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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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古傷

酒場の扉を押し開けた瞬間、熱気と酒の匂いが頬に当たった。夜更けにしては人が多い。壁際では荷運びの男が喚き、奥の卓では仲買人が帳面を叩き、真ん中では酔った傭兵が椅子を軋ませている。珍しく静かに飲める店ではなかったが、こちらも静かに飲みに来たわけではない。顔を見ておきたい相手がいた。

先に目に入ったのは、見知った横顔だった。一話で一度顔を合わせた、ハンターの部下。獲物より先に酒場を見つけるタイプの男だ。その向かいには、黒い上着をきっちり着たまま杯を持つ男がいる。こちらも見覚えがある。ピンカートンの社員。酒の席でも背筋が崩れない。あれは仕事を辞める気のない人間の姿勢だ。

問題は、その二人の間だった。

若い男が一人、椅子を少し後ろへ引いて座っていた。背は高すぎず、肩も厚くない。顔立ちは整っているが、拍子抜けするほど普通だ。肌も荒れていない。角も牙もない。酒場の薄明かりのせいで、年齢は余計に若く見えた。二十歳を越えているのかも怪しい。童顔だった。

その男が笑った。

ただそれだけで、喉の奥が固まった。

声だった。高さでも低さでもない。語尾の落とし方だ。戦場で何度も聞いた。降伏勧告の時も、停戦交渉の時も、城壁の上からこちらの損害を淡々と数えていた時も、あの声はいつも怒鳴らなかった。静かで、無駄がなく、人の神経だけを削る声だった。

右手が勝手に腿へ落ちた。スカートの裏、ホルダーの位置を確かめる。届く。三歩。椅子の背を使えば一歩。喉へ入れるなら浅い。心臓なら深い。立つ前に殺せる。机を蹴れば杯は倒れる。騒ぎの一拍で首まで入る。

そこまで考えて、止まった。

目撃者が二人いる。片方は獣を追うのが仕事で、もう片方は人間を追うのが仕事だ。ここで刺せば、その瞬間に私は「魔族殺し」ではなく「酒場の殺人犯」になる。今までの暗殺と繋がる。屋敷まで辿られる。あの首輪まで届く。

それだけでは済まない。

北の荷揚げ。南の炭の流れ。倉庫の担保。商会間の立替え。港湾の仲裁。魔族を噛ませた契約で回っている分を、私は帳簿で知っている。こいつ一人の首を落とした瞬間、明日の朝に止まるものが多すぎる。止まれば値が跳ねる。跳ねれば飢える。飢えれば暴れる。人間も、魔族もだ。

しかも今の魔王は、ただ頂点にいるだけの男ではない。魔族を無尽蔵に増やす代わりに、あえて数を絞り、支配できる分だけを人間社会へ流している。労務、運搬、仲裁、裏の処理。人間が嫌がる隙間に魔族を入れ、人間側にはファシリテーターを契約で抱え込ませる。利益は両側から取る。人間は便利さに依存する。魔族は暮らしに馴染む。そうやって境目を薄くしながら、自分一人へ敵意が集中しないように設計している。目の前のこの男を刺せば終わる、そんな単純な構造はとっくに壊されていた。

若い男がこちらを見た。

目が合った。

そこで初めて、相手も気づいていると分かった。偶然ではない。最初から見えていたのだ。私が入ってきた時点で、杯の角度も、肘の位置も、視線の上げ方も、全部一拍遅らせていた。こちらが先に気づくように座っていた。

ハンターの部下が顔を上げた。

「お。遅かったな」

何も知らない声音だった。

ピンカートンの社員は一度だけ私の服を見た。視線がフリルから喉元へ滑り、そこで止まる。首輪は服の内側に隠してある。見えてはいないはずだ。それでも、こういう手合いは見えない物の形を勝手に想像する。

童顔の男が椅子を少し引き、空いた席を顎で示した。

「立ったままでは飲みにくいでしょう」

その言い方まで、昔と同じだった。

私は座らなかった。

「随分と場違いなところにいるな」

「そうですか」

男は肩をすくめた。「こういう場所の方が、皆さん本音で話す。城より役に立ちますよ」

ハンターの部下が笑った。

「この兄ちゃん、面白いぞ。見た目の割に現場の話が通じる」

兄ちゃん。

その呼び方に、吐き気に似たものが込み上げた。戦場では何万という死を動かした声だ。補給路ひとつ切れば前線の村が何日で飢えるかまで計算していた男だ。それが今、酒場の安椅子に腰掛けて、酔っ払いと同じ光の下で笑っている。

私は席に着いた。立ったままだと、逆に手が動く。座れば机が一枚挟まる。三歩だった距離が、ほんの少し遠くなる。殺意は近いほど軽くなる。遠くすると重さが戻る。

「何を飲む」

ハンターの部下が聞いた。

「要らない」

「そうかよ」

男は気にせず自分の杯を煽った。「こっちはもう三杯目だ。こいつは強いし、こっちは全然崩れねぇし、仕事の話は面白ぇしで、帰る理由がねぇ」

ピンカートンの社員が静かに言った。

「仕事の話にしては、少々抽象的でしたが」

「抽象的なくらいでちょうどいいでしょう。具体的な話を人前でする趣味はありません」

童顔の男が言う。

「特に、契約に関わることは」

最後の一語だけ、少しだけこちらへ向けて落とされた。

知っている。私がその言葉で止まることを知っている。

仲間二人の顔が脳裏をよぎった。かつて同じように呼ばれ、同じように帳簿の山へ押し込まれ、同じように便利に使われた二人だ。あいつらは途中で見切った。こんな制度は信用できないと離れた。だが縁は切らなかった。勇者時代のよしみという、今となっては笑うしかない理由で、調べることだけは手伝ってくれる。誰がどこで契約を結び、誰が誰に保証を付け、どの倉庫を魔族が噛んでいるのか。私がここで止まっていられるのは、あの二人が裏から拾ってきた紙切れのおかげだ。

逆に言えば、それだけだった。

戦う時はいつも一人だ。

この場で机を返し、喉を裂き、逃げ切ったとして、その後を押さえる手がない。潰れた契約の穴へ誰を差し込む。暴走した魔族を誰が追う。人間側の報復を誰が止める。調査は協力してくれる。だが血の飛ぶ所まで来る気はない。責める気もない。正しい判断だ。狂っているのは、そう分かっていてなお一人で刃を持つ私の方だ。

魔王が杯を置いた。

「まだ、私を殺したいですか」

ハンターの部下が眉をひそめた。

「物騒だな」

「比喩です」

童顔の男は平然と返した。「この方は、昔から私のやり方を好かなかった」

私は言った。

「やり方、で済ませるな」

「では何と?」

「侵略だ」

「ええ」

男は頷いた。「そうですね。戦争より安く、長く、深く効く形の」

ピンカートンの社員の指が杯の縁で止まった。今の一言で、少なくとも一人は、この若い男がただの商人ではないと察したはずだ。それでも立たないのは、この場の空気をまだ測っているからだ。仕事をする人間の反応だった。

私は机の上に両手を置いた。揺れは出ていない。昔ならもっと早く斬っていた。今は違う。今は殺す前に帳尻が見える。見えてしまう。事務仕事をさせた連中を心底憎んだ時期もあったが、こういう時だけは恨みきれない。数字は刃を鈍らせる代わりに、間違った勢いを止める。

「お前が死ねば、多くの契約が飛ぶ」

「はい」

「人間側の商会も、運送も、現場も混乱する」

「はい」

「魔族も暴れる」

「ええ。今より過激な連中も動くでしょうね」

あまりにも素直で、逆に殴りたくなった。

「だったら何だ」

絞り出した声が、思ったより低く出た。

「だから生かせと言うのか」

「いいえ」

魔王は首を振った。

「あなたが今ここで殺せない理由を、私の口から説明しただけです」

ハンターの部下が、さすがに笑うのをやめた。

「おいおい、さっきから何の話をしてる」

私はそちらを見なかった。

「わざとか」

「半分は」

「半分は何だ」

「本当に飲みに来ただけです」

そう言って、魔王は少し笑った。「人間の酒場は、流通の匂いがしますから。どこが詰まり、どこが流れているか、城にいるより分かる」

私は短剣の位置をもう一度確かめた。今なら届く。届くが、届くことと片付くことは違う。そこを履き違えた瞬間、私はただの馬鹿になる。

「魔族を減らしているのは、お前の都合か」

「統治の都合です」

「同じだろ」

「少し違います。増やしすぎれば制御できない。制御できない集団は、私にも向きます」

男は指で自分の杯を軽く叩いた。「皆が私のために死ぬと思っているほど、私はロマンチストではない。敵意は散らした方がいい。人間社会に魔族が馴染み、契約が増え、利害が絡めば、私一人を斬って解決しようとする者は減る。実に安全です」

言い切られて、背筋が冷えた。

戦場で相手にしていた頃から厄介だとは思っていた。だが厄介の質が違っていた。強いのではない。自分が憎まれることまで工程に組み込んでいる。だから堂々と出歩ける。だから酒場に座れる。だから私の前でも笑っていられる。

「守りのために侵略してるってわけか」

「侵略のために守っている、とも言えます」

「ふざけるな」

「ふざけていません。あなたも似たようなものでしょう」

そこで初めて、私は顔を上げた。

男は私の喉元を見ていなかった。手元を見ていた。机の縁に置いた指先。そこに力が入りすぎて、木がわずかに鳴っている。

「今のあなたは一人で戦っている」

その言葉で、背中のどこかがきしんだ。

「二人ほど、まだあなたに協力している人間がいるそうですね。ですが、調べるだけ。現場には来ない。賢明です。あなたはそれでも一人で殺しに行く。実に非効率だ」

胸の奥で何かが弾けた。

椅子が鳴った。気づいた時には半分立ち上がっていた。ハンターの部下が身を引く。ピンカートンの社員の椅子がわずかに後ろへ動く。魔王だけが動かなかった。

「名前を出すな」

「出していません」

「分かってて言ってる」

「はい」

その一言で、ますます殺したくなった。

だがそれでも手は出ない。出した瞬間に、あの二人へ辿る線が増える。私の周囲にいる人間は少ない。少ないからこそ、一本でも余計な線は致命傷になる。

魔王は杯を持ち直した。

「安心してください。今夜は何もしません。あなたも、私も」

「信用できると思うか」

「思っていません。だからこうして、互いに信用しなくて済む場所を選んだ」

酒場だった。

周囲には酔客がいる。店主がいる。噂がある。ここで片方が先に刃を抜けば、もう片方も隠せない。安全ではない。だが、不意打ちには向かない。だからこそ成立する面会だった。

「何が目的だ」

「顔を見に来た」

「それだけで済むと思うな」

「もちろん済みません」

魔王は言った。「ただ、確認はしたかった。あなたが今も一人でやっているのか、まだ止まる理性が残っているのか、その二つを」

「止まったのは理性じゃない」

「知っています。計算です」

男はあっさり言った。「それでも十分だ」

ハンターの部下が、さすがに耐えきれず口を挟んだ。

「だからお前ら何なんだよ。昔の知り合いか?」

私は何も言わなかった。

魔王が先に答えた。

「ええ。少しばかり、長い付き合いです」

その言い方が気に入らなかった。長い付き合いなどではない。こいつは私から人生をごっそり奪った側で、私は奪われた側だ。戦場で斬れず、帰還も潰れ、借金だけが残り、今では貴族の屋敷でフリルを着せられている。長い付き合いではなく、長い損害だ。

「お前を今ここで刺せないのは」

私は座り直し、息を整えた。

「お前が正しいからじゃない」

「ええ」

「お前を殺した後の被害を、まだ片付けきれないからだ」

「ええ」

「勘違いするな。準備が済めば殺す」

「でしょうね」

魔王は否定しなかった。そこがむしろ不気味だった。自分が狙われていることを前提に行動している人間の返事だった。

「なら、もう一つだけ」

男は杯を傾け、ほんの少しだけ声を落とした。

「あなたが私を殺す日までに、どれだけの契約を剥がせるか。どれだけの魔族を、人間社会から切り離せるか。そこが勝負です」

「教えを乞うた覚えはない」

「助言ではありません。確認です」

男の目が初めて少しだけ冷えた。「今のまま私を刺せば、人間が先に死ぬ。あなたはそれが嫌だから止まった。なら、次は止まらないために動くしかない」

それは脅しではなかった。もっと質が悪い。正論だった。

私は何も返さなかった。

返せば、その場で認めることになる。ここまでの暗殺だけでは足りないと。魔族を削るだけではだめで、契約ごと剥がさなければ意味がないと。仲介役を潰し、人間側の依存先を代替し、暴発する連中の行き先まで用意しなければ、魔王一人の首を取る資格もないと。そんなことは、もう分かっている。分かっているから一人で動いている。分かっているから苦しい。

ピンカートンの社員が、ようやく口を開いた。

「確認だが」

視線は魔王へ向いている。

「あなたは、どこかの商会の人間ではないな」

「そう見えませんか」

「見えない」

「それは残念だ」

「残念がる顔じゃない」

「でしょうね」

二人の間に、刃物ではなく職業人同士の探り合いが走る。ハンターの部下だけが置いていかれていたが、置いていかれる方が普通だ。この卓に乗っている話は、獣や酔っ払いが直感で追える種類のものではない。

私は立ち上がった。

止める声はなかった。

魔王がこちらを見る。

「もう帰るんですか」

「お前を見たからだ」

「収穫は?」

「最悪だ」

それで十分だった。

椅子を戻す音がやけに大きく響いた。周囲の喧騒は変わらない。誰もこの卓の正体を知らない。酒場はいつも通り、安い酒と安い怒声で回っている。だが私にとっては違う。今まで抽象的だったものが、一気に顔を持った。魔王は遠い城にいる化け物ではなかった。人間の輪に自然に入り込み、部下でも社員でもない顔で酒を飲み、自分への敵意すら運用に組み込んでいる。そういう相手だった。

扉へ向かいながら、背中で声を聞いた。

「次は、準備をしてから来てください」

振り返らなかった。

「お前に言われるまでもない」

外へ出ると、夜気が肺に刺さった。酒場の熱で鈍っていた頭が、一息で冷える。

路地の暗がりに入ってから、ようやく手が震えているのに気づいた。遅い。さっきまで一度も震えなかったのに、終わってから来る。いつもそうだ。現場では止まり、終わってから身体が勝手に払う。

今夜、私は魔王を殺せた。

少なくとも、刃を届かせることはできた。

それでも殺さなかった。違う。殺せなかった。あの場にいたのが私一人だったからだ。強さの話ではない。戦闘なら、まだどうにでもなる。問題はその後だ。私は一人で、人間側の代替流通までは握れない。仲間二人は調査までは手伝う。だが、それ以上を背負わせるつもりはないし、背負わせたところでこの規模は支えきれない。

なら、やることは決まっている。

魔族を殺すだけでは足りない。契約を切る。人間側の窓口を洗う。ファシリテーターを炙る。代わりに回せる人間と仕組みを用意する。魔王を殺した瞬間に一緒に死ぬ人間の数を減らす。穏健派が一番厄介だという笑えない現実ごと、先に処理する。

酒場の中で、魔王はずっと普通の顔をしていた。あれが一番腹立たしい。特別に醜いわけでも、禍々しいわけでもない。少し童顔で、若く見えて、酒場の灯りに馴染む程度の顔。だからこそ人間社会へ溶ける。だからこそ魔族を馴染ませる仕組みが動く。だからこそ、あいつを殺すにはあいつ自身より先に、あいつの周囲に作られた普通を剥がさなければならない。

路地の奥で立ち止まり、喉元へ手をやった。首輪の感触が、服の下で冷えている。

殺意は消えていなかった。むしろ前より明確になった。相手が何をしているのか、自分が何を欠いているのか、全部見えたせいで輪郭が鋭くなった。

今は無理だ。

だが、無理だと分かったまま刺しに行くほど馬鹿でもない。

私は石壁に背を預け、目を閉じた。仲間二人の顔を思い出す。あいつらは来ない。調べるだけだ。それでいい。その代わり、持ってこさせる。契約書、倉庫記録、港の仲介名簿、街ごとの雇用台帳。魔王が散らした敵意と依存を、一つずつ拾って繋ぎ直す。

その上で殺す。

今夜の再会は、偶然では終わらない。

酒場で椅子に座っていたあの男は、次に会う時もたぶん同じ顔をしている。私がどれだけ人間側の穴を埋めようと、どれだけ魔族の基盤を剥がそうと、あの顔でこちらを見るだろう。止まるか、と。まだ計算するか、と。

私は目を開けた。

夜の街は変わらない。酔っ払いの声も、荷車の軋みも、遠くの見張りの足音も、そのままだ。けれど、もう前とは違う。この街のどこに刃を入れるべきか、少しだけ見えた。

魔王は遠くにいなかった。

もう、人間の席に座っている。

だったら殺す前に、まず引きずり下ろす。

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