第1話「ランプに眠る魔人」
霧が深い夜には、魔人たちは集まる。場所は、砂漠の果てにある「霧の宮殿」。星の光も届かない、静かで冷たい場所だ。宮殿の柱は古く、千年以上の歴史が石の色に滲んでいた。その夜も、宮殿のいちばん奥にある広間に、いくつかの気配が揺れていた。魔人たちはそれぞれ、長い年月を生きてきた。五百年の者もいる。二千年の者もいる。なかには五千年を超え、自分がいつ生まれたかさえ、もう覚えていない者もいた。
シェードは、百と少しだった。魔人の世界では、まだ子どもに等しい年齢だ。それでもシェードは、霧の宮殿の端で背筋を伸ばして立っていた。細い体に、砂色のマントを羽織って。目は大きく、少し落ち着かなさそうに、広間の中央を見ていた。
広間の中央では、魔人の幹部たちが輪になっていた。幹部は十人。いちばん年嵩ということではなく、「最も深く人間の願いを知る者」が選ばれるとされていた。なかでも最も古く、最も寡黙な幹部がいた。名をジャミールという。ジャミールは、見た目では年齢がわからない。若い男のような顔をしているが、目だけが違った。何百年もの時間が、その目の奥に静かに沈んでいた。シェードはジャミールが苦手だった。正確には、苦手というより、うまく目が合わせられなかった。
その夜、ジャミールは若い魔人たちを前に、静かに言った。
「願いを叶えることは、誰にでもできる」
声は低く、響いた。
「人間が口にした言葉を、そのまま現実にすること。それだけなら、なんの難しさもない。問題は——」
ジャミールはそこで一度止まった。
「本当の願いを、見抜けるかどうかだ」
広間が静まった。シェードは内心で反発した。
—そんなこと、やればわかる。—
ジャミールはその後、何も言わなかった。ただ若い魔人たちをひとりずつ、ゆっくりと見回した。シェードのところで、視線が一瞬止まった気がした。気のせいかもしれなかった。でもシェードは、なぜかその夜ずっと、その一瞬が頭の隅に引っかかっていた。
翌朝、試しがあった。幹部たちが若い魔人を一人ずつ呼び、「人間の願いを叶える」実地の練習をさせるのだ。うまくいけば、自分のランプを持って外に出ることが許される。失敗すれば、もう少し宮殿に留まることになる。シェードの番が来た。渡されたのは、一枚の薄い紙だった。人間の「願い」が書かれているという。シェードは紙を開いた。そこには、こう書かれていた。
「金が欲しい」
—簡単だ。—
シェードは迷わなかった。人間が「金が欲しい」と言ったなら、金を与えればいい。それだけのことだ。シェードは力を使った。人間の元へ、金が届いた。山のような量だった。シェードはそれで十分だと思った。
しかし翌朝、その人間は泣いていた。シェードは見ていた。ランプの中から、薄い煙のように外を覗いていた。
人間の男は、家の前で膝をついていた。家の扉が壊されていた。金が届いたその夜から、知らない人間たちが次々と来て、「分けてくれ」「貸してくれ」と押しかけたのだという。男にはもともと友人も少なかった。今は、隣人まで敵になっていた。男は泣きながら、小さな声で言った。
「こんなはずじゃなかった……」
シェードは動けなかった。
—金を与えた。それが願いだった。なぜ間違いなんだ。—
でも男の涙は本物だった。シェードが与えたものは、その男の人生に、金ではなく何か別のものを——もっと重くて、取り返しのつかないものを——運んでしまった気がした。
その夜、シェードは宮殿の廊下で、ひとり壁にもたれていた。足音が聞こえた。ジャミールだった。シェードは思わず背を正した。ジャミールは止まらなかった。ただ通り過ぎながら、横目でシェードを見て、低い声で言った。
「悔しいか」
シェードは答えなかった。でも、ジャミールは続けた。
「それでいい」
それだけ言って、また歩いていった。シェードはその背中を見送った。
—それだけ?—
腹が立った。何かを言われたかった。正解を教えてほしかった。「こうすればよかった」と、はっきり言ってほしかった。でもジャミールは何も言わなかった。シェードはまた壁にもたれて、天井を見上げた。
—本当の願いを、見抜く。—
ジャミールの言葉が、今になって耳に戻ってきた。あのとき「そんなこと、やればわかる」と思った。でも今は、わからなかった。「金が欲しい」という言葉の裏に、何があったのか。本当は何を望んでいたのか。シェードには、まだ見えなかった。
しばらくして、広間からジャミールの声が聞こえてきた。別の幹部と、何かを話しているようだった。シェードは聞くつもりはなかった。でも、廊下に言葉が流れてきた。
「……お前にも、あっただろう。見誤ったことが」
別の幹部の声だった。ジャミールが、低く答えた。
「ある」
それだけだった。シェードは動けなかった。
—ジャミールも、失敗したことがある?—
そんなことを考えたことがなかった。ジャミールはいつも正しかった。どんな願いも見抜いて、迷わず動くように見えた。でも——
シェードはそっと廊下を離れた。胸の中に、小さな何かがあった。悔しさとは違う、もっと静かな何かだ。
—本当の願いって、なんだろう。—
その問いは、シェードの中に、そのまま残った。答えはまだ、どこにもなかった。
三日後、シェードはランプを持って、こっそり宮殿を出た。誰にも言わなかった。ジャミールに「まだ早い」と言われることはわかっていた。でも、宮殿の中で考えていても、何もわからない気がした。
砂漠の風が、マントをはためかせた。空は広かった。シェードは歩き始めた。まだ何も知らなかった。でも、一つだけ決めていたことがあった。
—次は、ちゃんと見よう。言葉の奥を。—
それだけだった。それだけで、十分だと思った。
—続く—




