黄泉を超えて
地下の机に置かれた小さな実は、見れば見るほど桃に似ていたが、見れば見るほど桃そのものではなかった。表面には薄い産毛がある。香りも甘い。果皮の色も、前の世界の記憶にある桃へ寄っている。けれど、形が少し硬い。実の底に妙な筋があり、果肉の張り方も違う。フェアリーの処理場で育ったせいなのか、そもそも別の果樹なのか、誰にも即断できなかった。女は実に触れようとして、解剖医に手首を止められた。解剖医は実を果物として見ていない。外界に存在しない植物であり、フェアリーの処理環境から持ち出された危険物として見ていた。
「素手で触るな。果皮に何が残っているか分からない」
「食べるわけじゃないです」
「食べなくても触れる。触れれば目や口に移る。フェアリーの処理場で育ったものだ。果物の顔をしていても、死体処理の一部かもしれない」
女は素直に手を引いた。青年は水桶を片づけてから、その実を遠巻きに見ていた。森で火の番をしていたせいで、まだ服に煙の匂いが残っている。少年は土の入った小袋を抱えていたが、解剖医に言われて机へ直接置かず、古い皿の上に乗せた。フリートはその一連の動きを見ながら、紙に「素手接触禁止」「土壌隔離」「枝水差し不可」「果実解体前確認」と書き足している。桃の種を取ってきたはずなのに、地下に戻った瞬間、果物ではなく検体になった。
メイドは椅子に座っていた。処刑場で痛めた肩と肋はまだ完全ではないが、フェアリーの森で大きく悪化はしていない。解剖医にとってはそれも監視対象で、少しでも身体を動かすと視線が飛んでくる。メイドはそれが鬱陶しかったが、薬を塗られるよりはましだと考え、今は動かなかった。
「種は取れるのか」
メイドが聞くと、女は実を見たまま頷きかけ、すぐに首を傾げた。
「取れます。でも、使えるかは割ってみないと分かりません。桃に近いなら、真ん中に硬い種があります。ただ、熟し方が分からないです。早すぎると中が未熟で、遅すぎるとフェアリーの環境に処理されているかもしれない。あと、これ一個だけだとかなり危ないです」
「一個では足りないか」
「足りないです。発芽するかも分からないし、発芽しても同じ性質になるか分からないし、一本だけ育っても実が取れる保証がないです。枝もありますけど、挿し木できるかは環境次第です。土も少し持ってきましたけど、これをそのまま使うとフェアリーの処理環境まで持ち込むかもしれません」
「面倒だな」
「果樹は面倒なんです」
女は、そこだけは強めに言った。昨日から何度も言っている。植物を地下の湿気避けに使うことと、桃の供給線を作ることは別だ。鬼毒は木刀だが、実際には木刀より果樹園が本体になる。新鮮な桃を一度一度刃に塗り込む必要がある以上、種一つで喜んでいる場合ではない。
解剖医は細い刃物を火で炙り、冷ましてから果実の表面に刃を当てた。切る前に、果皮をほんの少し削る。削った部分から甘い匂いが強く出た。同時に、別の匂いも出る。腐敗臭ではない。血でもない。湿った土と、古い油を薄くしたような匂いだった。解剖医はすぐに刃を止めた。
「やはり処理場の匂いが残っている」
フリートが紙から顔を上げる。
「果実自体が処理循環に組み込まれていた可能性があります。フェアリーは死体や血を土壌に戻す。果樹がその養分を受けているなら、果実にも残るでしょう」
青年が顔をしかめた。
「それ、鬼毒に使って大丈夫なのか?」
「鬼相手なら効き目が増す可能性すらありますが、人間側の扱いは慎重にすべきです」
「嫌な言い方だな」
「嫌なものを扱っていますので」
フリートは平然と返した。メイドは少しだけ笑いかけたが、肋が痛むのでやめた。
解剖医は果実を割った。柔らかい果肉が開き、中から硬い核が出る。形は桃に近い。だが、表面の筋が少し多く、色も濃い。女は身を乗り出し、すぐに解剖医に睨まれて下がった。少年は遠目から核を見て、指先を机の端に置いたまま動かさない。
「生きてます」
少年が言った。
「種がか」
「たぶん。中に動きがある感じがします。すぐ発芽するわけじゃないですけど、死んではいないと思います」
「信用していいか」
メイドが聞くと、少年は少し困った顔をした。
「断言はできません。僕は農家でも植物学者でもないです。でも、地下の蔦や苔よりずっと強いです。眠ってる感じがします」
女も頷いた。
「乾かしすぎると駄目かもしれないです。でも、湿らせすぎると腐るか、フェアリーの土壌が動くかもしれない。まず隔離して、種を割らずに保存。果肉は少量だけ残して、残りは処理。枝は水に挿す前に表面を確認。土はそのまま使わず、少しずつ混ぜて試験。いきなり植えるのは危ないです」
フリートの手が止まらない。
「種保存、果肉一部保存、残果肉処理、枝表面確認、土壌希釈試験、隔離栽培。もう農園です」
「農園にするんだろ」
メイドが言うと、フリートは嫌そうに目を細めた。
「言い方を変えればそうです。ただし、外から見れば荒廃した墓所のまま、内側では桃候補を育て、将来は鬼毒の木材と果実を供給する。つまり、偽装墓所兼勇者避難所兼悪魔族運用区画兼危険植物試験場になります」
「増えたな」
「増やしているのは誰ですか」
「鬼だろ」
「責任転嫁が雑です」
探偵が戻ったのは、その会話の途中だった。外套には灰がついている。フェアリーの森へ再び入ったわけではない。外縁の後始末と、火の痕跡の流れを見てきたのだろう。彼は地下へ入るなり、机の上の割られた果実を一瞥し、すぐに報告へ入った。
「流れた。フェアリーの一部は獣系魔族の住処側へ移動している。森の外縁に残った処理動線は弱まっている。中心部にはまだいるだろうが、少なくとも前のような密度ではない。獣系魔族側ではすでに騒ぎが起きている」
青年が顔を上げた。
「騒ぎって」
「消えた個体が出た。獣の死体も残っていない。狩り場の境界に、フェアリーの処理跡が出ている。獣系魔族はまだ原因を把握していない。火元は自分たちの不始末に見えるよう残してある。燃え方も、外縁の乾いた油に引火したように寄せた」
フリートはすぐに別紙を引いた。
「魔王軍側の管理負担は」
「増える。獣系魔族は数が多いが管理が荒い。フェアリーを受け入れる手順を持っていない。最初は食料が消えた程度に見るだろうが、そのうち仲間が処理される。原因を探す。フェアリーを殺そうとすれば被害が出る。残せば供物が必要になる。魔王軍が調整に入るまで時間がかかる」
「成功です」
フリートが短く言った。
「完全ではない。フェアリーを全部移したわけではない」
探偵は補足した。
「全部移す必要はありません。森が薄くなり、獣系魔族側の管理負担が増え、こちらが桃候補を確保できた。それで十分です」
メイドは机の上の種を見た。小さな硬い核。魔王軍の後方管理を荒らし、フェアリーの森を煙で押し、桃かもしれない果実から取り出したもの。これが発芽しなければ、全部やり直しだ。やり直すにしても、フェアリーの森は一度動かした。次は前より警戒される可能性がある。だから、この一個を雑に扱うわけにはいかない。
「もう一度取りに行く必要はあるか」
メイドが聞くと、女はすぐに答えなかった。机の上の種、枝、果肉、土を順に見てから、かなり慎重に言った。
「必要になる可能性は高いです。でも、今すぐではないです。まずこれが生きるか見ないと。もし発芽しないなら、もっと成熟した実が必要です。発芽しても育ちが悪いなら、土や枝が必要です。枝が根を出すなら、それを優先できます。種から育てるより早いので。果肉は鬼毒の塗布に使えるか試せますが、今は量が少なすぎます」
「鬼毒そのものはまだ作れない」
「作れません。木がありません。木刀にする材がない。枝一本では無理です。仮にこの枝が生きても、木刀になる太さまでは時間がかかります」
青年がため息をついた。
「種取ってきても、まだ木ですらないんだな」
「そうです」
女は頷いた。
「でも、種がないと木にもなりません」
その言葉で、地下が少しだけ静かになった。何も進んでいないようで、進んではいる。鬼毒はまだ作れない。桃の供給線もない。果樹園もない。だが、桃候補は机の上にある。種はある。枝もある。土も少しある。可能性だけは、地下へ持ち帰った。
解剖医は果肉を小さく分け、三つの皿に置いた。
「一つは保存。一つは薬品反応を見る。一つは処分する。食べるな。匂いを嗅ぎすぎるな。皮膚に触れるな」
青年が少し顔を上げた。
「誰が食べるんだよ」
「そういうことを言う人間が食べる」
青年は黙った。女が少し笑いかけたが、すぐに真面目な顔へ戻った。彼女にとって、これは果物であり、危険物であり、将来の武器素材でもある。扱いが難しい。
少年は枝を見ていた。持ち帰った枝は短い。葉が数枚ついている。切り口はまだ生きているように見えるが、フェアリーの土壌から離されて弱っている可能性もある。少年は指を近づけ、触れずに止めた。
「これ、普通の水だと駄目かもしれません」
「なぜ」
メイドが聞く。
「フェアリーの森の土と繋がっていたので、いきなりここの水だけにすると落ちるかもしれない。でも、あっちの土をそのまま使うと危ない。少しだけ混ぜて、だんだん減らす感じがいいと思います」
「慣らすのか」
「はい。植物もいきなり環境が変わると駄目です。人間より文句は言わないけど、枯れます」
フリートが「環境順化」と書いた。
「また項目が増えた」
「必要です」
少年は静かに言った。フリートは文句を言いかけ、やめた。必要な項目には文句を言っても消えない。彼女はもうそれを理解している。
その日の午後から、地下の一角に隔離栽培区画が作られ始めた。栽培と言っても、まだ畑ではない。壊れた箱を二重にし、内側に布を敷き、フェアリーの土をほんの少しだけ分け、廃村の畑から持ってきた土と混ぜる。水は解剖医が確認したものを使う。通気穴に近すぎると匂いが漏れる。奥すぎると空気が淀む。フリートは区画の位置で三度書き直し、最終的に、子供用予定部屋からも悪魔族区画からも離れた壁際を選んだ。もし異常が出ても、隔離しやすい位置だった。
女は種をすぐに埋めなかった。核のまま保存し、発芽させるタイミングを慎重に見ると言った。枝は小さな器に挿し、土ではなく湿らせた布と少量の土で切り口を包む。果肉は保存用に少し、試験用に少し、残りは解剖医の監視下で処分された。青年はその間ずっと水を運び、箱を支え、棚板を切り直していた。文句は言ったが、手は動かした。
「俺、勇者として呼ばれて、最初の仕事が水汲みと箱作りなんだけど」
「勇者だから水桶が壊れずに運べている」
解剖医が言う。
「そういう褒め方ある?」
「褒めていない。事実だ」
青年は納得していない顔で、しかしもう一つ水桶を持った。力が強いだけの人間は、外にいれば魔族の血を疑われる。ここでは水桶を二つ持てる。それだけでも、居場所の使い方としてはましだった。
夕方、探偵がもう一度外へ出た。獣系魔族側の騒ぎがどこまで広がるかを見るためだ。メイドは止めなかった。フェアリーの移動が中途半端なら、魔王軍は森に手を入れるかもしれない。そうなれば桃候補の場所も危うい。敵に押し付けた負担が、ちゃんと敵側で燃えているかを確認する必要がある。
フリートは紙の束をまとめながら言った。
「今回の成果を整理します。桃候補の果実一つ、枝一本、土少量。フェアリーの外縁火入れ成功。獣系魔族の住処への一部移動確認。種は生存可能性あり。ただし鬼毒は未完成。木刀化不可。果実供給不可。栽培は隔離試験から開始」
「長い」
メイドが言った。
「短くすると、まだ何もできません、になります」
「最悪だな」
「ですが、何もない状態ではありません」
フリートは珍しく、そこで少しだけ言葉を柔らかくした。
「昨日までは、桃は存在しない前提でした。今は、桃候補が地下にあります」
女が隔離箱の横で頷いた。
「育つかは分かりません。でも、育てるものはあります」
少年も小さく続けた。
「枝も、まだ死んでません」
青年が箱を見て、少し照れくさそうに言った。
「じゃあ、木になるまで水汲みか」
「水をやりすぎると死にます」
女が即座に言った。
「じゃあ何すればいいんだよ」
「言われた量だけ運んで」
「はい」
地下に少しだけ笑いが漏れた。王女は奥でそれを聞いていたが、混ざらなかった。断頭剣は布の向こうで沈黙している。悪魔族区画にはフリートの紙が増え、通気穴には蔦が絡み、隔離栽培区画には桃候補の種と枝が置かれた。未完成のものばかりだった。勇者も未完成。拠点も未完成。鬼毒も未完成。けれど、未完成のものが増えるたびに、逃げ場は少しずつただの穴ではなくなっていく。
夜になり、探偵が戻った。顔には薄い疲れと、少しだけ満足に近い影があった。
「獣系魔族の住処で、もう揉めている。フェアリーが入った場所に近づいた個体が二つ消えた。管理役が原因を探している。火元は自分たちの狩り場の不始末だと思われている。しばらくは、こっちへ戻らない」
フリートはその報告を聞き、紙に「敵側負担化、成功」と書いた。
メイドは隔離箱の中の種を見た。小さな硬い核は、まだ何もしていない。ただそこにあるだけだ。だが、フェアリーの森を動かし、魔王軍の管理を歪ませ、勇者三人に役割を与え、鬼毒へ繋がる最初の一つとして、確かに地下へ残った。
鬼を殺す武器は、まだ木ですらない。
だが、その種だけは、敵に押し付けた火の後から持ち帰られ、今はこの荒れた墓所の地下で眠っている。
それが芽を出すかどうかは、次の問題だった。




