第2話「夢をなくした青年」
砂漠の外れに、小さな町があった。
大きな隊商が通る街道からは少し外れた場所にあって、旅人がわざわざ立ち寄るような場所ではなかった。でも、地元の人間にとっては十分な町だった。市場があって、井戸があって、夕方になると子どもたちが路地を走り回る。そういうどこにでもある、穏やかな町だった。
その町の外れに、古物商があった。看板は色褪せていた。扉の蝶番は少し錆びていた。窓ガラスには細かい砂埃が積もっていて、中がよく見えなかった。店の名前は「ナディームの古物」。でも最近は、ほとんど客が来なかった。
ナディームは二十四歳だった。背は高くも低くもなく、目は少し疲れた色をしていた。朝から店の棚を片付けていた。片付けというより、整理というより——正確には、仕舞い込む、という作業だった。棚に並んでいるのは、誰かが手放した古い道具たちだ。壊れかけた時計。傷だらけの銀の皿。誰かが描きかけて途中でやめた絵。どれも、かつては誰かの大切なものだったはずで、それがいつのまにかここに流れ着いていた。
ナディームはひとつひとつを布で包んで、木箱に入れた。急いでいるわけではなかった。でも、のんびりしているわけでもなかった。ただ、黙々と手を動かしていた。店を畳もうとしていた。
父が病に倒れたのは、ナディームが十八のときだった。父はその一年後に逝った。店だけが残った。ナディームはそれからずっと、この店を続けてきた。続けてきた、というよりは——続けるしかなかった、という方が正確かもしれない。
でも今は、もう潮時だと思っていた。客は来ない。商品は増えない。自分がここにいる理由が、だんだんわからなくなっていた。
昼過ぎに、棚の奥から古びたランプが出てきた。小さなランプだった。真鍮でできていて、長い間しまわれていたのか、表面が黒ずんでいた。取っ手の部分には、細かい模様が刻まれていた。どこで仕入れたのか、もう覚えていなかった。父の代からあったものかもしれなかった。ナディームはしばらくそれを眺めてから、布を取り出してほこりを拭いた。
ただの習慣だった。手放すものでも、一度きれいにしてから箱に入れる。父がそう言っていた。模様に沿って布を動かしていると、ランプが少し温かくなった気がした。
—気のせいだろう。—
そう思いながら、もう一度拭いた。そのとき、ランプの注ぎ口から、細い煙がすっと立ち上がった。
煙は、あっという間に広がった。ナディームは後ろに下がった。棚に背中がぶつかった。何かが落ちる音がした。煙が凝まって、形になった。
少年、とナディームは思った。でも少年というには少し違った。年齢がよくわからない顔をしていた。細い体に砂色のマントを羽織っていて、目だけが妙に大きかった。その何者かは、周りをきょろきょろと見回してから、ナディームを見た。
「ここは——古物商か?」
声は思ったより普通だった。
「そうだ」とナディームは答えた。自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
「お前が、ランプを拭いたのか」
「ああ、拭いた」
何者かはうなずいた。それから、少し胸を張って言った。
「僕はシェード。ランプの魔人だ。お前の願いを叶えに来た」
ナディームはしばらく黙っていた。それから、静かに聞いた。
「魔人が、本当にいるのか」
「いる。今、目の前にいる」
「……そうか」
ナディームは棚から離れて、床に落ちたものを拾った。古い銀の皿だった。割れてはいなかった。それをゆっくりと棚に戻してから、シェードの方を振り向いた。
「願いを叶える、と言ったか」
「言った」
「なら聞くが」
ナディームは少し間を置いた。
「……ない」
シェードは固まった。
—ない?—
魔人として外に出て、初めてランプを拭かれた。初めて人間の前に現れた。「願いを叶えに来た」と言った。なのに——
「ない、とはどういうことだ」
「そのままの意味だ」とナディームは言った。「願いがない」
「そんなはずがない。人間には必ず——」
「ないんだ」
ナディームは繰り返した。否定するわけでも、怒るわけでもなく、ただ静かに言った。シェードはランプの知識を手繰り寄せた。魔人の教えの中に、「願いのない人間」という項目はなかった。人間とは願いを持つ生き物だと、そう習っていた。でも目の前の青年は、本当に何も望んでいないように見えた。シェードは困った。
しばらくの沈黙の後、ナディームは仕事に戻った。棚の道具を布で包む作業だ。シェードのことを無視しているわけではなかった。ただ、手を止める理由がなかった。シェードは宙に浮いたまま、ナディームを見ていた。
—願いの光が、見えない。—
シェードには少し特別な力があった。人間の「願いの光」が、ぼんやりと見える。まだ未熟だから、ぼやけていることが多い。でも、まったく見えないということは——
よく目を凝らした。あった。消えているわけではなかった。ただ、ひどく奥の方にあった。まるで、分厚い布を何枚も重ねて包んだみたいに、深く隠れていた。
—何かがある。—
シェードはそう思った。
夕方になった。ナディームは作業をひと区切りつけて、棚の一番下の引き出しを開けた。そこには、一冊の古い帳面があった。表紙に、子どもの字で何かが書いてあった。
「世界の地図帳」
シェードは黙って見ていた。ナディームは帳面を開かなかった。少しの間、表紙を見ていた。それから、静かに引き出しに戻した。
「何だ、それは」とシェードは聞いた。ナディームは引き出しを閉めながら、そっけなく答えた。
「子どもの頃の落書きだ」
「地図か」
「地図のつもりで描いた。でたらめだけど」
「どんな地図だ」
ナディームは少し間を置いた。
「……まだ誰も行ったことがない場所の地図だ。自分で作った場所だから、当たり前にでたらめだ」
それだけ言って、立ち上がった。「腹が減った」と言って、奥の部屋に入っていった。シェードは引き出しをじっと見た。
—本当にでたらめか?—
子どもの頃に、まだ誰も行ったことがない場所の地図を描いた。それは——夢だったんじゃないか。シェードには、まだうまく言葉にできなかった。でも、さっき見えた光のことが、頭から離れなかった。
夜になって、ナディームは店の前の段差に座っていた。空を見ていた。シェードは横に来て、同じように空を見た。しばらく、二人は何も言わなかった。砂漠の夜の空は広かった。星が多かった。ナディームが、ぽつりと言った。
「月と砂の王国、という話を知っているか」
シェードは少し驚いた。
「……知っている。伝説の場所だ」
「子どもの頃、好きだった話だ」とナディームは言った。「願いを持つ者だけが辿り着ける、地図に存在しない王国。僕はずっと、そこを地図に描きたかった」
それだけ言って、黙った。
「描けばよかったじゃないか」とシェードは言った。
ナディームは苦笑した。笑い方が、少し寂しかった。
「描けない場所は、地図にできない。実際に行かないといけない」
「なら、行けばよかった」
「行けなかった」
ナディームはそれ以上言わなかった。シェードも、それ以上聞けなかった。でも——
シェードは、さっきよりずっとはっきりと光を見た。ナディームの胸の奥で、それは静かに、でも確かに灯っていた。
その夜、シェードはランプの中に戻りながら、ひとつだけ決めた。
—この人間には、願いがある。—
ただ、深い場所に隠れているだけだ。
—僕が、見つける。—
それがうまくいくかどうかは、まだわからなかった。でも今のシェードには、それで十分だった。
—続く—




