リアル・スチール
石段は、途中から急に冷たくなる。
礼拝堂の裏手にある扉を抜け、細い螺旋を降りていくと、湿り気の質が変わった。上の空気はまだ人が祈る場所の匂いをしていたが、下へ行くほど石と水と蝋の匂いだけが残る。足音は小さくしているつもりでも、壁が勝手に拾って返してくる。
案内役の老司祭は、灯りを高く持ったまま何も言わなかった。
長い地下墓地だった。
最初に並ぶのは普通の墓だ。白い石、短い銘、家名、没年。花は新しいものも古いものも混ざっている。どの墓にも祈りの気配がある。誰かがここへ来て、膝を折り、名前を読んで帰っていった跡だ。
その奥で、並び方が変わる。
石の幅が揃う。彫りも浅くなる。花が減る。銘は残っていても、名前ではなく番号に近い記し方へ寄っていく。古い言葉の写しのような刻印が増え、同じ寸法の石が、壁に沿って黙々と並ぶ。
私はそこで足を止めた。
「こちらです」
老司祭が言った。
声は低い。気遣っているのではない。ただ、ここで大きな声を出す気がないだけだ。
勇者の墓地は、そのさらに奥にあった。
百はある。
正確に数えたわけではない。だが一目で、それくらいは分かる。多すぎる。地下の湿気の中で、同じ幅の石板が、途中で曲がりながら続いている。どれも簡素で、家名がない。刻まれているのは小さな記号と、日付に似た数字だけだった。名前を削ったのか、最初から彫らなかったのか、そこまでは見ただけでは分からない。
壁際に、箱がいくつか置かれていた。
蓋は閉じてある。だが古い札が下がっている。剣の破片。指輪。割れた鏡。焦げた布。用途を書いたのではない。中身を識別するためだけの、乾いた字だった。
私は石板の列を見渡した。
名前がないと、かえって顔が浮かぶ。
よく喋るやつがいた。書類を回している時も、戦場へ出る時も、口だけは止まらなかった。静かにしろと言われるたびに、はいはいと軽く流して、それでも次の瞬間にはもう喋っていた。戦うのは上手くなかった。剣も遅かった。だが字だけは綺麗だった。ああいう人間は、たいてい生き残ると思っていた。
生き残らなかった。
別のやつは、仕事中に眠っていた。目を開けたまま意識だけ落とす癖があって、こちらが気づく前に起きる。ずるいようでいて、戦いになると妙に前へ出た。怖がっているくせに前にいた。ああいうのも、あとで案外しぶとい。
しぶとくなかった。
百もあると、一人一人をちゃんと悼む気持ちが逆に削れる。数として先に胸へ入ってくる。英雄ではなく、積まれた死体の数だ。勇者と呼ばれたものが、最後にはこれだけの石に収まる。王国が隠したかったのは功績ではなく、この数そのものだったのだろうと思った。
老司祭が灯りを少し下げた。
石壁の奥に、もう一つ通路がある。
「こちらは、今は使っておりません」
使っていない、という言い方だった。
覗き込むと、奥は部屋になっていた。礼拝のための空間ではない。長い台がひとつ。水を流すための溝。錆びた器具。棚にはガラスの瓶が並び、そのいくつかは空で、いくつかには札だけが残っている。床の隅に、蓋のない木箱。中には骨の断片のようなものが見えた。
研究の部屋だった。
死体を洗い、開き、比べ、記録していた場所だ。知りたかったのは筋肉の付き方か、骨の強度か、それとも勇者が持ち込む言葉そのものか。どれでもいいし、どれも違うのかもしれない。だが、助けられたから祈るだけの場所ではないことだけは、器具の並びで分かる。
壁に古い紙が留めてあった。
文字は崩れている。今の書式ではない。祈りでもない。単語を横へ並べ、別の言葉を下に重ね、読みと音を比べたような書き方だった。さらにその横には、別の紙。今度は骨格の図と、部位ごとの簡単な寸法。知ろうとした痕跡が、そのまま途中で積み重なっている。
私は息を吐いた。
「昔からですか」
そう聞くと、老司祭は少しだけ間を置いた。
「昔から、言葉を追っていた者たちはおりました」
「勇者が現れる前から」
「ええ」
「それで、現れてからは死体も開いた」
老人は否定しなかった。
「埋めるだけでは分からぬこともあります」
灯りの揺れ方だけが、少しだけ変わる。言い訳の声ではない。開き直りでもない。必要だった、と言う時の声音だった。だから腹が立つ余地も薄い。助けられた側であることと、調べる側であることが、ここの人間の中では矛盾していないのだと分かるからだ。
私は部屋の中へは入らなかった。
入ると、どこかの台に知っている誰かが乗っていた気がしてくる。
石の列へ視線を戻す。
百もあれば、きっとあいつらもいる。よく喋るやつも、居眠りしていたやつも、名前を呼ぶ前に死んだやつも。墓標に名がなくても、こちらの頭の中にだけは残る。だから逆に質が悪い。忘れた頃に、顔だけ先に戻ってくる。
「面倒は見ます」
不意に、老司祭が言った。
私は視線を向けた。
老人は石の列ではなく、その手前の闇を見ていた。
「先代の御令嬢のことです」
言い方が、やけに平たかった。貴族の娘を指す時の飾りがない。名を出さないのも、たぶん配慮ではない。ここでその名を音にする必要がないだけだ。
喉の奥が少しだけ固くなる。
「頼んでいません」
「頼まれなくても、こちらで見るつもりでした」
「なぜ」
老司祭はすぐには答えなかった。
灯りが骨ばった指の上で揺れている。
「昔から、助けられてきましたので」
それで十分という顔だった。
私は何も言わなかった。
助けたのは私だけではない。勇者の誰かが、何度もこの教会を守ったのだろう。焼ける前に水を運んだかもしれないし、飢えた時に倉を守ったのかもしれない。ここに百もの石が並ぶなら、そのどれか一つや二つは、この一族の命と繋がっている。
「今も、会っておられるのでしょう」
老司祭の方は、こちらを見ないまま言う。
「友人として」
その二語だけが、やけに重かった。
私は石板の一つへ視線を落とした。番号だけの墓だ。誰のものか分からない。分からない方が都合がよかった。顔を上げると、余計なものまで戻ってくる。
「気づくと思いますか」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない声だった。
老司祭は小さく首を振った。
「分かりません」
「そうですか」
「ですが、分からぬままでも、人は同じ相手に安心することがあります」
私は笑わなかった。
安心。そんな言葉で片づくような距離ではない。今の私は名も顔も位置も違う。あの頃のまま会えるはずがない。会わせる顔もない。だから名乗らない。名乗らずに、友人の一人として近くへいる。必要な時だけ手を貸し、余計な時は離れる。気づかれないだろうと思っている。思うしかない。
それでも完全には切らない。
そこが一番みっともないと、自分でよく分かっていた。
老司祭が石の列の端へ灯りを向けた。
一枚だけ、花のない墓がある。いや、花が絶えた墓と言った方が近い。供えた跡だけが残り、乾いた茎が石に張りついていた。誰かが通っていたのだ。途中で来られなくなっただけで。
「ここへ来られる方も、減りました」
「当然です」
「それでも時々、若い人が迷い込みます」
「迷い込む場所じゃない」
「そう願っております」
私はその墓を見たまま、別の顔を思い出していた。
先代ギスカール公の娘。
まだ子どもだった頃、こちらの袖を勝手に引いてきた。石段を下りる時だけ妙に足が遅かった。花を折るのが下手で、よく茎ごと潰していた。笑う時、先に肩が揺れる。泣く時は最後まで声を堪えるくせに、顔だけはすぐ崩れる。
今も生きているのだろう。
そうでなければ困る。そうでなければ、ここへ来た意味の半分が消える。
「何も伝えなくていい」
私は言った。
「こちらのことも、私のことも」
「承知しております」
老人はやはり見なかった。
「ただ、何かあれば」
「そちらで見る」
「ええ」
「……そうですか」
石の列の奥は暗い。百ほどの墓が続き、さらにその向こうで、解剖台の錆が待っている。祈りと研究と隠蔽が、同じ地下で重なっている。勇者が隠された後、この場所が管理のために整えられたのだとしても、始まりはもっと別のものだったのだろう。言葉を知りたかった一族がいて、死を弔う場所があり、その上へ都合が乗った。そういう重なり方に見えた。
私は石板の一つへ手を伸ばしかけて、やめた。
触る理由がない。
触ったところで誰かが返るわけでもない。名のない墓は、触れるより見ている方がきつい。見ていると、勝手に顔が湧くからだ。
「戻ります」
老司祭が頷く。
来た道を引き返す。最初は冷たかった石段が、上るにつれて少しずつ人の温度へ戻っていく。礼拝堂の近くまで来ると、遠くで誰かが祈る声が聞こえた。上ではまだ、名前のある死者たちが静かに扱われている。
私は最後に一度だけ振り返った。
地下の闇はもう見えない。入口の向こうで、百ほどの墓と、錆びた器具と、途中で終わった研究の紙が、そのまま湿気の中に沈んでいるはずだ。勇者は英雄譚の中にいるより、あそこに並んでいる方がずっと本当らしかった。
先代の娘のことを思う。
会わせる顔がないというのは、便利な言い訳でもある。本当に会いたくないのか、本当は気づかれたいのか、そのどちらにも最後まで踏み込まないで済むからだ。友人として近くにいる。名乗らない。気づかれないだろうと諦める。その形のまま生き延びている。死んだ勇者たちに比べれば、ずいぶん見苦しい生き方だ。
それでも、まだ地下の石になる気はなかった。
礼拝堂の扉を押し開けると、朝の光が正面から差した。眩しさに少しだけ目を細める。上の世界は静かで、湿っていなくて、名前のある人間が歩いている。
私は何も言わず、その中へ戻った。




