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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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28/30

燃焼

火入れの準備は、戦闘の準備よりも面倒だった。敵を斬るなら、相手と自分の位置、武器、逃げ道、死なないための距離を見ればいい。森を燃やす場合は、相手の位置だけでは足りない。風、湿り気、枯葉の量、煙の抜け方、火の走る速度、根が焼ける深さ、逃げる先、燃え残す場所、そして燃えた後に誰の仕業に見えるかまで決めなければならない。フリートは地下の机に紙を四枚並べ、火入れ、煙、退路、桃候補地を別々に書き分けた。紙が足りないので、探偵が古物商から買った安い帳簿を切って使っている。女と少年は、前回持ち帰った土と果皮の欠片を見ながら、燃やしていい場所と絶対に焼いてはいけない場所を言い合っていた。青年は不満そうに水桶を運んでいる。行けないと言われた前回よりはましだが、今回も主役ではないことに納得していない顔だった。

「今回、青年は火を運ばないでください」

フリートが言った。

「なんでだよ」

「転ぶからです」

「またそれか」

「火を持って転ぶと、前回より被害が大きいです。水桶なら転んでも濡れるだけで済みます」

青年は口を尖らせたが、解剖医が横から「水桶でも転ぶな」と言うと黙った。彼は力がある。棚を動かし、水を運び、濡れた布をまとめて担ぐには向いている。だが、足元を確認しながら火種を置く仕事には向かない。本人も薄々分かっているらしく、それ以上は反論しなかった。

探偵は火元の偽装を担当した。獣系魔族の狩り場に近い外縁へ、乾いた油を含ませた布と、火打ち石の破片、獣の脂を少し残す。火が出た後に調べられたとしても、獣系魔族が処理を誤ったように見える位置を選ぶ。わざとらしく燃え広がると疑われる。自然すぎると方向を制御できない。だから、火は三点から入れる。二点は小さく、煙を作る。残り一点だけを強くし、フェアリーが嫌がる方向から押す。逃げる先は、獣系魔族の住処側へ開ける。燃やすのではなく、居心地を悪くして、動かす。殺し切るつもりはない。存在するだけで害になるなら、敵に抱えさせた方が得だった。

「中心部は焼くな」

メイドは同じことを三度言った。

「分かっています」

フリートが三度目で少し苛立った声を出した。

「中心部は焼きません。外縁と下草だけです。煙で押します。熱で追います。根を殺さない。果樹のある可能性がある場所は触らない。すでに五回書いています」

「七回言え」

「嫌です」

女は紙の端に、小さな丸をいくつも書いていた。火を入れていい乾いた下草、煙が溜まりやすい窪地、風で火が走りすぎる斜面、水気の多い苔、根を焼くと中心へ影響が出る場所。少年はその横で、前回の入口調査で見た植物の向きを思い出しながら、見えない根の線を引いている。二人とも戦闘では役に立たない。けれど、この火入れでは二人がいなければ何も始まらなかった。森を燃やすという一言の中には、燃やしてはいけないものの方が多い。

出発は昼前にした。夜に火を入れる方が目立たないように見えるが、煙の動きと風の向きが読みにくい。夕方に近づくと、森の湿気が変わる。フェアリーの処理動線がどう反応するかも分からない。だから、風が安定し始めた昼前に外縁へ入り、火入れそのものは午後の早い時間に行う。撤退は日が傾く前。夜まで残れば、森の中でこちらが素材になる。

フェアリーの森は、前回と同じように静かだった。静かすぎる。虫の音がほとんどなく、枯葉を踏んでも腐敗臭が立たない。森の入口に立っただけで、足が自然に歩きやすい方へ向きそうになる。苔は柔らかく、枝は人が通れる高さだけ空き、奥から甘い匂いが細く流れてくる。女が一度だけ鼻を押さえた。少年は地面を見たまま、探偵の印から半歩もずれないように歩いている。青年は水桶を背負い、露骨に緊張していた。いつもの軽口が少ない。転ぶなと言われたせいだけではない。森そのものが、喋る気を削いでいる。

解剖医が地面を見て言った。

「昨日より死体がない」

「死体が増える日があるんですか」

青年が小声で聞いた。

「普通の森なら、何かしらある。羽、骨、虫、食い残し。ここには処理後のものしかない。処理が早い」

メイドは剣ではなく、短い鉈と濡れた布を持っていた。フェアリーを斬るためではない。絡む枝を切るため、火の走りを止めるため、自分や新人を引き戻すための道具だ。正面戦闘はしない。フェアリーを倒すために来たのではない。森を動かすために来た。

最初の火点は、獣系魔族の狩り場に近い外縁だった。探偵がしゃがみ、乾いた草の下へ油を含ませた布を差し込む。火はまだつけない。次に、少し離れた窪地へ煙用の湿った葉を積む。これは燃え広がらせるためではなく、白い煙を出すためのものだ。三点目は、風の通る斜面の下。ここだけは火が少し走る。ただし、その先には青年が運んだ水桶と濡れた布を置き、火が中心部へ伸びる前に止める。

「ここから先、絶対に乾いた枝を足さないでください」

女が探偵に言った。

「足さない」

「火が弱く見えても足さないでください。強くすると根に入ります。煙が出ればいいです。燃やすんじゃなくて、嫌がらせです」

「敵への嫌がらせなら得意だ」

「植物への嫌がらせは加減してください」

探偵は少しだけ笑ったが、手元は慎重だった。彼は人間相手の隠蔽や事故工作に慣れている。だが、植物の根を残しながら森を動かす仕事は別だった。女の指示を聞き、火種を小さく置く。少年は風の向きを見て、低い枝を少しだけずらした。枝を折らない。折れば森が反応するかもしれない。指先で葉の向きを変えるだけだ。そんなことで風が変わるのかと思ったが、実際に煙の抜ける道が少しだけ変わった。

火が入った。

最初は小さかった。乾いた草の下で赤い線が走り、すぐに煙が上がる。湿った葉に火が移ると、白い煙が低く広がった。森は静かなままだった。何も出てこない。小さな羽音もない。悲鳴もない。だが、苔の色が変わった。踏ませるために柔らかく広がっていた苔が、煙を避けるように縮む。歩きやすかった隙間が、急に歩きにくくなる。低い枝が下がり、戻る時に絡むはずだった向きから、別の方向へ逃げるように伸びた。

「動いてる」

少年が言った。

「森が?」

青年が水桶を握りしめる。

「森というか、道が。奥へ誘う道が消えてます。別の方へ流れてる」

フリートがいれば、処理動線の変化、と書いただろう。今は紙に書く余裕はない。メイドは煙の向きを見た。狙い通り、中心部にはまだ入っていない。外縁で煙が広がり、フェアリーが使っていた歩きやすい道を潰している。森は口を閉じたのではない。口の向きを変えられている。

二つ目の火点に火が入ると、森の奥で初めて音がした。羽音ではない。葉が一斉に擦れるような、乾いた囁きに近い音だった。見えない小さなものが動いているのか、植物そのものが道を変えているのか、区別がつかない。女が半歩下がる。メイドはその肩を掴んで、自分の後ろへ引いた。

「前に出るな」

「見えました」

「何が」

「小さいの。枝の隙間に。たぶん、こっちを見てます」

青年が顔を上げかけた。

「見るな」

解剖医が低く言った。

「目で追うな。奥へ寄る」

青年は慌てて視線を落とした。フェアリーは姿を見せても、それ自体が誘導になる。小さく、数が少なく、危険に見えない。人は見ようとする。見ようとして一歩入る。その一歩で苔に乗り、匂いを吸い、枝に戻りを塞がれる。可愛いかどうかを判断する前に、動線へ乗せられる。

三点目の火が強くなった。探偵が短く合図する。火は斜面の下草を走り、赤い線が横へ伸びる。中心には向かっていない。だが、風が少し変わった。煙が予定より内側へ入りかける。少年がすぐに気づいた。

「水、少し。全部じゃなくて、右だけ」

青年が水桶を下ろし、言われた通り右側の下草へ水を撒いた。勢いよく全部かけようとしたので、女が「少し!」と叫ぶ。青年は慌てて止めた。水が入りすぎると煙が止まる。少なすぎると火が走る。青年の額に汗が浮いた。彼は戦っているわけではないが、間違えれば桃の可能性がある中心部を焼く。責任は重かった。

「できてる。そのまま」

少年が言うと、青年は息を吐いた。

煙は内側へ入りすぎず、外縁をなぞるように流れた。すると、森の奥の音が大きくなった。葉がざわめき、低い枝が一斉に別の方向へ傾く。甘い匂いが薄れる。代わりに、酸っぱいような、湿った土をひっくり返したような匂いが出た。解剖医が顔をしかめる。

「処理場が反応している。腐敗前のものを動かしている匂いだ」

「見えるか」

メイドが聞く。

「見えない方がいい」

その直後、外縁の奥から小さな白いものがいくつも飛び出した。羽のようにも、花びらのようにも見える。人の手のひらより小さい影が、煙を避けるように上下し、すぐに森の別の奥へ消える。青年が息を呑んだ。女は見ないように目を細め、少年は地面だけを見ている。フェアリーの姿は小さい。だが、その周りの森の動きの方がずっと大きい。個体が危険なのではない。コロニー全体が処理装置として動いている。

「移動方向、獣系魔族側に寄ってます」

探偵が言った。外縁の向こうで、草の揺れが一方向へ流れている。探偵が事前に作った火元の痕跡と、煙の抜け道が効いている。フェアリーは燃えていない中心部から、居心地の悪くなった外縁を避け、餌と住処のある方向へ流れ始めていた。殺していない。追っていない。居場所を奪っている。生きたまま、敵側の管理へ押し込む。

「中心部へ入る」

メイドが言った。

「まだ早いです」

女が即答した。

「完全に動き切ってません。今入ると、残ってるのに当たります」

「どれくらい」

「煙が落ちる前。でも、葉の音が弱くなってから。今はまだ道が動いてます」

待つ時間が長く感じた。火は制御している。だが、制御している火ほど気が抜けない。青年は水桶を握り、探偵は火元を見張り、解剖医は女と少年の足元を見ている。メイドは森の奥を見すぎないようにしながら、音だけを拾った。葉の擦れる音が少しずつ遠のく。甘い匂いが消え、煙の匂いと湿った土の匂いだけになる。小さな白い影はもう見えない。だが、完全に消えたとは限らない。

「今です」

少年が言った。

メイドは先頭に立った。青年は外縁に残る。火の番と水桶。探偵は後ろから印を残し、解剖医は女と少年の両方を視界に入れる。女は植物を見て、少年は根を見る。目的は奥で戦うことではない。果樹を確認すること。桃なら、次に種と果実と枝を取る。今日取り切れるなら取るが、欲張らない。フェアリーを追い払った直後の森は、空っぽではなく、処理装置が止まった直後の場所だ。油断すれば、残った機能に巻かれる。

森の中心部は、入口よりもさらに静かだった。火は入っていない。下草は濡れ、根は太く、地面は柔らかいのに腐敗臭がない。ところどころに、供物だったものの痕跡があった。骨ではなく、骨があった後の白い粉。肉ではなく、肉が分解された後の黒い土。血ではなく、血が吸われた後の鉄臭い染み。解剖医は一つずつ見たが、触らなかった。

「すごく効率がいい」

解剖医が言った。

「褒めているのか」

メイドが聞く。

「事実だ。死体処理としては優秀すぎる。だから余計に近づきたくない」

中心に近づくほど、植物の種類が変わった。外側の蔦や苔とは違う。葉が厚く、実をつける枝がある。見たことのない果樹が、処理場の中心に数本立っていた。花はない。実は少ない。だが、そのうち一本だけ、女と少年の足を止める木があった。

「これ……」

女が近づきかけ、メイドに肩を掴まれた。

「足元を見ろ」

女ははっとして下を見る。根元の苔が柔らかすぎた。踏めば沈む。沈んだ先に何があるか分からない。女は深呼吸し、少し離れた位置から木を見た。少年はしゃがまず、立ったまま枝の伸び方を見ている。

「桃に近いです」

少年が言った。

「近い、か」

「葉が似ています。完全に同じかは分かりません。実も……あれ、桃っぽいです。でも、前の世界の桃より小さい。表面も少し違う。フェアリーの環境で変わっているのか、元から別種なのか分かりません」

女が続けた。

「種は使えるかもしれません。でも、成熟している実を選ばないと駄目です。枝も少し欲しい。土も。ただ、根元は危ない。あの苔、たぶん処理用です。落ちた実とか、死んだものをすぐ取り込むための場所だと思います」

メイドは木を見た。実は三つ見える。桃と呼ぶには小さく、色も淡い。だが、こちらの世界で初めて見る果実だった。鬼毒のための種。桃の木刀の元になるかもしれないもの。まだ木刀どころか、持ち帰って育つかも分からない果実。だが、ここまで来た意味はあった。

「取れるか」

「取れます。でも、今すぐ全部は無理です。足場を作らないと根元に寄れません。煙が戻る前に、実一つと枝少しなら」

「種が最優先だ」

「はい。でも種だけなら、実ごと取った方が安全です」

探偵が後方を見た。

「長居できない。外縁の火が弱っている。フェアリーが戻る前に出る」

メイドは判断した。

「実を一つ。枝を一本。土は今回は少量だけ。根元へは踏み込むな」

女と少年が頷いた。解剖医が長い鉤を出した。廃村の道具を改造したものだ。直接手を伸ばさず、枝を引くために持ってきている。少年が枝の角度を指示し、女が取る実を選ぶ。解剖医が鉤で枝を寄せる。メイドは周囲を見る。探偵は帰路の印を確認している。

実を取った瞬間、森が反応した。

大きな音はない。ただ、根元の苔が一斉に波打った。落ちた実を拾うための反応なのか、奪われたことへの反応なのかは分からない。柔らかい苔が、こちらの足元へ伸びる。メイドは鉈で苔の先を切った。切るというより、押し剥がす。切り口から血は出ない。代わりに、甘い匂いが戻りかける。

「撤退」

メイドが言った。

枝は短く一本。実は一つ。女が布で包み、少年が小袋に少量の土を入れる。欲張らない。欲張れば戻れない。背後で葉が揺れる。小さな白い影が戻ってきたのかもしれない。見ない。見れば足が止まる。解剖医が女の背を押し、探偵が印を拾いながら先導する。メイドは最後尾で苔の伸びを切り、煙が残る外縁へ戻った。

外縁では青年が水桶を抱えたまま、ひどく緊張した顔で待っていた。

「遅い」

「生きてる」

メイドが答える。

「それは見れば分かる」

「なら十分だ」

探偵が火元を確認し、残り火を処理する。強く消しすぎると不自然になる。自然に燃え残ったように、だが中心部へ再燃しないように水を入れる。青年が今度こそ役に立った。言われた量だけ水を撒き、濡れた布で火の走りすぎた場所を叩く。解剖医が女と少年の足を見て、傷がないことを確認した。血は出ていない。フェアリーに処理対象として強く認識されるような痕跡は残していない。

森の奥では、まだ葉が動いていた。フェアリーは完全には消えていない。だが、外縁の居心地は変わった。煙と熱と火の跡は、コロニーをこの場所から押し出している。逃げる先には、獣系魔族の住処がある。そこへ流れれば、魔王軍は新しい管理問題を抱える。こちらは桃らしき果実と枝を持ち帰る。

地下へ戻る道で、女は布に包んだ実を両手で持っていた。落とさないように、潰さないように、まるで危険物のように扱っている。少年は土の入った小袋を見ながら、何度も袋の口を確認していた。青年は水桶が空になったので、代わりに濡れた布を背負っている。探偵は火元の痕跡をどう見せるか考えている顔だった。解剖医はフェアリーの処理場で見た土の匂いを嫌そうに思い出している。

メイドは後ろを振り返らなかった。

倒していない。勝ってもいない。森を燃やし、居場所をずらし、敵の管理へ押し込んだだけだ。だが、それでいい。フェアリーは処分する敵ではない。生かしておいた方が魔王軍の負担になる。こちらに必要なのは、桃の種と枝と、鬼毒へ繋がる可能性だけだった。

地下に戻ると、フリートが包みを受け取る前に言った。

「手順通りですか」

「だいたい」

「だいたい、が一番嫌です」

女が布を開いた。小さな桃に似た実が、地下の粗末な机の上に置かれる。表面は薄く毛羽立ち、色は淡く、香りはかすかに甘い。前の世界の桃そのものではない。だが、似ている。少年が枝を並べ、土の袋を置いた。フリートは紙の上に、新しい見出しを書いた。

桃候補。

種確認。

枝保存。

土壌隔離。

鬼毒素材、第一確保。

メイドはその文字を見た。

鬼を殺す武器は、まだ木ですらない。

けれど、ようやくその木になるかもしれない実が、地下に置かれた。

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