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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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7/30

汚濁

扉を開けると、室内には沈香に似た重い香りが立ち込めていた。窓は全て閉じられ、厚手のカーテンが外光を遮断している。部屋の隅に置かれた燭台だけが、床に敷かれたペルシャ絨毯の模様をぼんやりと浮かび上がらせていた。


中央のソファには、公爵の息子が深く腰を下ろしていた。膝の上には一冊の古びた魔導書が開かれているが、その視線は文字を追っていない。扉が開いた瞬間から、彼は入口に立つ人間だけを見据えていた。


「そこ、姿勢が崩れている」


声は低く、そして澄んでいた。彼は魔導書を閉じ、サイドテーブルに置いた。その動作には一点の無駄もなく、貴族としての教育が骨の髄まで染み付いていることを示していた。


「申し訳ありません」


私は足を揃え、背筋を伸ばした。メイド服の裾がわずかに揺れ、静止する。


「違う。肩の線が勇者のままだ。それでは隠している意味がない。もっと、自分という存在を捨てろと言ったはずだ」


彼は立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。彼の背丈は、勇者時代の私と比較すれば、まだ肩のあたりまでしかない。しかし、その足取りに迷いはなく、確信に満ちた支配者の歩調だった。


彼は私の正面で立ち止まった。至近距離で見下ろす彼の顔立ちは、母親譲りの端正な美しさを備えている。だが、その瞳に宿っているのは、かつて戦場で守った子供の純粋さではなかった。


「髪が乱れている。これでは外に出せない」


彼は手を伸ばした。その指先が私のこめかみに触れる。かつて、荒れ果てた村で救出した際、私が彼の頭を撫でた時と同じ軌道で。しかし、その手つきに慈しみはなかった。彼は髪の一房を強く掴み、無理やり後ろへ引き寄せた。


頭皮が突っ張り、顔が上を向く。視界が揺れ、シャンデリアの結晶が網膜を刺した。


「痛いか。だが、君が痛いということは、それだけ『勇者』が残っている証拠だ。辛そうにしている君を見るのは、私だって本意ではない。だから、私が完全に書き換えてあげないといけない」


彼の指が、喉元の首輪に滑り落ちた。指先はわずかに震えている。金属の冷たさを確かめるように、彼は輪の縁をなぞった。彼の呼吸は少しずつ速くなり、吐息が私の顎に当たった。


彼は首輪を掴み、そのまま自分の顔の方へと引き寄せた。私の身体が前傾し、彼の鼻先と触れ合うほどの距離になる。彼は私の目を見つめ、何事かを確認するように口元を歪めた。


その瞬間、彼の指に力がこもった。首輪が喉を圧迫し、気道が狭まる。


肺から空気が押し出される。心拍が耳の奥で激しいリズムを刻み始めた。視界の端が白く濁り、首の筋肉が強張る。


「……君は、僕がいないと死んでしまうから。ここで、こうして僕の管理下にいなければ、すぐにでも処分される存在なんだ。分かっているだろう」


彼は私の喉元を睨みつけ、さらに指を食い込ませた。彼の顔は赤らみ、瞳には潤んだような光が宿っている。しかし、そこから先に踏み出す気配はなかった。彼は私の服に手をかけることも、唇を寄せることもせず、ただひたすらに、私の命の通り道を物理的に制御することだけに固執していた。


彼は、一線を越える度胸を持っていない。


性的行為という不確実な交わりよりも、首輪という確実な道具を用いた支配の方が、彼にとっては安全で、尊厳を保てる手段なのだろう。その臆病さが、歪んだプライドと混ざり合い、逃げ場のない暴力となって私の喉を締め上げている。


私は彼の肩の向こう側、暗いカーテンの隙間を見つめていた。


右手の指先が微かに動く。この距離ならば、彼の首を折るのに一秒もかからない。彼の端正な顔を床に叩きつけ、その喉を逆から引き裂くことは容易だった。爆発的な筋力が、制服の内側で今か今かと解放を待っている。


しかし、足元には昨夜磨き上げた銀器があり、廊下の向こうには私を庇ったメイドたちが働いている。


私は、指の力を抜いた。


「……はい、ご主人様」


掠れた声で答える。


彼は満足げに鼻を鳴らし、ようやく指を離した。酸素が肺に流れ込み、激しい呼吸が戻る。私はその場に跪き、床を見つめた。


「よろしい。明日の朝までに、霊廟の管理台帳の写しを作っておけ。君は書類仕事が得意だったな」


彼は再びソファに戻り、書を開いた。その背中は、かつて私を見上げた小さな子供の影を微かに残している。だが、今の私にとって、それは守るべき対象ではなく、いつか確実に「処理」すべき標的一覧の上位に刻まれた名前に過ぎなかった。


首輪に残った熱が、呪いのようにいつまでも消えなかった。

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