第3話「願いを探す旅」
その日の夕方、二人は少し開けた場所に出た。遠くまで見渡せる、小高い丘の手前だった。ナディームは立ち止まって、水を飲んだ。シェードも横に立った。風が少し強くなっていた。ナディームがふと、歩いてきた方向を振り返った。町が、もう見えなかった。
「……思ったより、遠くまで来たな」
シェードは何も言わなかった。ナディームは前を向いた。
「月と砂の王国は、どっちの方角にあるんだ」 朝になると、シェードはランプから出た。ナディームはまだ店の片付けをしていた。昨日と同じように、棚の道具を布で包んで、木箱に入れている。シェードが現れても、特に驚かなかった。もう慣れたのかもしれなかった。
「また来たのか」
「ああ、来た」
「願いは、まだない」
「知っている」
ナディームは手を止めずに言った。シェードも、それ以上言い返さなかった。しばらく、シェードはただそこにいた。宙に浮いて、ナディームが道具を包む様子を見ていた。手際はよかった。丁寧だった。道具をぞんざいに扱わなかった。売り物でも、捨てるものでも、同じように布をかけた。
—この人間は、物を大切にする。—
そのことが、なぜかシェードには引っかかった。
昼前に、シェードは言った。
「旅に出ろ」
ナディームは振り向いた。
「なんだと」
「お前の本当の願いを探す。そのためには、ここにいてもしかたがない」
「僕は店を畳まないといけない」
「畳むのは後でもできる」
「……魔人というのは、人の事情を聞かないのか」
「聞く。でも今は聞かない」
ナディームはシェードを見た。シェードはまっすぐ見返した。ナディームは小さくため息をついた。
「どこへ行くんだ」
「わからない」
「わからないのか?」
「ああ。でも、歩けばわかる」
ナディームはまたため息をついた。今度は少し長かった。それから、棚に向かって布を一枚置いた。
「……少しだけだ」と言った。
シェードは何も言わなかった。でも、内心では少しだけ、ほっとした。
二人は町を出た。砂漠の道は広かった。風が低く吹いていて、砂が足元を流れていった。遠くに岩山が見えた。空は高く、雲一つなかった。ナディームは慣れた足取りで歩いた。シェードは半分浮きながら、横を並んだ。
しばらく、二人は黙って歩いた。先に口を開いたのは、ナディームだった。
「魔人は、砂漠を歩くのか」
「歩ける。飛ぶこともできる。でも歩いた方が、いろいろ見える気がする」
「何を見るんだ」
「人間を」
ナディームは少し顔を向けた。
「人間を見て、何がわかる」
「まだよくわからない」とシェードは答えた。「だから見ている」
ナディームは前を向いた。それきり、また黙った。
しばらく歩いて、砂漠の中に小さなオアシスがあった。椰子の木が三本。水場に沿って、草がまばらに生えていた。旅人が休んでいく場所らしく、石を積んで作った簡単な腰掛けがあった。二人はそこで足を止めた。ナディームは水を飲んで、腰掛けに座った。シェードはその横に降りた。風が少しやんだ。静かになった。ナディームが、何を言うわけでもなく、空を見ながら話し始めた。
「父は、地図が好きだった」
シェードは黙って聞いた。
「古物商だったけど、地図だけは特別扱いで。売り物でも、古いものがあると、しばらく眺めてから手放していた。僕も子どもの頃、父の隣でよく地図を見ていた」
「それで、地図職人になりたかったのか」
「なりたかった、というより——」
ナディームは少し考えた。
「世界を見て、それを地図にしたかった。誰も行ったことがない場所に行って、形にしたかった。でも——」
そこで止まった。
「父が倒れた」とシェードは言った。
「そうだ」
ナディームは短く答えた。それだけで、その間に何があったのかが、伝わってきた。シェードは願いの光を探した。さっきよりも少しだけ、近くに見えた。まだ霞んでいたけれど、確かに在った。
夕方近くに、二人は砂漠の中の集落に着いた。小さな集落だった。家が十軒ほど。市場というほどでもないが、端に露店が二つ三つ並んでいた。旅人が泊まれる宿が一つあった。ナディームは宿を取った。シェードはランプに戻れば場所は関係なかったが、ナディームが部屋に入る前に声をかけた。
「明日も歩くか」
「……まあ」とナディームは言った。「せっかくだから」
シェードはその言葉が、なんとなく好きだった。
—せっかくだから。—
嫌々ではなかった。でも、乗り気でもなかった。ただ、歩いてもいいと思っている。それだけだった。でも、それだけで十分じゃないか、とシェードは思った。
夜、宿の窓から星空が見えた。ナディームは窓枠に肘をついて、外を見ていた。シェードは部屋の隅に浮いていた。
「シェード」
「なんだ」
「お前は、どうして外に出たんだ」
シェードは少し止まった。
「練習だ。人間の願いを叶える練習」
「練習か」
「そうだ」
「でも、練習相手が願いを持っていなかった」
「……持っている。ただ、深い場所にある」
ナディームは窓の外を見たまま言った。
「お前は、願いが見えるのか」
「少しだけ。まだ上手じゃない」
「僕の願いは、見えるのか?」
シェードは正直に答えた。
「見える。でも、まだぼんやりしている」
ナディームは何も言わなかった。しばらくして、ぽつりと言った。
「……そうか」
その声が、不思議と柔らかかった。否定でも肯定でもなく、ただ「そうか」と言った。シェードにはその意味がよくわからなかった。でも、なんとなく——ナディームが少しだけ、警戒を解いた気がした。
翌朝、二人はまた歩いた。道は砂から岩になって、また砂に戻った。太陽が高くなると、影が短くなった。歩きながら、ナディームがふいに言った。
「昔、父と夕日を見たことがある」
「どこで?」
「この砂漠の少し先だ。まだ子どもの頃。父が一度だけ、店を閉めて連れて行ってくれた」
「どんな夕日だった」
ナディームは少し間を置いた。
「赤かった。砂がぜんぶ赤くなった。自分も赤くなった気がした」
それだけ言って、また黙った。シェードは何も言わなかった。でも、そのとき——光が、はっきりと見えた。ナディームの胸の奥で、さっきまでとは違う輝き方をしていた。まだ霞んでいた。でも、確かに大きくなっていた。
—話すとき、光が動く。—
シェードは初めてそのことに気づいた。過去のことを話すとき。好きだったものを話すとき。ナディームの中で、何かが動いていた。
—願いは、消えていない。—
ただ、ずっと黙っていただけだ。
「地図にない場所だ。方角もない」
「じゃあ、どうやって行く」
「願いを持つ者だけが辿り着ける、という話だ」
ナディームは少しの間、黙っていた。それから、また歩き始めた。
「……じゃあ、まだ行けないな」
シェードはその背中を見た。
—まだ、と言った。—
「行けない」ではなく、「まだ行けない」だった。
それはとても小さな違いだったけれど、シェードには大きく聞こえた。
—続く—




