六 本心
画材屋に着くと、丁度オヤジが店先で片付けをしているところだった。
「オヤジさん」
声をかけると、顔を上げて驚いたように目を丸くする。
「蒔田くん……と、美鈴?」
僕の背後で申し訳なさそうに俯く美鈴を見るなり、何かを悟ったように眉尻を下げて、その顔に憂いの色を滲ませた。
「彼女に、母親にはモデルの件を黙っているようにって言ったの、オヤジさんなんだって?」
威圧的な声色に、一瞬息を詰めて僕を見返すと、観念したように黙って頷いた。
「──とりあえず、入ってよ」
そう言われて店内に入り、裸電球の下がった勘定場の前で改めてオヤジに向き直った。店の奥から、珠万緒さんの作る夕餉の匂いが漂ってくる。
「親に言ってないって、なんでちゃんと教えてくれなかったんだよ。暗くなるから家まで送るって言ったら、急に様子がおかしくなって、画材屋に送ってくれって……」
頭を下げるオヤジは、弱々しい電球の光の下、落ちた影を見つめて項垂れた。
「本当に、悪かったよ……この子の母親、なにしろ心配性でさ。母一人子一人だし、仕事で家にいない時間が長いから、あまり余計なことはさせたがらないんだ。何かあれば全部自分の責任だって、思い詰める節もあって」
「それはわかるけど、バレた時に一番まずい立場になるのは僕だからさ。娘をたぶらかして家に連れ込んだなんて言われたら、言い訳のしようもないだろ?」
返す言葉もないと言わんばかりのオヤジにため息を一つ吐いた時、今にも泣き出しそうな美鈴のか細い声が聞こえた。
「ごめんなさい……私が、引き受けたりしなければよかったんです。この店の手伝いも、モデルも。お母さんの言うとおり、ちゃんと就職が決まるまで大人しく家にいればよかった。そうすれば、誰にも迷惑かけずに済んだのに──」
ただでさえ小柄な身体をさらに縮こめて、肩を震わせる美鈴を見遣る。
「就職って、何か当てがあったの?」
「母の病院で事務をやってる人のご実家が、ネジとか機械の部品を作る工場をやっているそうなんです。そこで雇ってもらえるかもしれないって、母が……」
言いながら、美鈴は棚に並んだ絵の具を見つめて目を細める。
「……美鈴ちゃんはその仕事をやりたいと思ってるの?」
そう聞くと、ぽろぽろと涙を零しながら首を振った。
「私……絵を描いている時が一番幸せなんです。絵の具や色鉛筆を見ているだけで、わくわくするの。だから、叔父さんのお店が昔から大好きだった。モデルを頼まれたのだって、本当はとても嬉しかったんです。
だけど、お母さんに反対されるの分かってたから……叔父さんに言われなくても黙っているつもりだった。私がいけないの。だから、もうモデルもお店の手伝いもやめます。わがまま言って、ごめんなさい──」
そう言って泣きじゃくる美鈴に、僕もオヤジも何も言えなかった。オヤジが彼女の肩をさすり、頭を撫でるのを黙って見ているしかできない。そんな僕に、一体何ができるというのだろうか。
しばらく考えていたが、ふとあることを思いついた。これなら、モデルを続けられるかもしれない──
「美鈴ちゃん、お母さん夜勤をやるって言っていたね」
不思議そうに僕を見る彼女が、涙を拭きながら頷く。
「夜勤の日なら、お母さんがここを訪ねてくることは絶対にないってことだろう?」
美鈴とオヤジが顔を見合わせる。
「その日に合わせてモデルをやって貰えば、おそらくお母さんに知られることはない。絵を描くのにモデルが必要な期間はせいぜい一ヶ月くらいだから、その間だけ上手くやれば、なんとかなるんじゃないかな。あとは美鈴ちゃんが、この店で働きたいってちゃんとお母さんに話をすることが出来れば……って……え?」
気付けば、二人がぽかんと口を開けて僕を見ている。それに狼狽して、終わりの方は妙に間の抜けたおかしな口調になってしまった。
「……僕、何か変なこと言った?」
ふっと口角を上げてオヤジが息を吐いた。
「蒔田くんがそこまで言ってくれるなんて、思わなかったよ。あんたにしてみれば、美鈴じゃなくても誰か代わりのモデルを頼めば済む話なのに。そんなにこの子が良かったのかい?」
「ちょっと……変な言い方しないでよ、オヤジさん。僕はただ、彼女を可哀想に思っただけで……」
しどろもどろになった僕を見て、オヤジは愉快そうに笑った。
「悪い悪い。でもさ、俺だって昔は絵描きを目指してたんだ。見てりゃわかるよ。蒔田くん、どうしてもこの子を描きたいんだろ?」
見事に言い当てられて、僕はぐうの音も出なかった。
「まあいいさ。もし姉貴に知られたら、俺がなんとかするから。美鈴はやりたいようにやったらいい。若いうちしか出来ないことは、今のうちにやっとかないと後悔するぞ」
そう言って、美鈴に続けて僕を見る。きっとこれは、僕に対しても言っている言葉なのだろう。
「美鈴、次の姉貴の夜勤はいつだい?」
「ええと……三日後、です」
「蒔田くん、次の予定は三日後の同じ時間でいいかな?」
「──ああ」
「じゃ、二人とも頑張ってな」
呆気に取られる僕と美鈴を置いて、オヤジはさっさと店の片付けに戻って行った。
最後はオヤジに上手くまとめられてしまったが、なんとかこのまま続けられそうで一安心だ。しかし、自ら望んで危ない橋を渡り始めてしまったということは、自分でもよくわかっている。
理由はただ一つ──
彼女を描きたい。それだけだ。
「あの……蒔田さん」
店を出ようとしたところで、美鈴が声をかけてきた。何も言わずに振り向くと、赤く腫れた目で僕を見てから彼女は深々と頭を下げた。
「あ……ありがとうございました。その……私を、見捨てないでくれて」
その言い方に、思わず吹き出してしまった。
「見捨てる、か。そうだな。この世界じゃ、画家がモデルに捨てられるほうが常なんだけど。まあ、これからもよろしく頼むよ」
「でも……本当に、私なんかでいいんですか?」
遠慮がちなその問いに、思わず言葉が詰まった。自分の中に湧き起こった渇望を、口にすることへの羞恥に頬が熱くなる。僕は美鈴を直視できずに背を向けた。
「……ああ。僕は、君を描きたいんだ。それが本心だよ」
目を丸くして立ち尽くす美鈴をそのまま店先に残し、僕は一人で夜の街を歩きだした。




