第5話「月と砂の王国へ」
翌朝、空が白くなる前に、ナディームは目を覚ました。理由はわからなかった。ただ目が開いた。窓の外はまだ暗かった。星が残っていた。ナディームは起き上がって、窓枠に腕をかけた。町は静かだった。市場も、路地も、誰もいなかった。遠くで犬が一度だけ鳴いて、また静かになった。
ナディームはそのまましばらく外を見ていた。何かを考えていたわけではなかった。ただ、暗い空が明るくなっていく様子を、ぼんやりと見ていた。空の端が少しずつ白んで、青くなって、やがてうっすらとした金色に変わっていった。
—きれいだな。—
そう思ったとき、ナディームは少し驚いた。ここ何年か、そういうことを思ったことがなかった気がした。朝が来れば仕事をして、夜になれば眠った。空がきれいだとか、風が気持ちいいとか、そういうことを感じる隙間が、いつのまにかなくなっていた。ランプがかすかに光った。シェードが出てきた。眠そうな顔だった。魔人も眠るらしかった。
「早いな」とシェードは言った。
「目が覚めた」
シェードは窓から外を見た。
「……空が、きれいだ」
「そうだな」とナディームは言った。
二人はしばらく、並んで空を見ていた。
その日の昼過ぎ、ナディームがふいに言った。
「月と砂の王国へ、行ってみたい」
シェードは少し止まった。
「本当か!」
「本当かどうかはわからない。ただ——行ってみたいと思った」
歩きながら、ナディームは続けた。
「子どもの頃から好きだった話だ。本当にある場所かどうかも知らない。でも、行けるなら行きたい」
シェードは黙って聞いていた。
「お前が言っていたな。願いを持つ者だけが辿り着ける、と」
「ああ、言った」
「なら——今の僕には、まだ無理かもしれない。でも、歩くことはできる」
ナディームは空を見た。
「どっちへ行けばいい?」
シェードは考えた。正直に言えば、方角はわからなかった。地図に存在しない場所だから、どこにあるという話ではない。でも——
「願いを持つ者が辿り着ける、ということは」とシェードは言った。「歩いていれば、向こうから近づいてくるのかもしれない」
「根拠はあるか」
「ないけど」
ナディームは少しの間黙って、それから笑った。
「まあ、いいか」
二人は歩き続けた。
それから二日が過ぎた。道は町から離れて、また砂漠に戻っていた。今度は今まで歩いてきた場所より、砂が深かった。一歩ごとに足が少し沈んだ。風が強く、砂が横から飛んできた。ナディームは布を顔に巻いて歩いた。シェードは風の影響をあまり受けなかったが、それでも前が見えにくかった。
二日目の夕方、水が少なくなった。ナディームは水袋を傾けて、残りを確かめた。あと一日分くらいだった。
「次の集落まで、どのくらいかかる」とナディームが聞いた。
「わからない」
「わからないのか」
「地図のない道だ。僕にも見当がつかない」
ナディームはため息をついた。でも、引き返そうとは言わなかった。シェードはその横顔を見た。疲れているのはわかった。足が重くなっていることも。でも、ナディームの光は——ここに来てから、ずっと前より大きかった。揺れていたけれど、消えてはいなかった。
三日目の朝、ナディームが動けなくなった。動けない、というほどではなかった。でも、岩の陰で座り込んで、立ち上がろうとしなかった。シェードは横に降りた。
「立てるか」
「立てる。でも、少し休む」
「水は?」
「少しある」
ナディームは岩に背中を預けて、空を見た。シェードも同じ方向を見た。空は高く、青かった。雲が一つもなかった。しばらく、二人は黙っていた。ナディームが、静かに言った。
「なあ、シェード」
「ん?なんだ」
「お前は、なぜついてきた」
シェードは少し考えた。
「お前の願いを見つけるためだ」
「ただ、それだけか」
「……それだけじゃないかもしれない」
ナディームは顔を向けた。
「正直だな」
「今は、正直に言える気がした」
ナディームは少しの間、シェードを見ていた。それから、また空に目を戻した。
「僕も」と言った。「最初は、早く終わらせて帰ろうと思っていた。でも今は——」
そこで止まった。
「今は?」とシェードが聞いた。
「まだここにいたい」
シェードは何も言わなかった。でも、何かが胸の中で温かくなった。うまく名前のつけられない、静かな何かだった。
もう少し休んでから、ナディームは立ち上がった。二人はまた歩き始めた。風はまだ強かった。砂が目に入りそうだった。足が重かった。水は少なかった。それでも歩いた。特に理由はなかった。ただ、止まる理由もなかった。
砂丘をひとつ越えたとき、ナディームが立ち止まった。シェードも止まった。前方に、光があった。光というより、光の気配だった。砂丘の向こうから、かすかに、白い何かが滲んでいた。太陽の光とは違う。もっと静かで、落ち着いた光だった。ナディームとシェードは顔を見合わせた。言葉はなかった。
二人は砂丘を登り始めた。足が重かった。砂が滑った。それでも登った。頂上に着いたとき——眼下に、それが見えた。
シェードが思い描いていた「月と砂の王国」は、もっと華やかな場所だった。宝石が輝いていて、高い塔があって、旗がはためいていて——そういう場所を、どこかで想像していた。でも、そこにあったのは、全然違うものだった。
低い石の建物がいくつか。崩れかけた門。砂に半分埋まった道。静かだった。人の気配がなかった。でも、廃墟というわけでもなかった。何か——見えない何かが、そこに満ちているような気がした。ナディームが、低い声で言った。
「……ここか」
「たぶん」とシェードは言った。
二人は砂丘を下りていった。門をくぐるとき、シェードは足を止めた。胸の中で、何かが鳴った。
—ここに来てよかった。—
そう思った理由は、うまく言えなかった。でも、確かにそう思った。ナディームも門の前で少し立ち止まって、それから中に入った。風がやんだ。砂も、飛んでこなかった。中は、不思議なほど静かだった。
—続く—




