第6話「白紙の地図」
王国の中は、静かだった。風が来なかった。砂も飛ばなかった。門をくぐった途端に、外の音がすっと消えて、別の場所に入ったような感覚があった。石畳の道が、真っ直ぐ奥に続いていた。両側に、低い建物が並んでいた。扉は開いているものも、閉まっているものもあった。中を覗くと、古い道具や布が残っていた。かつて誰かが使っていた気配が、埃の中にまだ残っていた。でも人はいなかった。
二人は黙って道を歩いた。ナディームは建物を一つひとつ、ゆっくり見ていた。シェードは少し先を歩きながら、この場所の空気を感じていた。怖くはなかった。でも、圧倒されるような重さがあった。
—古い場所だ。—
どのくらい古いのか、シェードにもわからなかった。でも、ここにある石の一つひとつが、長い時間を知っているような気がした。
道の突き当たりに、一番大きな建物があった。他の建物より天井が高く、扉も大きかった。扉は半開きになっていた。中から、わずかに光が漏れていた。ナディームとシェードは、顔を見合わせた。ナディームが先に扉を押した。中に入った。
広い部屋だった。天井が高く、壁は砂色の石でできていた。窓が小さく、光はほとんど入ってこなかった。でも部屋の中は、どこからともなく、白い光に満ちていた。光源が見当たらなかった。部屋の真ん中に、台があった。その上に、一枚の紙が置かれていた。大きな紙だった。広げると、人の背丈ほどもあるだろう。
ナディームは台に近づいた。紙を見た。何も描かれていなかった。どこまでも白かった。線一本なかった。文字もなかった。ただ、白い紙だった。ナディームは少しの間、それを見ていた。それから言った。
「……これだけか」
声に、失望が混じっていた。
シェードは部屋の入口に立っていた。動けなかった。入った瞬間から、何かに足を止められているようだった。ナディームの方を見た。そのとき——シェードは目を疑った。今まで旅の間、ナディームの光を何度も見てきた。最初は深い場所に隠れていた。少しずつ近くなってきた。大きくなってきた。でも今は——今まで見たことがないくらい、明るかった。部屋全体を満たしている白い光と、混ざり合うようにして、ナディームの中から光が溢れていた。ぼんやりとしていた霞が、ここに来て完全に晴れていた。
—本当の願いが、見えている。—
シェードは息をのんだ。
「シェード」
ナディームが振り返った。
「何も描かれていない。これが、月と砂の王国の答えなのか」
シェードは部屋に入った。台の前まで歩いた。白紙の前に立った。それから、ナディームを見た。
「お前の願いの光が見える」
ナディームは少し眉を動かした。
「今も、なのか?」
「今のほうが、一番はっきりしている」
ナディームは白紙に目を戻した。
「……何が見える」
シェードは答えた。
「白紙だ」
部屋が静かになった。シェードの言葉が、石の壁に吸い込まれていった。ナディームは白紙を見た。白紙は、ただそこにあった。何も主張しなかった。何も要求しなかった。ただ、白いままで、ナディームの前にあった。
ナディームはゆっくりと台に手を伸ばした。紙の端に触れた。冷たくなかった。温かくもなかった。ただ、紙だった。でもその感触が、何かを動かした。
—描くのは、自分だ。—
言葉ではなかった。思考でもなかった。もっと深い場所から、それはただ、湧いてきた。願いを叶えてもらう場所ではなかった。自分の本当の願いを知る場所だった。白紙は、答えではなかった。白紙が、問いだった。
—お前は何を描きたいのか。—
ナディームは紙から手を離した。台の前に立ったまま、動かなかった。シェードは黙っていた。何も言わなかった。しばらく、部屋の中に静寂が続いた。それから、ナディームの肩が少し動いた。息を吸う音がした。
「シェード」と、低い声で言った。
「なんだ?」
「俺は——」
そこで一度、止まった。止まって、もう一度息を吸って、続けた。
「地図を描きたい。今度は、ちゃんと描きたい」
声が、少し震えていた。シェードは動けなかった。ナディームの光が、今まで見てきた何よりも、強く輝いていた。旅の最初に見たとき、それは分厚い布の奥にあった。小さくて、かすかで、触れたら消えてしまいそうだった。それが今、部屋全体を照らすほど明るかった。
—本当の願いを、見た。—
シェードは初めて、それを見た。表面の言葉ではなく、その奥にあるもの。人間が自分でも気づいていないくらい深い場所に、ずっとあり続けていたもの。それが今、ここで、ナディームの口から出てきた。
ナディームは白紙を見ていた。目が、少し赤くなっていた。泣いているわけではなかった。でも、そうなる手前のような顔をしていた。
「ずっと、諦めたと思っていた」と言った。「父が死んで、店を継いで、夢を見る歳じゃないと思っていた。でも——」
シェードは何も言わなかった。
「本当は、諦めていなかった。ただ、誰かに叶えてもらうものだと思って——自分には無理だと決めて——封じていただけだった」
ナディームは紙から目を離して、シェードを見た。
「お前が来なかったら、気づかなかったかもしれない」
シェードは首を振った。
「僕じゃない。お前が気づいた」
「でも、一人では来られなかった」
「それは——」
シェードは言葉を探した。
「そうかもしれない」
正直にそう言った。
二人はしばらく、白紙の前に立っていた。部屋の光は変わらなかった。静かで、白くて、穏やかだった。ナディームが、ふいに聞いた。
「シェード。お前の願いは、わかったか」
シェードは白紙を見た。さっきまでわからなかった。ずっとわからなかった。—認められたい—という言葉しか浮かばなかった。でも今——
ナディームの光が溢れるのを見た瞬間、シェードの中で何かがわかった気がした。あの瞬間、胸の中に広がった温かさ。うまく名前がつけられなかった、静かな何か。それが——
「わかった、かもしれない」とシェードは言った。
「何だ?」
「誰かの願いが叶う瞬間を、見ること」
言ってから、自分で少し驚いた。
「認められるためだと思っていた。でも——たぶん、そうじゃなかった。僕は、この瞬間のために来たかったんだと思う」
ナディームは少しの間、シェードを見ていた。それから、静かに言った。
「そうか」
それだけだった。でもその「そうか」の中に、たくさんのものが入っていた気がした。
二人は部屋を出た。空が夕暮れに変わっていた。王国の石畳が、橙色に染まっていた。ナディームは歩きながら言った。
「地図帳を買う。町に戻ったら」
「どこから描く」
「まず、ここを描く」
シェードは王国を振り返った。崩れかけた門。砂に埋まった道。何も描かれていない、白紙の地図。
「ここは、地図に描けるのか」
「描けないかもしれない」とナディームは言った。「でも、描こうとすることはできる」
シェードはそれを聞いて、何かを思った。
—描けないかもしれない。でも、描こうとすることはできる。—
それは、願いを叶えることと、どこか似ていた。うまくいかないかもしれない。でも、やろうとすることはできる。
シェードはまた前を向いた。夕日が砂漠を赤く染めていた。ナディームが父と見た、あの夕日に似ていると思った。
—続く—




