔にぶつけるところだった。血が煮えくり返るのを感じた。
「ス、スコップ……?」
「おい、金髪の坊主。明日、激怒した隊長からたっぷり罰を与えられたくなければ、さっさとその尻を上げて、それを使え」男の声のトーンが変わり、顔つきも一変した。
テオが弾かれたように立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。
「はい! 旦那……明日は僕の休みなので、もし見逃してくれ……」
「ここの損害はきっちり払ってもらう。自分の手で全て綺麗にするか、それとも別の方法で借りを返すかだ」
僕は息を呑んだ。怒りがこみ上げてきたが、彼の言う通りだった。これは僕たちが引き起こした損害だ。 僕は一瞬、歯を食いしばった。
僕は口を開きかけたその時、テオが先を越し、いつものずうずうしさで間に割って入ってきた。
(どうやったら、あんな風に怯えた状態からすぐに強気になれるんだ?)
「おいおい、落ち着けよ! ただの事故じゃないか、誰も怪我してないだろ? ほら、樽だってほとんど……」
「黙れ」老人は彼を一瞥すらせずに、冷たく言い放った。
彼の氷のような視線が、僕へと移った。
「もしゾルタンがこの惨状を知れば、てめぇらを丸々一週間、鉱山へ石拾いに送り込むだろうな。正直言って、俺もてめぇらの無能さのせいで巻き添えを食うのは御免だ」
僕は苦し紛れに唾を飲み込んだ。
「あ、あんた……ゾルタンにチクらないのか?」
薄い嘲笑が老人の唇の端を歪めた。
「それ次第だ。あいつの怒りを回避して、借りを返す方法が一つだけある。お前ら二人は丸一ヶ月間、毎晩訓練のあとにここへ来て、厩舎を掃除するんだ……分かったか?」
テオが抗議しようと口を開いたが、僕は歯を食いしばりながら、すぐに彼を制止した。
(何かがおかしい。これはただの弁償じゃない、もっと別の厄介な状況にすり替わろうとしている)
僕は深く息を吸い込み、怒りを鎮めようとした。
(一ヶ月? こいつ、狂ってるのか?)
僕は歯を食いしばった。何か良い解決策を考え出さなければならない。
「わ、分かった。でも……条件がある!」僕は声を張り上げた。
老人の口元に、ニヤリと不敵な笑みが浮かんだ。
「こんな程度の掃除の弁償に一ヶ月なんて、ただの搾取だ!」
「ほう、搾取だと……大層な言葉を知ってるじゃねえか。お前みたいなガキが、搾取の何を知ってるって言うんだ?」
僕は彼を見据えた。初日に会ったセバスと同じだ。あの眼差し。彼になら普通に話せる。いつものような心のつかえを感じなかった。
「最初の1週間は借りの返済としてタダで働く。だが残りの週は、正当な対価を払ってもらう!」
僕と老人の目が、真正面からぶつかった。冷たい二つの瞳だった。 隣でテオが何かブツブツと呟いていた。そして、老人に向かって指を突きつけた。
「……そうだよ! 正当な対価だ!」
一瞬の静寂が流れた。それに続いて、馬の最後のいななきが響いた。
「商談成立だ!」
(……え? え? えぇ!?)
あまりにもあっさりと解決策が見つかり、僕は面食らってしまった。 僕はスコップを地面に突き刺し、木の柄を強く握りしめた。
「対価については、今週中に決める。今はとりあえず全部綺麗にして、とっとと失せろ。明日の夜から、時間通りにここに来い。もしサボったら……」
「商談成立だろ!」僕は彼の言葉を遮った。
「いいだろう、坊主。広場はお前らのものだ!」老人は笑い声を上げた。
隣のテオは、すぐに作業に取り掛かった。
「早く終わらせなきゃ! 明日は休みだから、ゆっくり休みたいんだ。早く、早く!」
「チッ! これ全部、君のせいだからね! 口を開く前に、足元くらい見ていれば、今頃こんなことにはなってなかったのに!」僕は彼を叱りつけた。
まるで壁に向かって話しているようだった。彼が僕の言葉を聞いているのかどうかすら怪しかった。 僕は大きなため息をついた。
(訓練の上に、こんなことまで! 一体どうしてこんな羽目に……)
目の前には、あの悪臭を放つドロドロの黒い糖蜜の巨大な水たまりが広がっていた。 おまけに、僕たちの背中まで、すっかり濡れていた。
それは本当に過酷な作業だったが、最終的には樽を再び満杯にし、外に散らばっていた道具や木片を片付け終えた。 だが、問題があった。 汚れが完全に落ちていなかったのだ。
水がなければ、これ以上綺麗にすることは不可能だった。 テオは発狂しそうになっていた。作業を始めてからすでに二時間が経過しており、彼はついに叫び出した。
「もうやだ! これ以上何もしたくない!」
「こっちの台詞だよ。でも、ここで終わらせないと、明日もっとひどい目に遭うぞ」
その二時間の間、老人は完全に姿を消していた。しかし、少しして再び厩舎の影から現れ、何かを呟いた。
(いつからそこにいたんだ? さっきまでは誰もいなかっ……)




