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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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6/29

墓標

扉の外で鍵が鳴る音は、朝と昼と夜で少しずつ違う。


朝は乾いている。昼は急いでいる。夜は、妙に静かだ。


その違いが分かるようになった頃には、もう誰もここを部屋とは呼ばなくなっていた。机が四つ、壁に沿って並べられている。椅子が四つ。棚が一つ。窓はあるが、押しても引いても動かない。外の光は入るのに、風は来ない。扉はいつも向こうからしか開かない。


同じ顔ぶれで座るのは三か月までだった。


理由は説明されない。けれど、説明がなくても分かる。四人いると、二人で視線が合う。三人だと沈黙が固まる。四人になると、紙の音の間に人の気配が混じる。そのくらいの人数でしか、人間は誰かと同じ場所にいると感じない。だから四人で止める。だから三か月で切る。


名前を覚えないようにしていた。


正確には、覚えても使わないようにしていた。名前を使うと、その先ができる。今日の遅れを誤魔化してやるとか、明日の分をこちらで持つとか、そういう貸し借りが生まれる。貸し借りが生まれると、外へ出た時に背中を見てしまう。背中を見るようになると、その人間が死んだ時にきつい。だから呼ばない。向かいの男は向かいの男で、左の女は左の女のままだった。


机の上には契約書と台帳が積まれている。


運搬、供給、労働割当、夜間手当、臨時雇用、破損補填。扱っている数字は大きいのに、紙の上は妙に整っていた。誰がどこへ入ったか、どの倉庫に何を積んだか、どの工房が何刻まで灯りを点けていたか。全部、書いてある。書いてあるのに、書いていないものがある。


数字は合っている。


だが町が痩せている。


麦の総量は去年より多い。塩も布も鉄も動いている。数字だけ見れば、復興は進んでいる。ところが夕方の市場へ行くと、買う側の目が死んでいる。小袋の粉を分け合っていた家が、今は一袋ごと抱えて帰る。余りを隣へ渡していた路地が静かだ。台帳の上では流れているのに、日常の方では流れていない。そこに気づいても、紙の数字は直らない。


向かいの男が、紙を一枚指で弾いた。


「南倉庫、二重計上だ」


私は自分の台帳から目を上げずに言った。

「違う。移送先の名義が途中で変わってる」


「どこで」


「裏の印」


男が黙る。紙をめくる音だけが続く。左の女がインク壺の蓋を閉めた。右隣の若いのは、相変わらず字が遅い。ここでの会話はいつもそうだった。必要な分だけ。正しさではなく、帳尻を合わせるためだけの言葉。


昼を過ぎても扉は開かない。食事は差し込まれる。皿は木で、スプーンは丸い。刺せない形をしている。最初に見た時は笑った。今は何も思わない。窓の外では兵が歩く。一定の間隔で、必ず二人組だ。どこかへ走れば追いつけるだろうと思っていた時期もあった。逃げた先に何があるのか考えたら、その気は消えた。


夕方が沈み切る前に、扉の外でまた鍵が鳴った。


その日は夜の音だった。


四人とも顔を上げた。紙の上で固まっていた指が止まる。誰も先に立たない。開くと分かっているのに、身体が一拍遅れる。


「出ろ」


短い命令だった。


机から離れる。並ぶ。手首を見る。今日は輪を掛けられないらしい。それだけで少しだけ息が通る。廊下へ出ると、空気が違った。冷えている。窓の隙間を通った夜気が、そのまま喉へ入る。部屋の中で固まっていた肺が、勝手に広がる。


武器庫へ通される。


槍が一本、剣が一本、短銃、火薬、弾。選ばせる気はない。順番に押しつけられる。私には古い短銃と長めの剣が来た。柄の感触が手の中へ収まるだけで、肩の奥の重さが少し消える。机に座っている間は、身体が自分のものではなくなる。指は紙のためにしか動かない。ところが金属を握ると、それだけで昔の位置へ戻る。重さが分かる。届く距離が分かる。踏み込む長さが分かる。頭より先に、関節が思い出す。


外へ出る。


塀の外は暗い。夜の草が濡れている。前に魔族の群れがいると聞かされる。それだけだ。数も、地形も、役目も、ほとんど言われない。どうせ、前へ出せば動くだろうという扱いだった。


それでよかった。


紙から離れた身体は、指示が少ない方が早い。


森の手前で最初の影が走った。人の形に近いが、足の運びが違う。低い。迷わない。私は考える前に踏み込んでいた。銃声が一つ、横で鳴る。誰かが先に撃ったのか、後ろが撃ったのか、一瞬では分からない。構わず剣を振るう。刃が肩口へ入る。骨に当たる感触の手前で手首を返し、横へ裂く。温い飛沫が頬へ来る。目の前の個体が崩れる。足が止まらない。次を見る。次が来る。低く構えて飛び込んできた個体の喉へ短銃を押しつけ、そのまま引き金を絞る。火薬の匂いが肺へ入る。


ああ、これだと思った。


身体が、やっと自分へ戻ってくる。


紙の上で潰されていた何かが、血の匂いと一緒に抜けていく。腕が軽い。視界が広い。誰かと話を合わせる必要もない。正しい字を書く必要もない。来るものへ届く長さで刃を出せばいい。相手の重さを受け、ずらし、倒れた方へ次を叩き込む。考えなくても身体が繋がる。部屋の中で腐っていた時間が、一気に破れて外へ流れ出すみたいだった。


右で若いのが笑った。


笑い声というより、息が抜けた音だ。左の女は無言で三匹目を斬っていた。向かいの男は槍を拾って、それをうまく回している。さっきまで同じ机に座っていた四人が、夜の泥の上でだけ妙に息を合わせる。その感覚が一番危なかった。三か月で切る理由が、こういう時に分かる。長く組ませたら、たぶん私たちは勝手に隊になる。


前へ出た。


その瞬間、耳の後ろで弾が裂けた。


木の皮が飛ぶ。私の横ではない。半歩後ろ、逃げる角度へ身体を切った若いのの脇を抜けて、後ろの幹へ刺さった。


振り返らなくても分かる。背後の兵だ。


逃げるな、という合図だった。


喉の奥に冷たいものが落ちる。だが前の魔族は待たない。低い唸り声と一緒に二匹来る。片方の腕を切り落とし、もう片方の膝を砕く。血が泥へ落ちる。足元が滑る。滑った拍子に、後ろの視線を思い出す。前だけ見ていれば救いだった場所へ、急に檻が戻ってくる。


若いのが二歩退いた。


銃声。


今度ははっきり見えた。肩口が弾け、若いのが倒れる。魔族にやられたのではない。背後から撃たれた。痛みで転がったそいつへ、前の魔族が飛びつく。助けに入るより先に、後ろから別の声が飛んだ。


「そのまま進め!」


命令だった。


向かいの男が一瞬だけそっちを見た。次の瞬間には槍を前へ出していた。止まれば撃たれる。戻っても撃たれる。その判断が、顔に出るより先に身体へ降りる。


若いのはまだ生きていた。泥の上で腕を伸ばしていた。魔族が足へ噛みつく。叫びは長く続かなかった。二発目が入った。頭だ。後ろの兵が撃った。


敵に捕まれば即射殺。


最初からそういう処理なのだと、その時ようやく骨で分かった。


戦いは続く。続けるしかない。生きたまま敵へ取られるより、味方の弾で消す方が都合がいい。その都合の中で、私たちは前へ押されている。解放ではない。使い捨ての発散だ。だが剣を振るっている間だけは、その事実が少し遅れる。だから余計にたちが悪い。


最後の一匹を斬った時、息が白く出た。


森の縁が静かになる。泥の上に血が広がって、夜気の中で鈍く光る。私は剣を下げた。肩が上下している。生きている。まだ動ける。頭のどこかで、助かったと思った。


その直後、後ろから来た兵に腕を取られた。


「武器を置け」


剣を抜き取られる。短銃も取られる。何の説明もない。手首に輪が掛かる。冷たい鉄が鳴る。向かいの男も、左の女も、もう無言だった。さっきまでの呼吸の合い方が、そこで綺麗に切れる。切られるというより、自分から切っている。そうしないと、隣にいた人間の死が近すぎる。


若いのの死体は、もう半分魔族の下にあった。


回収するのかと思った。あれだけ前へ出せるなら、誰かが縄でも引っかけて取るのだと思った。だが兵は誰も近づかない。後ろで別の合図が上がる。高い音。暗い丘の向こうで、一拍遅れて火が見えた。


砲声が夜を割る。


若いのの死体ごと、その周囲の魔族が吹き飛んだ。肉も泥も木の根も一緒くたに跳ねる。爆ぜた破片が雨みたいに降る。頭のどこかが遅れて理解する。


死体が奪われれば、死体ごと壊す。


救出も回収もない。残すという選択すらない。ただ、利用される前に消すだけだ。


左の女がその光景を見ていた。顔は動かない。だが喉だけが一度、大きく上下した。向かいの男は目を逸らさなかった。逸らさなかったからこそ、余計に空っぽに見えた。


「戻れ」


命令が飛ぶ。


それで終わりだった。


勝ったとか、生き残ったとか、そういう言葉はどこにもない。武器を持たされ、振るい、終わったら拘束される。その間に一人死に、敵へ触れた瞬間に砲で消える。戦闘というより、点検だった。発散のついでに、壊れた個体を処分するみたいな手際だ。


部屋へ戻される。


扉が閉まる。鍵が鳴る。椅子が四つある。だが座るのは三人だ。机の上には、さっきまで開いていた台帳がそのまま残っている。若いのの紙もある。字の癖も残っている。誰も片づけていない。片づける必要がないのだ。三か月経てば、また別の人間が座る。その時にはその癖ごと、新しい紙の下へ埋まる。


私は椅子を引いた。


座る。


指先にまだ剣の重さが残っている。鼻の奥には火薬がいる。肩は軽い。身体は久しぶりに動いた分だけ、妙に澄んでいる。その澄み方が最悪だった。戦っている間、確かに息ができた。紙と窓と鍵の部屋から出て、夜の中で刃を振るった時だけ、自分の輪郭が戻ってきた。それが救いだった。救いだったからこそ、その直後の砲声が深く刺さる。


向かいの男が、若いのの席に積まれていた紙を自分の方へ寄せた。


何も言わない。


左の女がインク壺の蓋を開けた。


何も言わない。


私も何も言わず、自分の台帳を開く。


数字は合っている。人が一人消えても、数字は合うように直される。ここではそれが一番大事だ。


窓の向こうで兵が歩いている。一定の間隔で、必ず二人組だ。さっきまで夜の外にいた身体が、もう部屋の寸法へ押し戻されていく。剣を振っていた感覚が、指先から少しずつ剥がれる。その代わり、砲で砕けた肉の散り方だけが残る。


解放なんて最初からなかったのだと、その時ようやく分かった。


外へ出すのは、恩赦ではない。部屋の中で溜まったものを、別の形で使い切るためだ。走らせ、斬らせ、息をさせて、その直後に首輪の位置を思い出させる。希望ではなく、落差のために開ける扉だ。


私は紙の端を押さえた。


少し力を入れすぎて、指先の骨が白くなる。だが紙は破らない。ここで破ったところで何も変わらない。変わらないことだけは、今日の夜で嫌になるほど分かった。


扉の外で、また鍵が鳴った。


今度は朝でも昼でも夜でもない、ただの鍵の音だった。


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