尾を引く
灰砲領の厨房は、夜明けより前に目を覚ました。石壁の内側へ染み込んだ煤と油の臭いの中で、竈へ火が入り、前日に浸しておいた豆が鍋へ移され、固くなったパンが薄く切り分けられていく。工房へ向かう者は日の出を待たずに働き始めるため、屋敷の朝食も貴族家の時間には従わない。料理人たちは暗いうちから包丁を動かし、女中たちは湯を運び、夜番を終えた者へ先に食事を出していた。
メイドは厨房へ入ると、女中頭から渡された前掛けを腰へ結び、言われる前に作業台の空いている位置へ立った。最初に任されたのは、根菜の皮剥きと、肉の筋を取り除く仕事だった。刃物の扱いを見られていることは分かっていたが、速さを見せつける必要はない。包丁の刃をまな板へ深く当てず、肉の繊維へ沿わせ、使える部分を削り落とさないように進める。戦闘で相手の関節を断つ時とは力の向きが異なるが、刃先を必要以上に沈めない点では同じだった。
向かいで玉葱を刻んでいた若い女中が、何度か手元を盗み見ていた。やがて自分の包丁を止め、切り分けられた肉へ目を落とした。
「昨日まで別の屋敷にいらしたのですか。初日でそれほど綺麗に筋を取れる方は、ここでは滅多におりません。」
「肉を無駄にすれば、後で困る者が増えます。それだけです。」
「料理人だったような手つきにも見えませんけれど、兵士が肉を切る時はもっと乱暴でした。」
「兵士ではありません。」
メイドが言い切ると、若い女中は昨日の面接で戦闘経験を認めたことを思い出したらしく、問いを重ねる前に口を閉じた。怯えたのではない。知らなくても仕事に支障がないことを、ここで働く者は早く覚えるのだろう。彼女は玉葱を刻む作業へ戻り、暫くしてから、今度は別の方向へ話を変えた。
「髪留め、丈夫そうですね。工房の煤が入ると、布紐はすぐに駄目になるので。」
「借り物です。」
「よく似合っています。」
包丁を持つ指が止まるほどの言葉ではなかった。メイドは礼も否定も返さず、切り終えた肉を盆へ移した。ただ、背中へ流れずに束ねられた髪が、作業中に頬へ触れないことは悪くなかった。フリートが便利さを先に説明しなかった理由は、便利だと言えば最初から受け取ったと分かっていたからかもしれない。その考えが腹立たしく、メイドは次の肉へ少しだけ深く刃を入れた。
「そこまで削ると、煮込んだ時に崩れます。」
料理人の声が飛び、メイドは刃を止めた。
「失礼しました。」
「謝るほどではありませんが、肉へ八つ当たりされると鍋が困ります。」
料理人は手元を覗き込み、切り口を確かめてから盆を引き取った。年老いた女だったが、火傷の跡が腕まで続き、指の節は太く、声には厨房を長く支配してきた者の硬さがあった。
「刃物は上手です。ですが、上手な者ほど自分の機嫌まで刃へ乗せます。ここでは敵より先に食材が減りますから、気を付けなさい。」
「承知しました。」
「承知した顔には見えませんね。」
「顔は仕事と関係ありません。」
「食べる者は、作った者の顔を見ます。関係がないと言い切れるほど、食事は無機質ではありませんよ。」
メイドは返答を飲み込み、作業を続けた。料理人の言葉が正しいかどうかを考える必要はない。今は食事の流れを覚え、誰が何を食べ、どの皿がどこへ運ばれるかを見る方が先だった。
朝食用の盆は、屋敷の家族、使用人、夜番、工房責任者、病人へ分けられていた。女中頭が読み上げる人数に合わせ、皿と椀が並べられていく。メイドは一度数え、肉の量とパンの枚数も目で追った。名簿上の使用人と工房から来る責任者を合わせれば、用意される食事は五十六人分になるはずだった。
実際には六十四人分あった。
八人分の差は、厨房全体の誤差としては大きい。病人用の薄い粥が二人分、塩を減らした煮込みが三人分、通常の朝食が三人分。いずれも盆へ載せられた後、表の食堂や使用人部屋とは反対側の小さな扉へ運ばれていった。
メイドは鍋を洗うふりをしながら、その扉を通った女中の靴を見た。靴底には庭の泥ではなく、細かな灰と、白っぽい石粉が付いている。工房へ向かう道なら黒い煤と赤土が混じるはずだが、白い石粉は屋敷の地下か、古い砲台の内部で使われた石材に近い。
若い女中が戻ってきた時、空の盆は持っていなかった。代わりに布を被せた籠を一つ抱え、厨房の隅へ置いた。中から食器の触れ合う音はしない。
「それは回収しないのですか。」
メイドが尋ねると、若い女中は一瞬だけ籠を見た。
「昼にまとめて戻ります。」
「夜番へ出した盆とは別ですか。」
「別です。昔からそうなっております。」
「誰が食べているのでしょう。」
「工房の怪我人だと聞いています。火傷や骨折で、表へ出られない方がいるそうです。」
答えは淀みなく、覚えた説明をそのまま返したようだった。本人が嘘をついているのではなく、そう教えられて疑っていない。メイドはそれ以上聞かず、籠の位置と扉の鍵穴だけを覚えた。
食事が出そろう頃、女中頭が厨房へ入ってきた。手には夜番の記録板を持ち、空いた場所へ置くと、料理人へ工房の人数を尋ねた。
「昨日と同じです。南の炉が止まっているので、昼は三人少なくなります。」
「夜の試射が増えた分、倉庫側へ二人回す。夕食は減らすな。」
女中頭はそう告げてから、メイドへ目を向けた。
「朝の仕事はどうだ。」
「問題ありません。」
「料理人へ聞いている。」
料理人は鍋の蓋を持ち上げ、湯気の向こうからメイドを見た。
「刃物と数には強いようです。食材へ喧嘩を売る癖を直せば、使えます。」
「何をした。」
「肉へ八つ当たりしました。」
メイドが先に答えると、女中頭は眉を寄せたが、深く追及しなかった。
「昼からは洗濯場へ回す。夜番の前に屋敷の出入口を覚えてもらう。今夜は東廊下と中庭だ。」
「旧工房側は誰が見ていますか。」
女中頭の指が記録板の端で止まった。
「お前は東廊下と中庭だ。」
「承知しました。旧工房側の担当だけ確認したかったのですが。」
「仕事を覚える前から、担当外を気にするな。」
「消えた使用人がいた場所だからです。」
厨房の音が僅かに薄くなった。誰も完全には手を止めなかったが、包丁の速度が落ち、鍋の蓋を閉じる音が慎重になった。女中頭は周囲を見回し、メイドへ近づいた。怒鳴らず、声を落とす。
「昨日、見えたものを全て口へ出すなと言ったはずだ。」
「見えたものではありません。聞いたことです。」
「なら、なおさら黙って働け。ここで何かを知っている顔をすれば、知っている者として扱われる。」
「誰にですか。」
「その質問を続ける相手にだ。」
女中頭の視線は強かったが、追い払おうとするものではなかった。警告には実感があり、過去に同じ問いを口へした者がどうなったかを知っている目だった。
「夜番の配置は後で渡す。今は洗濯場へ行け。東廊下から外へ出れば、地下へ下りる扉があるが、鍵が合っても開けるな。」
「鍵は合うのですか。」
「お前の持っている鍵は、使用人部屋と洗濯場だけだ。」
「では、合わない鍵を試す心配はありません。」
女中頭は一瞬だけ口元を動かした。笑ったのではなく、面倒な返答を受け流しただけだった。
「そういうところが厄介だと言っている。」
洗濯場は屋敷の北側にあり、工房から流れる水を一度沈殿させ、煤と金属粉を落としてから使っていた。広い石床には桶が並び、天井から吊られた縄へ下着、作業着、寝具が掛けられている。洗濯物は泥より煤が多く、白い布ほど灰色へ染まり、何度洗っても元へ戻らない。
メイドは与えられた衣服を種類ごとに分け、破れ、血、油、火薬の臭いを確認した。火傷した者の衣服には焦げと薬草の匂いが残り、坑夫の服には土と汗が深く染み込む。屋敷の使用人服は比較的綺麗だったが、名簿に記された人数より三着多い。
その三着は若い女用で、袖口だけが強く汚れ、裾には灰と白い粉が付着していた。厨房の裏口を通った女中と同じ汚れである。洗われているということは、持ち主が現在も着替えている。退職した者の服なら保管庫へ戻され、失踪者の物なら処分されるはずだった。
メイドは三着を他と分けず、同じ桶へ沈めた。証拠を見つけた顔をすれば、洗濯場の者が警戒する。布を揉みながら、縫い目の内側へ指を滑らせる。二着には、胸元の裏へ小さな数字が縫い付けられていた。一着には数字がなく、代わりに右袖の内側へ赤い糸が一本だけ通されている。
「それ、仕分けを間違えていますよ。」
隣で寝具を絞っていた年配の女が声を掛けた。彼女はメイドの手元を指し、赤い糸のある服を別の籠へ移すよう示した。
「同じ使用人服に見えますが。」
「赤糸は離れの分です。こちらで洗った後、裏の籠へ戻します。」
「離れには病人がいると聞きました。」
「病人もおります。」
「他にもいるのですか。」
年配の女は濡れた寝具を強く絞り、顔を上げなかった。
「聞かない方が長く働けます。」
「長く働くために、知る必要があることもあります。」
「そう言った子が、前にもおりました。」
水の滴る音が、二人の間へ落ちた。年配の女は寝具を籠へ入れ、ようやくメイドの顔を見た。
「賢い子でした。読み書きができて、数も得意で、主人の帳簿まで手伝えるほどでした。ある晩、離れの食事が名簿と合わないと言って、その翌朝には仕事を辞めたことになっておりました。」
「本人から辞めると聞いたのですか。」
「いいえ。皆、女中頭から聞きました。」
「荷物は。」
「部屋に残っていました。」
「家族へ連絡は。」
「家族はいない子でした。」
年配の女はそこで口を閉じ、周囲へ目を向けた。洗濯場の他の者たちは作業を続けているが、聞こえていないふりをしている。知らないのではなく、話さないことで自分の順番を遠ざけている。
メイドは赤糸の服を指定された籠へ移した。今ここで問い詰めても、年配の女が危険に晒されるだけである。必要なのは、消えた者がどこへ運ばれ、誰が管理し、何のために生かされているかだった。
「その子の名を教えてください。」
年配の女は濡れた指を前掛けで拭い、すぐには答えなかった。
「名前を知って、どうするのです。」
「忘れられないようにします。」
「探すとは言わないのですね。」
「見つける前から約束はしません。」
その返答に、年配の女は僅かに目を細めた。期待を煽られるより、まだ何もできないと認める方が信用できたのだろう。
「ミナです。姓はありません。胸元へ八と縫われた服を着ていました。」
メイドは桶の中へ沈んでいた服を引き上げた。裏返すと、胸元の縫い代に小さな八がある。
「この服ですか。」
年配の女の顔から血の気が引いた。指先が震え、服へ伸びかけた手を途中で止める。
「処分されたはずです。」
「今も使われています。」
「誰が。」
「それを調べます。」
メイドは服を元へ戻し、洗い終えた他の衣類と同じように絞った。ミナ本人が着ているとは限らない。別の者へ回された可能性もある。だが、失踪後も番号付きの服が離れへ運ばれ、食事が八人分多く作られている。少なくとも、退職という説明は嘘だった。
昼前になると、洗濯場の裏口へ同じ籠が運ばれてきた。朝に食事を入れていた物で、今度は空の食器が布の下へ収められている。メイドは運んできた男の足元を見た。使用人ではなく、工房の荷運び人らしい厚い靴を履き、腰には短い鉄棒を差している。籠を置く動作は乱暴だったが、食器は割れていなかった。
「離れからですか。」
メイドが尋ねると、男は顔を上げず、布を外した。
「洗うだけでいい。」
「食べ残しを分けなければ、厨房が量を調整できません。」
「全部食った。」
実際、椀は綺麗に空いていた。八人分すべてに、粥も煮込みも残っていない。食欲がある者が食べたのか、残せないよう監視されているのかは分からない。
「怪我人にしては食欲がありますね。」
男の手が止まった。厚い指が布の端を掴み、低い声を出す。
「お前、新入りか。」
「昨日から働いています。」
「長くいたいなら、籠の中だけ見ていろ。」
「籠の外へ答えがあるのでしょうか。」
男は初めてメイドの顔を見た。視線は警告より先に値踏みへ変わり、整えられた髪、襟、腕の動き、腰回りへ順に移った。女として見ているのではない。どの程度の力があり、脅せば黙るかを測っている。
「口の利き方を覚えろ。ここでは綺麗な顔の方から消えるぞ。」
「顔の順番で選ぶなら、あなたは安全そうですね。」
洗濯場の空気が固まった。男は一歩詰め寄り、籠の縁を強く掴んだ。だが、メイドの身体は退かず、手も腰の武器へ動かなかった。ただ視線だけが、男の喉と右膝、腰の鉄棒へ一度ずつ落ちた。
男はそれを見て、殴ればどうなるかを計算した。勝てるかどうかではなく、騒ぎになった時に自分の側が何を失うかを考え、指の力を緩める。
「冗談の下手な女だ。」
「先に容姿の話をしたのはあなたです。」
男は籠を置いたまま背を向け、裏口から出ていった。年配の女は息を吐き、メイドへ低く言った。
「今の男は、旧工房の荷を運んでおります。逆らわない方がよろしいですよ。」
「旧工房は閉鎖されているはずです。」
「だから、そういうことを口へ出さないでください。」
年配の女の声には苛立ちより恐怖があった。メイドは男の去った扉を見ながら、食器を洗い始めた。椀の底には、通常の厨房では使わない薄い油膜が残っている。食事へ何かを混ぜた痕跡ではない。火薬工房の近くで使われる機械油が、食べる者の指か、運ぶ者の手から付いたものだった。
一方、砲兵は屋敷から離れた火薬庫で、朝から樽の検数を続けていた。倉庫責任者は彼へ帳簿を渡し、入庫と出庫の数が合わない理由を見つけるよう命じていた。試すための仕事であると同時に、外部の人間へ責任を押し付ける準備でもある。
火薬樽には製造日、工房番号、湿気避けの処理が記されていた。帳簿上、昨日の試射に使用されたのは小樽二つ。しかし、空になって戻った樽は三つあり、そのうち一つだけ底へ白い石粉が付着している。
砲兵は樽の内側へ指を入れ、残った粉を嗅いだ。火薬ではない。古い石室の壁を削った粉と、地下へ染み込んだ水の臭いが混じっている。地上の試射場で使った樽なら、赤土と草の種が付くはずだった。
「一樽多いですね。」
砲兵が言うと、倉庫責任者は別の帳簿から顔を上げなかった。
「戻し忘れだろう。」
「空樽だけ戻し、使用記録を忘れたのですか。」
「忙しい時にはある。」
「昨日の表の試射は一度です。二樽で足りる規模でした。三樽目は別の場所で使われています。」
倉庫責任者はようやく顔を上げた。目に怒りはなく、何をどこまで見抜いたかを測っている。
「音で分かったのか。」
「樽で分かりました。音は二度反響しました。地上の砲台から一度、地下か石室から一度です。」
「山では反響する。」
「同じ音が返ったのではありません。後の音は低く、短い。銃身からではなく、壁に囲まれた場所で擲弾か小砲を使った音です。」
倉庫責任者は帳簿を閉じ、砲兵の前へ立った。二人の身長は大きく変わらないが、男の方が肩幅は広く、腕には鍛冶仕事で付いた傷が多い。
「雇われて一日で、随分と口を出すな。」
「口を出す仕事として雇われました。」
「誤差を見つけろとは言ったが、余計な場所まで探せとは言っていない。」
「誤差の出た場所を避けて、どうやって原因を見つけるのです。」
倉庫責任者の口元が僅かに歪んだ。怒っているのか、砲兵の返答を気に入ったのか、どちらとも取れる。
「旧工房へ近づくな。崩落の危険がある。」
「閉鎖されているなら、空樽はどこから戻りましたか。」
「知らない方がいい。」
「知らないまま帳簿へ署名すれば、私が盗んだことになります。」
砲兵は空樽の底を指で叩いた。乾いた音が倉庫へ響く。
「私はあなたを疑っているわけではありません。あなたが誰かを庇っているとも決めていない。ただ、この一樽を見なかったことにして名前を書くつもりもありません。」
倉庫責任者は砲兵を暫く見つめ、やがて帳簿を取り上げた。
「署名は不要だ。今日のところはな。」
「明日は必要ですか。」
「明日まで残っていれば、考える。」
「脅しにしては控えめですね。」
「警告だ。脅す時は、もっと分かりやすくする。」
倉庫責任者は空樽を別の列へ移し、砲兵へ新しい仕事を命じた。地上の試射場で標的板を交換し、散らばった破片を回収する作業である。旧工房から遠ざける意図は明白だったが、砲兵は反発せず従った。追い返されない範囲で働き続けた方が、音と物資の流れを長く見られる。
午後、地上の試射場では古い小砲の点検が行われていた。標的板の周囲には通常の鉄片が刺さっていたが、その一枚だけ、深く抉られた穴の縁へ細かな銀色の粒が残っている。砲兵は指で触れず、板ごと持ち上げた。散弾が一点へ集中せず、広い範囲へ均等に食い込んでいる。銀河鉄砲の記録に近い。
ただし、表の試射でこの弾は使われていない。地上の砲撃で壊れた古い板へ、地下から持ち出された破片が混ぜられた可能性がある。
砲兵は板を運びながら、試射場から屋敷の窓を見上げた。東側の洗濯場で白い布が一枚だけ高く掛けられている。朝に決めた合図ではない。だが、屋敷へ入る前に二人で確認した通り、洗濯物の位置は厨房や女中頭に怪しまれず使える。
白い布の隣に、赤糸の付いた袖が半分だけ見えていた。
人がいる。
少なくとも、消えた使用人の衣服が現在も使われている。
砲兵は標的板を立て掛け、足元の石を二つ拾った。一つを板の右、もう一つを左へ置く。二箇所。表と地下。屋敷の高窓から見れば、ただの重しに見える位置だった。
夕刻、メイドは洗濯物を取り込みながら、試射場の標的板と二つの石を確認した。砲兵は地上とは別に地下の発射地点があると見ている。こちらでは八人分の食事、三着の使用人服、旧工房から戻る籠、機械油の付いた食器が見つかった。
食事を運ぶ者を追えば、入口までは分かる。
だが、今夜すぐに動けば、女中頭の警告どおり、消えた者と同じ扱いを受ける可能性がある。問題はそれ自体ではない。拘束されれば救出が遅れ、武器が移され、砲兵も追い出される。
メイドは洗濯籠を抱え、東廊下へ戻った。廊下の窓には夕日の赤い光が差し込み、磨かれていないガラスへ細長く伸びている。フリートが整えた髪は一日働いても大きく崩れていなかったが、額の近くへ一本だけ落ちていた。以前なら放置しただろう。今は洗濯籠を片腕へ寄せ、指先で元へ戻した。
その動作に特別な意味はない。
ただ、乱れたまま歩く必要もなかった。
女中頭は廊下の突き当たりで、夜番の配置板を壁へ掛けていた。メイドが近づくと、東廊下、中庭、厨房裏口の順に見回るよう指示する。
「旧工房へ続く地下扉には近づくな。鍵は掛かっているが、今夜は荷が通る。」
「何の荷ですか。」
「工房の廃材だ。」
「廃材へ食事も必要なのですね。」
女中頭の手が止まった。
メイドは洗濯籠から、赤糸の付いた袖を僅かに見せた。見せつけず、偶然目に入る高さへ置くだけだった。
「ミナという使用人を知っていますか。」
女中頭の顔から、疲れ以外の感情が消えた。怒りも恐れも押し込み、管理者の表情へ戻ろうとする。
「誰から聞いた。」
「洗濯場で服を見つけました。」
「それ以上、誰に話した。」
「あなたが最初です。」
女中頭は周囲を確認し、メイドの腕を掴んだ。力は強く、年齢から想像するより速い。東廊下の物置へ引き入れ、扉を閉める。
「服は元へ戻せ。今夜の荷を追うな。」
「ミナは生きていますか。」
「知らない。」
「死んだと確認したのですか。」
「知らないと言っている。」
声が僅かに震えた。知らないことへの恐怖ではなく、知ろうとしなかった自分へ向けたものだった。
「辞めたと皆へ伝えたのは、あなたですか。」
「主からそう言われた。」
「本人の荷物が残っていても。」
「ここで働く者を全員守れると思うな。」
「守れないから、何もしなかったのですか。」
女中頭の目が鋭くなり、掴んでいた腕へ力が入った。
「昨日来たばかりの女に、何が分かる。王の監査官が入り、地主の私兵が疑われ、工房の仕事が減り、夜に知らない荷車が来る。誰か一人が消えるたびに騒げば、屋敷ごと潰される。残った者へ給金を払い、食事を出し、火事を防ぐだけでも精一杯だ。」
「それで、次に消える者を選ばせ続けるのですか。」
「選んでなどいない。」
「選ばれた者を見送っています。」
女中頭は反論しようとして、言葉を止めた。メイドは掴まれた腕を振り払わなかった。相手が敵ではないことも、ここで打ち倒して得るものがないことも分かっている。
「私は今夜、荷を追いません。」
女中頭の指が僅かに緩んだ。
「信用しろと?」
「今夜は追わないと言っただけです。食事の数、衣服、試射音、荷の通る時刻を確認しました。入口を追うより、誰が鍵を持ち、誰が命令し、何を運び出そうとしているかを先に見ます。」
「何をするつもりだ。」
「消えた者を連れ戻し、隠された武器を回収し、関わった者を殺します。」
女中頭の顔が強張った。殺すという言葉を比喩や怒りとして受け取らず、メイドが実際に行うと理解したからだった。
「人を殺せば、王の兵が入る。」
「殺す前に、入れない状態へします。」
「簡単に言うな。」
「簡単ではありません。ですから、今夜は追いません。」
女中頭は長く息を吐き、メイドの腕を放した。物置の外では、夕食を知らせる鐘が鳴り、使用人たちの足音が廊下を通り過ぎていく。
「地下扉の鍵は、主と私と、旧工房の荷運び頭が持っている。」
女中頭は扉へ背を向けたまま言った。
「だが、私の鍵では内側の鉄柵までは開かない。荷は毎晩ではない。月に三度、多い時は五度。食事が増えるのは荷が来る前だけだ。」
「次は今夜ですね。」
「ああ。」
「荷運び頭の名は。」
「バルド。昼に洗濯場へ来た男だ。」
メイドはあの厚い靴と鉄棒を思い出した。旧工房の中枢ではなく、入口を守る側の人間である可能性が高い。
「競売人という呼び名を聞いたことはありますか。」
女中頭の肩が僅かに揺れた。
「その名を、どこで。」
「まだどこでも。武器と人間を同時に集める者がいるなら、売る相手が必要です。」
「知らない。」
「今度の知らないは、本当ですね。」
女中頭は振り返り、疲れ切った目でメイドを見た。
「お前は、何者だ。」
「雇われた使用人です。」
「使用人は、そこまで調べない。」
「消える者がいる屋敷では、調べる方が仕事になります。」
メイドは物置の扉を開けた。廊下へ出る前に、女中頭へ一度だけ顔を向ける。
「今夜は通常どおり見回ります。荷を見ても追いません。あなたも、普段どおり扉を開けてください。」
「何のために。」
「相手に、まだ何も知られていないと思わせるためです。」
夜が深まると、東廊下の灯りは半分まで落とされた。メイドは定められた順路を歩き、窓の留め具、厨房裏口、中庭の水桶を一つずつ確認した。地下扉の前へ差し掛かった時、廊下の先から車輪の小さな軋みが聞こえた。
荷運び頭のバルドと、顔を布で隠した男二人が、蓋付きの台車を押してくる。台車の上には食事の籠、清潔な使用人服、包帯、灯油、それから木箱が三つ載っていた。木箱には廃材の印が押されているが、車輪が沈むほど重い。
バルドはメイドを見ると、昼のやり取りを思い出して口元を歪めた。
「夜番か。綺麗な顔が消えないよう、目を閉じていろ。」
「勤務中に眠るなと教わりました。」
「なら、壁でも見ていろ。」
「壁の方が、あなたより整っています。」
男の片方が笑いを漏らしかけ、バルドに睨まれて黙った。女中頭が後から現れ、無言で地下扉へ鍵を差し込む。扉が開いた瞬間、冷たい空気と石粉、機械油、火薬の臭いが廊下へ流れた。
メイドは中を覗かなかった。
覗けば警戒される。
代わりに、台車が敷居を越えた時の沈み方を見た。木箱三つのうち、右端だけ内部で金属同士が触れ、乾いた短い音を立てた。銃身か、鎖か、分解された武器の部品である。
扉が閉じられる直前、地下の奥から咳が聞こえた。
一人ではない。
小さく抑えた咳と、その直後に誰かが「静かに」と囁く声が重なった。
ミナかどうかは分からない。
だが、離れの病人ではなかった。
扉が閉まり、鍵が回る。女中頭はメイドを見なかった。バルドも振り返らず、地下へ消えた。
メイドはその場に留まらず、予定どおり中庭へ向かった。追えば入口の構造と見張りの数は分かるかもしれない。今夜殺せる者もいるだろう。
しかし、台車の木箱に武器があり、地下に複数の捕虜がいて、外には砲兵が調べる別の発射地点がある。今ここで首を落とせば、奥にいる者が別の通路から逃げ、捕虜が閉じ込められる。
殺す相手が増えただけなら、急ぐ理由にはならない。
全員を同じ場所へ集めればよい。
中庭へ出ると、遠くの試射場で灯りが一度消え、短い間を置いて二度点いた。砲兵からの合図だった。
地下発射地点を確認した。
メイドは水桶の蓋を閉じ、屋敷の高窓へ灯りが届く位置で、見回り用の手灯りを一度だけ床へ置いた。
こちらも人間を確認した。
返事の灯りはなかった。必要がないからである。
二人は別々の場所で、同じ閉鎖工房へ辿り着いていた。
後は、入口を開ける者、武器を整える者、買いに来る者を一つずつ確かめる。
メイドは東廊下へ戻り、地下扉の前をもう一度通った。今度は足を止めず、髪留めへ指を触れることもなく、そのまま歩き過ぎる。
扉の向こうにいる者を助けるために、今夜は開けない。
殺すべき者を逃がさないために、今夜は斬らない。
それは躊躇ではなく、順番だった。




