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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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隔離栽培区画と呼ぶには、そこはまだ壊れた箱を三つ並べただけの場所だった。廃村から持ち帰った穀物箱の底を抜き、内側に古い布を敷き、解剖医が確認した土と、フェアリーの森から持ち帰った黒い土を、女と少年が指示した分量だけ混ぜる。多すぎれば処理場の性質まで持ち込む。少なすぎれば桃候補の種と枝が環境変化に耐えられない。ちょうどいい量は誰にも分からない。だから最初から正解を作るのではなく、死んでも全体へ広がらない小さな失敗場所を作るしかなかった。フリートはその箱の前に紙を置き、「隔離一」「隔離二」「隔離三」と書いた。名前としては味気ないが、情緒を入れると管理が濁るという理由で押し通した。

「まず種を入れる箱、枝を慣らす箱、土だけを見る箱に分けます」

女は、フェアリーの森から持ち帰った土を指先で見ながら言った。素手では触れない。解剖医に渡された薄い皮を指に巻いている。扱いは果物の土ではなく、病原を含むかもしれない検体に近い。それでも女の目は、恐怖よりも集中が勝っていた。逃げてきたばかりの時の、湿気に文句を言っていた顔とは違う。自分の分かるものが目の前にあり、それをどうにかする責任がある顔だった。

「種はすぐ埋めないのか」

メイドが聞くと、女は首を横に振った。

「いきなり埋めるのは怖いです。核が硬いので、前の世界の桃に近いなら、休眠みたいな状態があるかもしれません。無理に割ると死ぬかもしれないし、そのまま乾かすと駄目かもしれない。まず湿度を保って、外側がどう変わるか見ます。枝は先に慣らします。枝が根を出せるなら、種より早い可能性があります」

「枝から木になるのか」

青年が言った。彼は水桶を持ったまま、少しだけ期待した顔をしている。水を運ぶ以外に何かできると思っているのかもしれない。女は少し困ったように笑った。

「なる場合もあります。でも、桃がそう簡単かは分からないです。前の世界でも果樹は接ぎ木が多かったはずですし、これは桃そのものかも分からないので。だから、枝を生かせれば運がいい、種が生きれば最低限、土が危険じゃなければ次、くらいです」

「何も確定してないな」

「農業ってだいたいそうです」

その言い方に、メイドは少しだけ納得した。戦闘なら、斬れば分かる。通らなければ通らない。反動があればある。腕を落とせば剣が離れる。フェアリーの森の火入れですら、煙が流れれば動線が変わる。だが、種はすぐ答えない。埋めた瞬間に勝ち負けが出るわけではない。失敗も遅れて出る。成功も遅れて出る。そういう遅さが、メイドにはあまり向いていなかった。

少年は、枝の切り口をじっと見ていた。薄い布で包まれた枝は、まだ青みを失っていない。持ち帰った直後より少しだけ葉が垂れているが、完全に死んだ様子ではなかった。少年は直接触れず、指を近づけて、何かを確かめるように目を細めた。

「こっちは、まだ嫌がってます」

「嫌がってる?」

青年が聞き返した。

「うまく言えないけど、土から離されて、水も違って、空気も違うから、固まってます。いきなり水に挿すと落ちると思います。切り口を湿らせて、フェアリーの土を少しだけ近くに置いて、ここの土と混ぜた匂いに慣らした方がいいです」

「植物って匂いで慣れるのか」

「分かりません。でも、根がない状態だと、たぶん切り口から環境を見てます」

解剖医が、その言い方を嫌がらずに聞いていた。医学の言葉ではない。だが、解剖医は現象として使えるかどうかを見ている。少年の言葉が正しいかどうかではなく、その通りにした時に枝が死なないなら、それでいいという顔だった。

「切り口が腐ったら、すぐ分けろ。箱ごと捨てる」

「捨てるんですか」

少年が少しだけ顔を上げた。

「全体に回る前に捨てる。惜しんで全部腐らせるよりましだ」

「……はい」

少年は小さく頷いた。納得はしていない。だが、必要なのは分かったようだった。植物を見る者にとって、枝を捨てるのは嫌なのだろう。メイドはそれを見て、戦場で腕を切る判断と似ていると思った。全部を生かそうとして全部を失うなら、一部を切るしかない。相手が人でも、枝でも、そこは変わらない。

フリートは、箱の配置を見ながら記録表を作っていた。日時、土の割合、水の量、葉の状態、匂い、変色、虫、腐敗、芽、根、異常反応。彼女はどんどん欄を増やし、増やした分だけ顔を険しくした。

「記録担当が足りません」

「自分でやれ」

メイドが言うと、フリートは睨んだ。

「私は広告、勇者受け入れ、悪魔族区画、記憶処理前提、断頭剣保管、王女の観察、フェアリー移動後の外部影響、そして今は桃候補の栽培記録を持っています。これ以上、私に紙を渡すと、いずれ紙で寝ることになります」

「寝床が増えるな」

「燃やしますよ」

「紙をか」

「メイドの指示書をです」

青年が小さく笑い、女も少しだけ口元を緩めた。フリートは本気で不満そうだったが、手は止めない。彼女が怒りながらも書くから、この地下はどうにか順番を持ち始めている。

探偵は、隔離箱から少し離れた場所で外部情報を整理していた。獣系魔族の住処へ流れたフェアリーの報告は、まだ続いている。小型の魔族が二体消え、獣系の一部が森へ逆侵入しようとして失敗した。魔王軍の管理役が原因を確認するために動いているが、火元は獣系魔族の狩り場の不始末に見えるよう処理してある。すぐにこちらへ線が来る可能性は低い。ただし、フェアリーの森が完全に空いたわけではない。中心部にはまだ残りがいる。桃候補の木も、こちらが取った分を失ったまま再調整されるだろう。次に行けば、同じ手順は使えないかもしれない。

「敵側の騒ぎはしばらく続く」

探偵は言った。

「獣系魔族は、フェアリーを敵と見るより、最初は自分たちの餌場が荒れたと見る。原因を見誤る。その間に管理が乱れる。魔王軍が正式に調整する頃には、何体か消えているだろう」

「フェアリーは戻るか」

メイドが聞く。

「一部は戻る。全部は戻らない。居心地が悪くなった外縁より、餌のある住処に残る個体が出る。問題は、魔王軍がフェアリーを元の森に戻そうとするか、獣系魔族側で新しく管理するかだ」

「どちらでも負担か」

「どちらでも負担だ」

それは成功だった。桃候補を取るために森を動かし、その結果として敵側の管理コストを増やす。単なる素材回収ではない。こちらが使わない問題を敵に押しつける。フェアリーは存在するだけで害になるから、生かして流す方が得だという判断は、今のところ成立していた。

一方で、地下の方には別の問題が出ていた。隔離栽培区画を作るには場所がいる。場所を取れば、寝床が減る。寝床を移せば、勇者三人の生活導線がずれる。生活導線がずれると、青年が夜に水桶へつまずく。水桶へつまずくと、解剖医が怒る。解剖医が怒ると、フリートが記録に「通路再設計」と書き足す。すべてが繋がっていた。地下は狭い。そこへ断頭剣、王女、勇者三人、悪魔族、栽培箱が入り、まだ今後は子供の転生者が来る可能性もある。

「子供用区画は削るな」

解剖医が先に言った。

フリートが頷く。

「削りません。むしろ桃候補は子供用区画から離します。匂い、土壌、未知の反応があるので。悪魔族区画からも離します。私の食性と干渉した場合が面倒です」

青年が顔を上げた。

「食性って、フリートさん、果物食べるの?」

「食べません。だから干渉した時に予測できないと言っています」

「なるほど」

「納得しないでください。深掘りしないでください」

女が少し笑った。地下に笑いが出るようになったのは、新人三人が来てからだった。重い戦いの後、王女の沈黙と断頭剣の冷たさだけが残っていた空間に、少しずつ生活の音が増えている。だが、その生活音は油断ではない。水を運ぶ音、板を削る音、紙に記録する音、枝の切り口を確認する音。どれも、これから何かをするための準備だった。

メイドは隔離箱の前へ行った。解剖医が「近づきすぎるな」と言ったが、触れはしない。箱の中には、フェアリーの土を薄めた試験土があり、枝が湿らせた布に包まれている。種はまだ埋められていない。小さな硬い核が、布の上で眠っている。これが芽を出すかどうかは分からない。芽を出したとして、木になるか分からない。木になっても、鬼毒に使える材になるのはずっと先だ。実がつくかも分からない。実がついても、毎回刃に塗り込むほど安定供給できるかは別の話だ。

「遅いな」

メイドが言うと、女が答えた。

「遅いです。だから農業は戦闘より困ります」

「戦闘は困らないのか」

「困りますけど、結果は早いです。植物は結果が遅いです。失敗も遅いです。だから、失敗した時には時間ごと失います」

メイドはその言葉を少し考えた。時間ごと失う。確かに、それは痛い。戦闘で傷を負えば、傷が残る。だが、種が死ねば、待った時間ごと消える。鬼毒のために必要なのは、力ではなく、失敗しても次を仕込む余裕だった。メイドはそういう余裕を嫌う。早く動き、早く奪い、早く片づけたい。けれど、桃はそうさせてくれない。

少年が種を見ながら言った。

「今日、埋めるのは一つだけにしたいです」

「一つしかないだろ」

青年が言う。

「核を割って中を分けるかどうかの話。割らないで一つとして扱うなら、まだ埋めません。でも、もし中の種が複数ある構造だったら、分けられるかもしれない。けど、割ると死ぬかもしれないので、今は割らない方がいいと思います」

「つまり」

メイドが促すと、少年は少し緊張しながら答えた。

「今日は埋めない。湿度を保って、核の表面の変化を見る。枝を先に慣らす。土だけの箱で異常が出ないか確認する。三日見て、腐敗や変色がなければ、核の扱いを決めたいです」

フリートがすぐに「三日観察」と書いた。メイドは少しだけ眉を寄せた。

「三日か」

「短い方です」

女が言った。

「本当はもっと見たいです。でも、乾きすぎても困るので、三日で最初の判断。そこで駄目なら次を取りに行く必要が出ます」

「またフェアリーの森か」

青年が嫌そうに言った。

「次は同じ方法で取れません」

探偵が答えた。

「森は警戒する。魔王軍も少しは見る。獣系魔族側の騒ぎも広がる。行くなら、今回の種と枝が駄目だった時だ」

「失敗した時の次を先に決める」

フリートが言った。

「嫌な話ですが、必要です。種が駄目なら、再侵入ではなく、フェアリー移動後の森の変化を見て、中心部から離れた実を狙う。枝が駄目なら、次は苗を優先する。土が危険なら、フェアリー土は使わず、廃村土と魔族領土の混合で試す。果肉が使えそうなら、鬼毒の塗布試験用に少量保存。ただし、まだ木刀がありません」

「木がないからな」

メイドが言う。

「はい。鬼毒はまだ武器ではありません。計画です」

計画。言葉としては弱い。だが、断頭剣も最初は情報だった。情報から場所を出し、戦い、奪い、止めた。鬼毒はそこより遅い。場所を見つけ、森を焼き、種を取り、育て、木を作り、果実を取り、塗り込む。遠い。だが、遠いからやらないという選択肢はない。魔王の不死性を削る武器群は、どれもすぐには届かない。鬼毒はその中でも、武器より供給線が本体になるものだった。

夜になって、隔離箱の周りに仮の柵が置かれた。青年が作ったものだ。見た目は悪いが、うっかり蹴飛ばさない程度には役に立つ。女は枝の湿り気を確認し、少年は通気穴からの風が強すぎないかを見た。解剖医は土の匂いを確認し、異常があればすぐ箱ごと隔離できるよう布と蓋を近くに置いた。フリートは記録表を壁に貼った。誰がいつ水をやったか、誰が確認したか、どんな変化があったかを書く欄がある。青年がそれを見て、少し嫌そうな顔をした。

「水の量まで記録するのか」

「やりすぎると死ぬと言われたでしょう」

フリートが答える。

「俺がやりすぎる前提なのやめてくれない?」

「前提ではなく、危険予測です」

「同じじゃない?」

「違います」

地下は少しだけ騒がしかった。王女は奥からその様子を見ていた。彼女はまだ積極的に何かへ関わってはいない。デュラハンの後悔を抱えたまま、地下の生活音を聞いている。メイドはその視線に気づいたが、声はかけなかった。立ち上がるかどうかは王女の問題だ。今、彼女に渡す言葉はもう置いた。次に動くかどうかは、彼女自身が決めるしかない。

探偵が外から戻った時、地下は栽培記録の一日目を終えようとしていた。

「獣系魔族側、さらに二つ消えた。魔王軍の管理役が来た。フェアリーを戻すか、そこで管理するか揉めるだろう。こちらへの線はまだない」

「よし」

メイドは短く言った。

フリートが紙へ「敵側負担継続」と書く。解剖医が枝の切り口を確認する。女が水量を調整する。少年が風を弱めるため、通気穴の蔦を少しだけ動かす。青年が水桶を所定の位置へ戻す。小さな作業が、ばらばらに進む。どれも派手ではない。どれも一つでは意味が薄い。けれど、全部が重なると、地下はただの避難所から、何かを育てる場所へ変わり始めていた。

メイドは最後に、記録表の一行目を見た。

桃候補、隔離一日目。

枝、生存。

種、未処理。

土、異常なし。

鬼毒、未成立。

「未成立、か」

メイドが言うと、フリートは振り返らずに答えた。

「成立していないものを成立したと書くと、後で死にます」

「縁起が悪い」

「現実です」

メイドは反論しなかった。未成立でいい。まだ武器ではない。まだ木でもない。まだ芽も出ていない。ただの種と枝と土だ。だが、それが地下に置かれ、記録され、守られ、育てられ始めた。

鬼を殺すための武器は、まだ何者でもない。

けれど、逃げ場の地下に、初めて未来の武器になるかもしれないものが置かれた。

今はそれで十分だった。

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