同情
朝の仕事は壊せないものから始まる。
銀器は薄い布で磨く。皿は音を立てずに重ねる。花瓶は水を替える時に口の角度まで気を使う。窓は拭く。取っ手は揃える。卓布は皺を逃がす。屋敷の中には、少し力を入れれば終わるものが多すぎた。折れる脚、欠ける縁、裂ける布、砕ける陶器。どれも人間の腕なら壊して終わる程度の硬さでしかないのに、私が触ると話が変わる。
今朝も、カップを一つ持ち上げた瞬間に指が止まった。
腹が立っていた。理由は一つではない。夜が短かったこと。眠りが浅かったこと。朝一番で呼びつけられたこと。昨日の嫌がらせがまだ喉の奥に残っていること。どれも大した理由ではない。だが大した理由でない苛立ちほど、逃がしどころがない。
取っ手に指を掛けたまま、力がこもる。
白磁に薄く音が入った。
慌てて手を離す。
ひびは入っていない。まだ無事だ。だが、今のは本当にぎりぎりだった。ほんの少し深く握っていたら、カップだけでは済まなかった。手の中で砕ける。破片が飛ぶ。近くの受け皿も割れる。棚板が鳴る。最悪、棚ごと倒れる。以前それを一度やった。盆を叩きつけるつもりで投げたら、盆ではなく床板が割れ、壁の装飾が落ち、隣室の花瓶まで死んだ。八つ当たりの被害としてはどう考えても規模が狂っていた。
それ以来、壊せない。
壊したい時ほど、壊せない。
人間なら物に当たって終わる怒りが、私だと部屋ひとつ潰しかねない。椅子を蹴るだけで脚ではなく床がいく。扉を殴れば蝶番ではなく枠から外れる。皿を投げれば壁に穴が開く。加減すればいいと口で言うのは簡単だが、怒りは加減するためにある感情ではない。衝動の逃がし先が最初から塞がれている。だから怒りは外へ出ず、内側で腐る。
「大丈夫?」
声がして、振り向いた。
同じ持ち場のメイドが、リネンの束を腕に抱えたままこちらを見ていた。年は近い。背は私より低い。仕事が速いわりに足音が軽い。屋敷へ来てから何度も助けられている相手だった。
「顔が怖い」
「元からだ」
「今のはそういう怖さじゃないの」
彼女はリネンを卓へ置き、棚の上のカップを自然な手つきで一つずつ別の場所へ移した。私から遠ざけるためだと分かる。分かるのに、嫌な手つきではなかった。子供をあやすみたいでも、怯えているみたいでもない。ただ、危ないなら先に片づけようというだけの動きだった。
「私がやる」
「うん。でも今は私の方が速いから、そっち拭いてて」
さらりと言われて、何も返せなくなる。
こういうところが一番きつい。
罵られるならまだ楽だった。壊しそうだから触るなと露骨に嫌がられれば、こちらもそれ相応の顔ができる。だが実際は違う。メイドたちは私を嫌っていない。むしろ手を貸してくれる。手順を教える。失敗を隠してくれる。あの子供の機嫌が悪い日は、なるべく私の近くへ寄らせないよう動いてくれることすらある。
ありがたい。ありがたいのに、その分だけ心苦しい。
私は助けられる側ではないはずだった。少なくとも、こういう形で世話される人間ではなかった。誰かの後ろで布巾を持って突っ立ち、壊しそうだから今日はこっちをやっててと言われるような立場では、本来なかった。なのに今は、それを受けるしかない。
「昨日、また酷かったんでしょ」
彼女が棚の中を整えながら言った。
「いつものことだ」
「いつもで済ませるの、よくないよ」
「よくなくても止まらない」
それで会話が切れた。
あの子供のことを、屋敷の使用人は誰も正面から悪く言わない。言えないのもあるし、言うだけ損だと知っているのもある。だが知らないわけでもない。機嫌一つで嫌がらせの向きが変わること、気に入った玩具ほど長く壊さず弄ぶこと、反応した方が面白がられること。その辺りの空気は、働いていれば嫌でも読む。
そして今、その大半は私へ向いている。
以前なら他のメイドにも散っていたはずの悪意が、今はかなりこちらで止まる。呼びつけも、無茶振りも、見せしめみたいな命令も、まず私に来る。首輪をつけられた時点で、そう使うための位置へ置かれたのだろう。最初は屈辱しかなかったが、時間が経つと別の形で効いてきた。
他のメイドたちにとって、私は迷惑な余所者ではない。
面倒の受け皿だ。
嫌がらせを引き受け、あの子供の視線をこちらへ寄せ、機嫌の波を自分の方へ受ける。そうしている限り、彼女たちは少し働きやすい。少しだけ息ができる。だったら嫌う理由がない。助ける理由の方が多い。
それが分かるから、なおさらきつい。
私は布巾を取り、磨きかけの銀器へ手を伸ばした。今度はゆっくり力を入れる。磨く。止める。息を吐く。もう一度。手の使い方を意識しないと、余計なところまで壊す。こんな細かいことにまで神経を裂く生活が、いつまで続くのか分からない。
「それ、私が持つよ」
また別の声がした。
振り向くと、年上のメイドが重たい水差しを受け取ろうと手を伸ばしていた。無意識に力を入れてしまう私より、普通の腕で運んだ方が安全だからだ。理由は正しい。正しすぎて、腹が立つ余地もない。
「重くない」
「知ってる。重さの問題じゃないでしょう」
そう言って、水差しをさらりと持っていく。
私は立ち尽くした。
この屋敷では、自分より弱いはずの人間たちにばかり助けられる。
誰も私を可哀想だから庇っているわけではない。ただ一緒に働く相手として、危ない所を避け、できる方がやる、それだけのことをしている。職場としては健全だ。健全な分だけ、こちらの惨めさだけが浮く。
遠くで鈴が鳴った。
嫌な音だった。高く、小さく、呼びつけるためだけに澄んだ音。
部屋の空気がわずかに止まる。
誰も口にはしない。だが全員分かっている。あれは私だ。
「行かなくていいなら、行かせたくないんだけど」
年の近いメイドが小さく言った。
「そうもいかない」
返事をしながら、胸の奥で何かが軋む。
行きたくない。壊したい。せめて目の前の棚でも殴りたい。だができない。棚一枚で済まないからだ。ここで衝動に任せれば、この部屋ごと巻き込む。助けてくれた相手まで巻き込む。それだけは、できない。
怒りの行き先がない。
私は布巾をきれいに畳んで置いた。こういう時ほど、手順を崩さない。崩すとそのまま何かが折れる。
「戻ったら、こっち終わらせよう」
彼女が言う。
「残しておくから」
「……悪い」
「そこで謝るなら、後でお茶淹れて」
「それくらいならできる」
「じゃあお願い」
軽く笑われて、喉が詰まる。
優しくされるたびに、借りが増える気がする。
だが、実際に借りているのだろう。この屋敷で私がまだ働けているのは、自分一人の我慢だけではない。周囲がさりげなく拾い、ずれた分を戻し、壊れそうな瞬間を先に塞いでくれるからだ。私が嫌がらせの前に差し出される盾であるように、彼女たちは日常の中で私の破綻を止めている。
鈴がもう一度鳴った。
今度は少し長い。
私は部屋を出た。廊下は磨かれていて、窓から入る朝の光が床の木目を薄く浮かせている。静かな屋敷だった。静かなのに、頭の中だけがうるさい。扉を一枚開けるたびに、どこかを壊したい気持ちが少しずつ溜まる。
それでも壊せない。
私が本気で物に当たれば、周辺一帯まで影響が出る。大げさではなく、本当に出る。自分の手を壁へついたつもりで、壁の向こうの額縁まで落としたことがある。寝台の柱を掴んだだけで、脚が捻れて床が鳴ったこともある。勇者の力というには、あまりに日常向きじゃない。戦場では役に立っても、屋敷の中では災害予備軍だ。
なら我慢するしかない。
怒鳴られても、笑われても、試されても、手の中で握り潰さないように耐えるしかない。
廊下の角を曲がる前に、一度だけ立ち止まった。
窓辺に置かれた小さな花瓶が目に入る。片手で掴める大きさだ。振り上げて床へ叩きつければ、音は綺麗だろう。少しは気が晴れるかもしれない。だが、その後に何が起きるか知っている。花瓶では終わらない。床が割れ、破片が飛び、近くの窓までいく。最悪、人も怪我をする。
私は手を引っ込めた。
情けないと思う。
壊したいのに壊せない。怒っているのに怒れない。助けられているのに素直に甘えられない。そういう半端な状態で、今日もメイドとして働く。
扉の前まで来ると、内側から笑い声がした。
軽く、残酷で、退屈しきった声だった。
私は目を閉じ、息を整えた。背筋を伸ばす。指先を開く。壊さないための形を先に作る。
それから扉を叩いた。




