五 家路
「お疲れ様。今日はここまでにしよう」
初日の今日は、何パターンかのスケッチを描き、その中からデッサンの構図に使う一枚を選んで作業を終えた。
スケッチブックを閉じ、イーゼルを部屋の隅に片付けながら物干し場から外を見た。だいぶ陽が傾き、幾分涼しくなっていてほっと息をつく。
「少し休憩したら、君も何か描いてみるかい?」
アトリエの画材を自由に使っていいという約束で、モデルを引き受けてもらったのだ。多少の手ほどきもするつもりで、紙や絵の具を用意しようと棚に手を伸ばした。
「いえ、今日は疲れてしまったので……もう帰ります」
初めてのモデル、しかもよく知らない男の家で二人きりで過ごし、かなり緊張していたはずだ。じっと座っているだけでも相当疲れたのだろう。顔色も良くない。
「そうか、じゃあまた今度にしよう。浴衣、着たまま帰る?」
「……いえ。また、着替えてもいいですか?」
「もちろん。じゃあ下で待ってるよ。着替え終わったら降りてきて。家まで送る」
この時期は日が長いとはいえ、もうじき太陽が山の端に落ちて薄暗くなるだろう。女の子を一人で歩いて返すわけにはいかない。
しばらくして、軽い足音を立てながら洋服に着替えた美鈴が階段を降りてきた。見慣れた、というべきなのだろうが、ついさっきまで浴衣姿を見続けていたので、逆に違和感を覚える。
「忘れ物はない?」
そう言うと頷いて風呂敷包みを腕に抱き直した。それを、来た時と同じように黙って取り上げると、先に立って玄関に向かう。
その背後から、美鈴の遠慮がちな声がした。
「あの、送っていただかなくても大丈夫です。一人で帰れますから」
振り向くと、六畳間の青白い電球を背にして立った美鈴が、逆光の影の中で困ったような顔をしていた。
「そうはいかないよ。もうすぐ暗くなるし、何かあったらオヤジさんに顔向けできないだろう?」
何も言わずに俯く美鈴を促すように首を傾け、雪駄を履いて玄関を出ると、しぶしぶ後をついてくる。しかし、途中で歩を止めてしまった美鈴が、少し離れた場所から唐突に大きな声を上げた。
「じゃあ、画材屋に送ってください!」
足を止めて振り返ると、懇願するような目で僕を見ながら美鈴がスカートを握りしめて突っ立っていた。
「……もしかして、お母さんにモデルの話、してないの?」
黙って頷く美鈴に、溜息をつきながら嗜めるような視線を投げた。
「何かあった時、困るだろう?」
「だって……そんなの、絶対ダメって言うもの。叔父さんの店を手伝うって言った時も、あまりいい顔しなかったのに。モデルだなんていったら……お母さん、ショックで寝込んでしまうわ」
きっとこの子の母親も、絵のモデルといえば脱がされる、とでも思っているのだろう。心配するのも当然と言えば当然か。
「じゃあ画材屋のオヤジさんにも話を合わせてもらうよう頼まなくちゃ。君のお母さんとオヤジさん、姉弟なんだろ。もしお母さんが急に訪ねて来たりしたら、まずいことになる」
とりあえず、早く画材屋に行ってオヤジに話をしなくては。先を急ごうと歩を早めると、美鈴がそれを言葉で制した。
「あのっ、叔父さんが言ったんです! 母には話さない方がいいって」
勢いを削がれて思わず蹈鞴を踏んでしまった。
「……オヤジさんが?」
「はい。ただでさえ忙しい母に、余計な心配をかけないほうがいいから、画材屋に居ることにしておけって」
「でも、店に来られたらすぐにバレちゃうじゃないか、そんなの」
「滅多に来ることなんて……ないですから。母は毎日、ほとんど家と仕事場の往復しかしてないんです。帰ってきても、疲れ果ててすぐに寝てしまうし」
「お母さん、どんな仕事してるの?」
「看護婦です。線路の向こうにある、内藤醫院の……」
内藤醫院──
この辺じゃ一番の、腕利きの院長がいると評判の病院だ。患者の数は他所とは桁違いだし、入院患者も受け入れている。内科小児科の看板を掲げているが、簡単な外科処置ならその場でしてくれるとも聞いた。そこの看護婦となれば、かなりの激務だろう。
「今日は夜勤明けで、昼前に帰ってきてずっと寝ていたはずですから、きっと今頃ようやく起き出してくる時間だと思います」
「それは……大変だね」
夫を亡くし、一人で娘を育てるために懸命に働いているんだろう。
「だから、心配かけたくないんです。ただでさえ、私の人嫌いで心配かけてるのに、これ以上……」
「──わかった。まあ、いつかは話さなくちゃいけないとは思うけど、今はそういうことにしておこう」
そう言うと、ようやくほっとしたように僅かに笑顔を見せた。
「でも遅くなるとオヤジさんも心配するだろうから、早く帰ろう」
頷いた美鈴が足を踏み出すのを見届けて、僕も再び歩き出す。乾いた砂利道を、背後についてくる足音が途切れないことを確認しながらゆっくり進んだ。
遠くにあった商店街の明かりが徐々に近づいてきて、人通りも少しずつ多くなってきた。買い物帰りの家路を急ぐ家族連れが笑いながら歩く向こう側で、場末の飲み屋の看板に明かりが灯る。
昼の顔から夜の顔に変貌し始めた商店街は、盛り場の匂いを強めながら、まとわりつくような熱気で僕らを飲み込んでいく。
(こんな汚れた空気を、まだこの娘には知って欲しくないのに──)
僕は苛ついた表情で、まばゆいネオンの間を足早に歩き続けた。




