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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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32/33

潜入は快く始まる

灰砲領へ続く街道は、王都から遠ざかるほど道としての形を失っていった。かつて軍用荷車が行き交った名残として幅だけは広いが、雨水を逃がす側溝は崩れ、轍の底には灰色の泥が溜まり、山肌から転がり落ちた石が荷車の進路を何度も塞いでいる。修繕の痕跡は古く、橋板の継ぎ目には別々の時代の木材が使われ、腐った箇所だけを地主側が継ぎ足してきたことが見て取れた。

メイドは荷車の後部へ腰を下ろし、膝の上に置いた旅鞄を片手で押さえていた。荷台には替えの衣服、簡素な身分証、保存食、包帯、火打石が整然と積まれている。フリートが用意した替え襟は二枚では済まず、鞄の隅へ四枚押し込まれていた。出発前に抜こうとしたところ、最初から数を把握されていたらしく、鞄の底から「減らした場合は出発を遅らせます」と書かれた紙が現れたため、そのまま持ってきた。

向かいに座る砲兵は、揺れる荷台の縁へ片足を掛け、街道沿いの斜面を眺めていた。地面を見る目は旅人のものではなく、砲を据える場所、敵を見下ろせる高さ、退路を失う谷間を無意識に測る兵士のものだった。道が大きく窪むたびに荷車が跳ね、吊り下げられた鍋と金具がぶつかって、乾いた音を立てる。

「ここまで道を壊したままにしておけば、大砲どころか食料すら運べませんね。」

砲兵は御者へ聞こえない程度に声を落とし、街道の先へ顎を向けた。

「壊れたのではなく、直させてもらえないのでしょう。山側に切り出した新しい石がありますが、道へ使われていません。」

メイドが斜面を見上げると、確かに灰色の石材が長方形に整えられ、草に半ば埋もれていた。運ぶ準備まで済ませて放置された石の周囲には、雨に晒された縄の切れ端と、錆びた鉄の杭が残っている。

「地主が修繕を諦めたようには見えません。」

「許可が出るまで置いてあるのだと思います。勝手に街道を直せば、軍事輸送路を整えたと扱われる。何もしなければ、領地を管理する能力がないと税を増やされる。王が地主へ首輪を付ける時は、鎖より書類の方が長持ちします。」

砲兵の声には皮肉があったが、怒りを見せるほどの熱はなかった。似た土地を何度も見てきたのだろう。武器を持てば反乱を疑われ、持たなければ守る力がないと責められる。働く者はその矛盾の間で死ぬが、命令書を書いた側は責任を負わない。

荷車が次の坂へ差し掛かると、風の匂いが変わった。湿った土と樹皮の間へ、硫黄と煤、熱された鉄の臭いが混じり始める。斜面の向こうには、黒い煙を吐く細い煙突が数本立ち、さらに奥には石組みの工房と、山腹を穿つ坑道の入口が見えた。人家より先に火薬庫と倉庫が並び、その周囲を作業着姿の男たちが歩いている。

門と呼べる構造物はなかった。街道の両側へ低い石壁が続き、そこに槍を持った男が二人立っているだけである。胸当ても統一されておらず、片方は革の前掛け、もう片方は炭袋を肩に担いでいた。兵士ではなく、仕事の途中で門番を兼ねている坑夫に見える。

荷車が止まると、年嵩の男が御者へ手を上げた。

「どこから来た。」

「南の宿場からだ。使用人志望が一人、倉庫護衛が一人。紹介状も預かっている。」

男は御者から紙を受け取り、文字を追うより先に荷車の上へ視線を向けた。メイドの顔を見た後、砲兵の肩幅、腰の剣、靴底の泥へ順番に目を移す。文字が読めないのではなく、紙より人間を先に見る癖が付いているらしい。

「使用人は女の方か。」

「見れば分かるでしょう。」

メイドが答えると、男は口元を僅かに緩めた。

「見ただけで決めて失敗した連中が多いのでな。皿を持てるか。」

「砕く方が得意ですが、持つこともできます。」

「冗談に聞こえないな。」

「冗談として申し上げておりません。」

男は今度こそ声を立てて笑い、紹介状を折り直した。砲兵へ向き直る時には、笑いは既に消えていた。

「護衛は何を扱える。」

「長銃、短銃、野砲、臼砲、投擲具。火薬量と距離が分かれば、大抵のものは撃てます。」

「剣は。」

「人並みです。」

「人並みという奴ほど、死ぬ前に言い訳をする。」

「では、死なない程度には扱えます。」

男は砲兵の顔をしばらく見つめ、紹介状を御者へ返さず自分の腰帯へ挟んだ。

「屋敷まで案内する。荷車は工房前で止めろ。火の近くへ余計な荷を持ち込むな。」

灰砲領の中心部へ入ると、外から見えた煙突の数より、工房そのものが多いことが分かった。石壁で区切られた敷地ごとに、砲身を鋳造する長い建物、火薬を乾燥させる低い小屋、木材を削る作業場、鉱石を選別する棚が並んでいる。だが、人の数は施設の規模に合っていなかった。使われていない炉が多く、開いたままの扉の奥には煤だけが残り、錆びた滑車が風に揺れていた。

働いている者は皆、周囲をよく見ていた。鍛冶屋は槌を振るいながら街道を通る者の顔を確かめ、荷運びの女は樽を転がしつつ石壁の向こうへ耳を澄ませ、子供でさえ見慣れない荷車が入ると遊びを止めた。王の監査官と地主の人間と魔王軍の手先が同じ道を使う土地では、知らない顔を無視することが危険になる。

屋敷は領地の奥、旧砲台へ続く坂の手前に建っていた。石造りの壁は厚いが、貴族の邸宅らしい装飾は少なく、窓の外側には木製の雨戸と鉄の留め具が付けられている。玄関脇には馬車ではなく、消火用の水樽と砂袋が積まれ、庭の一部は薬草と根菜の畑に変えられていた。

メイドが荷車から降りると、背後で砲兵が小さく息を漏らした。彼女は振り向かず、旅鞄の持ち手を握り直した。

「何ですか。」

「先ほどの門番が、あなたを三度見ていました。」

「珍しい顔ではないでしょう。」

「顔ではなく、降り方です。揺れる荷台から裾を踏まず、鞄も落とさず、足音も立てなかった。」

「それが問題ですか。」

「使用人としては問題ありません。護衛としては、こちらの仕事を奪われそうで困ります。」

メイドは返答せず、玄関へ向かった。裾が泥を吸わないよう僅かに持ち上げる動作は、フリートに教えられたものではない。以前から身体へ染み付いていたが、戦闘中は必要がなく、長く使っていなかっただけだった。

玄関で待っていた女中頭は、四十代半ばほどの大柄な女性だった。髪を布で覆い、腰には鍵束と短い棍棒を提げている。メイドの紹介状を受け取ると、その場で読み、次に両手を差し出すよう顎で示した。

メイドは鞄を足元へ置き、掌を上へ向けた。女中頭は指先、爪、手首、掌の硬さを順番に見る。水仕事だけでは付かない胼胝と、刃を握る者の皮膚を確かめても、眉一つ動かさなかった。

「料理は。」

「必要なら作れます。」

「裁縫は。」

「破れた箇所を閉じる程度です。」

「洗濯、掃除、夜番は。」

「できます。」

「人を殺した経験は。」

砲兵が僅かに顔を動かしたが、メイドは女中頭の目から視線を逸らさなかった。

「あります。」

「何人だ。」

「数えていません。」

「自慢か。」

「数える必要がなかっただけです。」

女中頭は掌を放し、今度は顔と姿勢を見た。疑念ではなく、使い道を測る目だった。

「正直なのは助かる。ここでは皿を割る者より、夜中に逃げる者の方が多い。逃げるなら、給金を受け取る前にしろ。」

「逃げる予定はありません。」

「予定を立てて逃げる奴など滅多にいない。」

「では、予定外にも逃げません。」

女中頭は鼻を鳴らした。気に入ったのか、面倒だと思ったのかは分からない。ただし、追い返す気はないらしい。

砲兵は別の男へ引き渡された。倉庫責任者と名乗ったその男は、砲兵の紹介状を一瞥し、腰の武器より先に耳を見た。

「試射音で距離を測れるか。」

「風向きと地形が分かれば。」

「地下でも。」

「反響が多ければ誤差は出ます。」

「誤差を出す奴はいらない。」

「誤差がないと言う奴の方が危険です。」

二人の間に短い沈黙が落ちた。倉庫責任者は口角を上げ、砲兵の肩を一度叩いた。

「いい。少なくとも、嘘で火薬庫を吹き飛ばす奴ではなさそうだ。」

女中頭はメイドへ鞄を持たせ、屋敷の奥へ歩き始めた。廊下は掃除されているが、壁紙の剥がれや床板の沈みが目立つ。扉の金具は何度も修理され、古い釘と新しい釘が混在していた。金がないというより、入ってきた金を装飾へ回す余裕がないのだろう。

「先に主へ会わせる。質問には簡潔に答えろ。聞かれていないことまで喋るな。ただし、隠して後から発覚した場合、こちらも庇わない。」

「何を隠しているかによります。」

「その返しを主の前でするな。」

「善処します。」

「善処という言葉を使う奴は、守る気がない。」

女中頭は歩きながら、廊下の角へ置かれた水桶の位置を直した。屋敷の者が皆、火災を恐れている。火薬領で暮らす以上当然だが、桶の数は客間の椅子より多かった。

地主の執務室は、屋敷の中でも最も簡素な部屋だった。壁一面に土地台帳、鉱山図、工房の生産記録が積まれ、中央の大机には開封された書簡と、乾きかけたパンが同じ場所に置かれている。窓際に立つ地主は、五十歳に届かない程度の男だった。豪奢な服は着ておらず、袖を肘まで捲り、右手の指には墨が付いている。

彼はメイドを座らせず、女中頭から紹介状を受け取った。

「戦闘経験があるそうだな。」

「あります。」

「どこで覚えた。」

「必要になった場所で。」

「答えになっていない。」

「具体的な所属を聞いているのであれば、お答えできません。」

地主は紙から顔を上げた。怒りは見せず、椅子の背へ片手を置く。

「隠し事がある者を雇う余裕はない。」

「隠し事のない人間を探す余裕は、もっとないように見えます。」

女中頭が僅かに息を吸った。叱責が来ると思ったのだろう。地主はメイドの顔を数秒見つめた後、机の上に置かれていた別の紙を持ち上げた。使用人の名簿だった。空欄と訂正線が多く、一月ごとに人が入れ替わっている。

「ここ半年で、メイドが七人いなくなった。三人は正式に辞め、二人は夜逃げし、残り二人は行方が分からない。倉庫番も四人減った。王の監査は増え、工房へ入り込もうとする盗人も増えた。確かに、選んでいる暇はない。」

地主は名簿を机へ戻し、今度はメイドの衣服へ視線を落とした。仕立ては簡素だが、寸法が合い、襟と袖が乱れていない。高価ではない布を、粗末に見せず着ている。

「以前も使用人をしていたのか。」

「似た仕事はしていました。」

「貴族家か。」

「その質問へ答える必要がありますか。」

「ない。ここでは、以前の主人が誰であったかより、今夜の戸締まりを誰がするかの方が重要だ。」

地主はあっさりと引いた。身分を隠して働く者など珍しくなく、追及するだけ損だと分かっているのだろう。メイドもそれ以上説明しなかった。

「勇者か。」

問いは前触れなく投げられた。

女中頭の視線が鋭くなり、廊下側で待っていた砲兵の気配も僅かに動いた。メイドは否定を急がず、机の上に並ぶ土地台帳へ目を落とした。ここで嘘をついて後から露見すれば、雇用そのものが壊れる。全てを明かす必要はないが、完全に否定する価値もない。

「そう呼ばれたことはあります。」

「王の印は。」

「持っていません。」

「教会の登録は。」

「ありません。」

「では、王の勇者ではない。」

「王の所有物になった覚えはありません。」

地主は初めて笑った。声を立てるほどではなく、疲れた顔の一部が僅かに緩んだだけだった。

「その答えなら、こちらにも都合がいい。王が管理していない戦力は、存在するだけで監査官への牽制になる。ただし、屋敷の中で勝手に戦うな。火薬庫の近くでは剣を抜くな。敵を見つけても、火を使う前に場所を考えろ。」

「剣を抜かずに殺せる相手なら、そうします。」

「殺す前提なのだな。」

「敵であれば。」

地主は椅子へ腰を下ろし、乾きかけたパンを端へ退けた。視線はメイドから外れなかった。

「ここへ来る者の多くは、仕事が欲しいか、何かを盗みたいか、誰かから逃げている。お前はどれだ。」

「探しているものがあります。」

「武器か。」

沈黙が落ちた。

地主は答えを催促しなかった。机の上の指で、一定の間隔を刻むように二度叩く。

「最近、旧工房の周囲を嗅ぎ回る者が多い。王の監査官は廃棄した兵器が残っていないか調べ、商人は鉄屑を探し、魔族は人間の武器を笑うために買おうとする。何を探しているかは聞かない。ただし、屋敷と領地を巻き込むなら、こちらも黙ってはいない。」

「巻き込まれた後で文句を言うつもりはありません。必要なら先に話します。」

「必要かどうかを決めるのは、お前だけではない。」

「では、互いに必要だと思った時に話しましょう。」

女中頭が再び息を吸ったが、地主は今度も怒らなかった。むしろ、返答の中にある距離を測るように目を細めた。

「雇う。給金は月末。食事と寝床は支給する。夜番は三日に一度だが、使用人が足りないため増える可能性がある。外出は申告制。工房へ入る時は許可を取れ。勝手に坑道へ入った場合、崩落しても捜索はしない。」

「承知しました。」

「護衛の男は倉庫側へ回す。互いに知り合いであっても、勤務中に私語を増やすな。」

「私語を交わす必要はありません。」

「それなら助かる。」

地主は紹介状へ署名し、女中頭へ返した。これで雇用は成立したが、信用されたわけではない。互いに利用価値を認めただけである。その方がメイドには扱いやすかった。

執務室を出ると、女中頭は廊下の途中で足を止めた。

「主へあれだけ言い返して採用された者は久しぶりだ。」

「言い返したつもりはありません。」

「なら、その口は生まれつきなのだろう。余計に厄介だ。」

女中頭は鍵束から小さな鍵を一つ外し、メイドへ渡した。

「東側の使用人部屋。三人部屋だが、今は一人しか使っていない。荷を置いたら厨房へ来い。夕食の準備を手伝ってもらう。」

「夜番の配置も確認したいのですが。」

「働き始める前から夜の話か。」

「消えた使用人がいるのでしょう。」

女中頭の指が鍵束の上で止まった。先ほどまでの実務的な顔から、僅かに警戒が覗く。

「主から聞いたのか。」

「名簿が見えました。」

「見えたものを全て口へ出すな。」

「見えなかったことにすれば、次に消える者を減らせますか。」

女中頭は返さなかった。廊下の奥から、食器を運ぶ音と、誰かが桶を落とした鈍い響きが聞こえる。彼女はそちらへ一度目を向けてから、声を低くした。

「夜番は後で見せる。まずは屋敷の仕事を覚えろ。勝手に調べれば、消えた者と同じ場所へ行く。」

「場所を知っているのですか。」

「知らないから言っている。」

女中頭はそれ以上続けず、厨房の方向へ歩き去った。

メイドは渡された鍵を握り、東側の階段へ向かった。途中、窓の外に見える工房の煙が一度だけ薄く途切れ、数秒後、山の奥から低い爆発音が響いた。地面は揺れず、窓ガラスだけが細かく鳴った。通常の試射にしては音が深く、反響が長い。

廊下の反対側で砲兵も足を止めていた。倉庫責任者に連れられながら、窓の外ではなく床へ視線を落としている。音が石壁と地面のどちらを伝ったか確かめているのだろう。

二人の目が一瞬だけ合った。

砲兵は何も言わず、右手の指を二本だけ立て、すぐ下ろした。二度の反響。地下か、壁を隔てた別の試射。メイドは返事の代わりに鍵を一度握り込み、歩みを再開した。

屋敷へ入ってまだ半刻も経っていない。それでも、閉鎖されたはずの工房は動き、失踪した使用人の名簿は残り、地主は武器を探す者の存在を知っている。

灰砲領は、捨てられた土地ではなかった。

価値を下げられたまま、誰かが地下で値段を付け続けている。

メイドは与えられた部屋へ入り、鞄を寝台の脇へ置いた。鏡も装飾もない部屋だったが、窓から旧砲台と工房の屋根が見える。彼女は外套を脱ぎ、フリートに整えられた襟がまだ中央にあることを確認すると、乱さないまま袖を捲った。

まずは厨房へ入る。

食事の数を知り、皿の戻りを見て、洗濯物を数え、誰が夜に歩くか覚える。

武器は、その後でよい。

殺すべき者がいるなら、どこへ逃げるかまで確かめてから殺せばよい。

メイドは部屋の鍵を掛け、使用人としての最初の仕事へ向かった。

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