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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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羽虫

断頭剣を持ち帰った日の地下は、勝利の後とは思えないほど散らかっていた。鎧を止めた剣はまだ仮置きの台に寝かされ、解剖医がその周囲に不用意に近づかないよう布を張っていた。探偵は外で処刑場跡の痕跡を消して戻ったばかりで、フリートは断頭剣を保管する位置、王女を一時的に置く位置、メイドがまた薬を嫌がって治療から逃げないよう解剖医の目が届く位置を、同じ紙の上に並べようとして失敗していた。何もかもが足りない。寝台は足りず、棚は傾き、食器は数が合わず、水場は狭く、子供用に角を落とした板はまだ半分しか処理されていない。勝って戻ったはずなのに、地下は勝った者を迎える場所ではなく、帰ってきた者を雑に受け止めるだけの穴だった。

「椅子を直す前に、人が増えます」

フリートが紙から顔を上げて言った。メイドは肩に巻かれた布を片手で押さえながら、処刑場で痛めた肋をかばって座っていた。椅子は前より少しだけましになっている。ましになっているが、体重をかけるとまだ傾く。メイドはその傾きを足で押さえ、フリートの紙を見た。

「誰が来る」

「広告です。探偵が仕掛けたものが剥がされています。剥がした者が一人、その後に接触した可能性がある者が二人。三人とも召喚直後の逃亡者に近いと見ていいです」

探偵は壁際で外套を脱ぎながら頷いた。顔には疲れがあるが、目は鈍っていない。広告を剥がした者を追う時の顔だった。

「一枚で一人のつもりだったが、剥がしたやつが紙を持ったまま逃げた。途中で二人拾ってる。同郷ではない。たぶん同じ召喚周りの混乱で、互いに勇者かどうかも分からないまま、逃げる理由だけ一致した。紙は半分破れていたが、必要な文は残っていた」

「理解したなら剥がせ、そして逃げろ、か」

メイドが言うと、フリートは少しだけ嫌そうに眉を寄せた。

「文としては雑ですが、効果はありました。ただ、問題はここからです。三人を入れるなら、今の地下は住めません」

「昨日から住めていない」

「昨日より悪いです。断頭剣が増えました。王女もいます。メイドは治療対象です。悪魔族は私だけですが、私の区画もまだ正式ではありません。そこへ召喚直後で状況理解の浅い勇者を三人入れると、戦力ではなく事故源になります」

解剖医が、薬品の小瓶を並べながら横から言った。

「湿気で熱を出す。足元で転ぶ。寝不足で暴れる。大人でもそうなる。召喚直後ならなおさらだ」

「勇者だろ」

「勇者でも腹は壊す」

探偵が短く笑った。メイドは笑わなかった。笑うと肋が痛むからだ。だが、言っていることは分かった。力が強いことと、住めることは違う。勇者を防衛用に集めるつもりなら、剣を握らせる前に寝かせる場所が必要になる。召喚されて逃げてきたばかりなら、敵より先に寝床で壊れる可能性すらある。

三人が地下へ入ってきたのは、その日の夜だった。探偵が一人ずつ通路を変えて連れてきたため、到着には時間差があった。最初に来たのは、服の上からでも肩と手首の力が強すぎると分かる青年で、息を切らしているのに目だけは妙に明るかった。二人目は、足元ばかり見て歩く小柄な女で、壁に手をつきながら入ってきた。三人目は、少年と言うには少し背があり、大人と言うには顔が幼い、年齢の読みにくい者だった。三人とも、まともな荷物を持っていない。持っているのは破れた紙片と、逃げてきた時に拾ったらしい外套や袋だけだった。

「ここが逃げ場?」

最初の青年が言った。声は大きい。悪気はないが、地下に反響してうるさい。フリートが即座に顔をしかめた。

「声を落としてください。地上に抜ける穴が完全に塞がっていません」

「ごめん。いや、でも、ここ、逃げ場っていうか……墓?」

「その認識で外には通してください」

フリートが即答した。青年は少し混乱した顔をしたが、探偵が背後で扉を閉めると、ようやく声を落とした。

「俺、召喚されて、なんか説明されそうになって、でも周りが変で、魔族とか勇者とか言われたけど、全然分かんなくて、紙を見つけて、剥がせってあったから剥がして、逃げたら二人いた」

「説明が雑です」

フリートが言った。

「だって本当にそうだったんだよ。俺だって整理できてない」

「なら今は整理しなくていい。まず座れ」

メイドが言うと、青年は初めてメイドを見た。傷を負って座っているメイド服の人物をどう判断すればいいのか、一瞬分からなかった顔をした。勇者として召喚された直後に、逃げ場で待っていたのが負傷したメイドというのは、たしかに説明しにくい。だが、説明しにくいものばかりがこの地下にはある。断頭剣、サキュバスの秘書、元ピンカートンの探偵、解剖医、王女、壊れた家具、そして逃げてきた勇者三人。分かりやすいものの方が少ない。

二人目の女は、地下へ入るなり鼻を押さえた。

「湿ってます。あと、布が古いです。これ、寝たら喉をやります」

解剖医が反応した。

「分かるのか」

「分かるというか、匂いで。地下で植物を置くならもう少し散らせますけど、何もないと湿気が落ちます。寝る場所を壁際にすると冷えます。水場近いところはもっと駄目です」

フリートの目が動いた。メイドも見た。植物、という言葉はこの地下にまだなかった。壊れた家具を並べ、布を乾かし、水場を避け、角を落とすことは考えていたが、植物を使うという発想はまだ実作業に入っていない。

「植物が扱えるのか」

メイドが聞くと、女は少し困った顔をした。

「扱える、というほどじゃないです。こっちに来てから変なんです。土や根の具合が、見ればなんとなく分かります。前は家庭菜園も失敗してたんですけど」

「失敗してた人間が言うな」

青年が小声で言った。

「うるさい。あれは虫が悪かったの」

「虫のせいにするなよ」

「水やり毎日忘れてた人に言われたくない」

「知り合いか」

探偵が聞くと、二人は同時に首を振った。

「さっき会いました」

「じゃあなぜそこまで言える」

「逃げてる間に揉めました」

フリートが額を押さえた。

「勇者は戦力以前に、会話だけで区画を圧迫しますね」

三人目の少年に近い者は、ほとんど喋らなかった。ただ、床と壁と天井を見ている。時々、壊れた棚や湿った布へ目を向ける。怖がっているようにも見えるが、それだけではない。何かを見積もっている目だった。解剖医が近づくと、少年は半歩下がった。

「怪我は」

「ないです。たぶん」

「たぶんは困る」

「逃げてきた時に転んだけど、すぐ治ったので」

「勇者だな」

解剖医は短く言い、腕を取って確認した。擦り傷はほとんど消えている。だが、精神が落ち着いているわけではない。少年は解剖医の手元ではなく、地下の奥を見ていた。

「ここ、住むんですか」

「当面は」

メイドが答えると、三人とも違う顔をした。青年は「まじか」という顔。女は「やっぱり」という顔。少年は「そうか」という顔。三人分の反応を見て、フリートは紙へ何かを書き足した。たぶん「住環境」と書いたのだろう。

最初に動いたのは女だった。勝手に水場へ行き、壁際の湿った布を一枚持ち上げ、顔をしかめた。

「これ、捨てた方がいいです」

「使える」

メイドが言った。

「使えますけど、寝床には向きません。荷物を包むならいいです。あと、ここの壁、冷えます。植物置けるなら置いた方がいいです。湿気を吸うのと、匂いを抑えるやつ。こっちの水場周りは苔みたいなのを広げると滑りにくくなります。いや、広げすぎると逆に滑るか。根を張るやつの方がいいです」

「勝手に触るな」

探偵が言った。女は手を止めたが、視線はもう壁と床を行き来していた。触らずに考えている。メイドはそれを止めるべきか少し迷った。地下を住めるようにするのは必要だ。だが、改造しすぎると外から見て人がいると分かる。地上は神殿仕上げで偽装している。地下に植物を入れるだけならまだいい。しかし地上へ漏れれば、手入れされた跡になる。墓所が妙に快適になれば、誰かが気づく。

「地上に出すな」

メイドが言った。

「出しません。出さないけど、通気穴の周りは少し触らないと匂いが抜けないです。あ、でも外から見える場所は、綺麗にすると逆にバレます。荒れてるようにした方がいいです」

探偵が少しだけ目を細めた。

「荒れてるように、か」

「はい。蔦とか、枯れた葉に見えるやつとか、根が石を割ってる感じにできれば、むしろ放置された墓っぽくなります。えっと、本当にできるかはやってみないと分からないですけど」

「やるなと言う前に、もう考えてるな」

メイドが言うと、女は少しだけ肩をすくめた。

「住めない場所に何日もいたら、逃げた意味がないので」

それは正しかった。逃げ場は、逃げ込めるだけでは足りない。逃げた後に生きられなければ、また外へ出る。外へ出れば、王国や魔王軍や、勇者を知らない人間社会の疑いに戻る。力の強い子供は魔族の子と疑われ、力の強い大人は正体が魔族ではないかと疑われる。広告に「逃げろ」と書いたなら、逃げた後の湿った床くらいは用意しなければならない。腹立たしいが、そこまで含めて拠点だった。

青年は青年で、壊れた棚を持ち上げていた。

「これ、向こうに置いた方が通路広くならない?」

「置くな」

フリートが即座に言った。

「なぜ」

「そこは処理後区画への予定通路です。まだ区画がないだけで、通路は予定されています」

「予定されてるだけなら、今は邪魔じゃん」

「予定を潰すと後で全員が邪魔になります」

「でも今邪魔だよ」

フリートは深く息を吸った。怒鳴らないための呼吸だった。メイドは少しだけ面白くなりかけたが、肋が痛むのでやめた。青年は悪気なく正しい。フリートも正しい。今邪魔な棚と、後で必要な通路。未完成の拠点では、正しさがぶつかる。解剖医は何も言わず、棚の角を見た。

「そこに置くなら角を落とせ。誰かが夜に足を切る」

「じゃあ角落とします」

「勝手に作業するな」

フリートが言う。

「でも角落とさないと危ないって」

「だから、作業申請を」

「申請って何に?」

「私にです!」

フリートの声が地下に響いた。自分で言ってから、彼女はすぐに口を閉じた。地上に声が抜けると言ったのは自分だ。青年は少し笑い、女は水場で肩を揺らした。少年だけは笑わなかった。彼は床の端にしゃがみ、指で土を触っていた。

「ここ、根が入ります」

その一言で、全員が彼を見た。

「何の根だ」

メイドが聞く。

「分からないです。でも、石の隙間に土が残ってます。水も少しあります。無理に木を生やすのは無理だけど、蔦とか苔なら、たぶん。外からは割れた石にしか見えないようにできるかも」

女がすぐ近づき、同じ場所を見た。

「あ、本当だ。ここなら通気穴まで根を回せるかもしれない。匂いを吸う草を置くなら、上じゃなくてここから広げた方がいいです。表に出る部分は枯れたように見せて、中だけ生かす」

「そんなことができるのか」

探偵が聞くと、女は少し考えた。

「普通はできません」

「できないのか」

「普通は。でも、こっちに来てから変なんです。植物がどうしたいか、少し分かるというか。こっちがお願いすると、根が動く感じがあるというか。説明しろと言われると困るんですけど」

「勇者の力だな」

メイドが言った。女は自分の手を見た。嬉しそうではなかった。むしろ困っていた。力があることは、この世界ではそのまま居場所になるわけではない。むしろ疑いを呼ぶ。だから彼女はここへ来た。

「地上に漏れたら困る」

フリートが言った。

「漏れても、人が管理しているように見えなければいいです」

探偵がその言葉を拾った。

「管理ではなく荒廃に見せる。できるか」

女と少年は顔を見合わせた。青年が棚を抱えたまま口を挟む。

「外から見た時に、うわ、ここ絶対入りたくないな、って感じにすればいいんだろ。草ぼうぼうで、石が割れてて、虫とかいそうな感じ」

「虫は増やすな」

解剖医が言った。

「じゃあ虫はいないけど、いそうな感じ」

「最悪だが、方向は合ってる」

探偵が言った。フリートは紙に「外観荒廃偽装」と書き、すぐに二重線を引いて「管理痕跡禁止」と足した。新人三人が入ってから、紙の項目がまた増えている。フリートにとっては頭痛だろうが、地下にとっては前進だった。

作業はその夜のうちに始まった。止めるべきだったかもしれないが、止めても三人は寝床の悪さで文句を言い続けただろうし、文句を聞くより動かした方がましだった。女は水場の近くに膝をつき、少年は石の隙間へ指を当て、青年は壊れた棚や板を運んだ。解剖医は危ない布や尖った板を避け、探偵は地上へ出て外からの見え方を確認し、フリートは作業範囲を紙に書きながら何度も「そこはまだ触らないでください」と言った。メイドは肩を動かせないので口だけ出したが、三度目にはフリートに「メイドは座っていてください。治療対象が指示を増やすと現場が詰まります」と言われた。

植物は、最初は小さかった。湿った石の隙間から薄い緑が出る。水場の周りに柔らかい苔が広がる。壁際の冷える場所に、蔦が薄く這う。寝床の近くには匂いの強くない葉が置かれ、布の湿気が少し抜ける。劇的に快適になるわけではない。だが、空気が変わった。地下の冷たさが、ただの冷えではなく、少しだけ土の匂いを持つようになる。

問題は、地上だった。

朝になって探偵が戻ると、顔が険しかった。

「上に出てる」

女と少年が同時に固まった。青年は棚板を抱えたまま「あ」と言った。フリートは無言で紙を掴んだ。

「どの程度」

メイドが聞く。

「神殿の北側、通気穴の周りに蔦が出た。石段の脇にも根が浮いている。入口の横に、昨日までなかった草がある」

「まずいです」

フリートが言った。

「見せろ」

メイドは立ち上がろうとして、解剖医に肩を押さえられた。

「走るな。肋が開く」

「歩く」

「ゆっくりだ」

地上へ出ると、朝の光の中で神殿が見えた。たしかに北側に蔦が出ている。通気穴の周囲に絡み、石の隙間から根が浮き、石段の端に草が増えていた。だが、メイドはしばらく見て、何も言わなかった。

綺麗ではなかった。

手入れされた緑ではない。花壇でもない。人が植えた草でもない。むしろ、長く放置された神殿が、ようやく植物に負け始めたように見える。石の割れ目から根が入り、蔦が通気穴を半分隠し、草が石段の端を曖昧にしている。昨日までの神殿は、古いが少し掃除されすぎていた。人が触った気配があった。今は違う。人が諦めた場所に見える。

探偵が神殿を一周して戻った。

「外から見たら、むしろ入りにくい。北側の通気穴も隠れた。石段の脇は崩れかけに見える。手入れには見えない」

フリートは信じられない顔で蔦を見ていた。

「失敗が偽装になっています」

青年が小さく拳を握った。

「勝ったな」

「勝ってません。偶然です」

女はかなり安心した顔をしていたが、すぐに蔦の先を見て言った。

「でも、放っておくと本当に石を割ります。見た目だけ荒れて、中に水が入らないように調整しないと駄目です」

少年も頷いた。

「根を奥まで入れすぎると、地下にひびが入ります。表面だけ荒れて見えるように止めた方がいいです」

フリートが紙を取り出した。

「管理痕跡を出さずに管理する、という最悪の項目が増えました」

「それが仕事だろ」

メイドが言うと、フリートは恨めしそうに見た。

「誰のせいで増えたと思っているんですか」

「勇者を入れたせいだな」

「広告を出したのは探偵です」

探偵は知らない顔をした。解剖医は地上の草を見ながら、虫が増えないかだけを気にしている。新人三人は、怒られると思っていたらしい。だが、怒られなかったので、少しずつ顔が明るくなった。明るくなると、また余計なことをしそうだった。

「調子に乗るな」

メイドが先に言った。

三人は同時に背筋を伸ばした。

「外から荒れて見えるのはいい。中が壊れたら意味がない。勝手に伸ばすな。伸ばすならフリートに言え。水場と寝床と通気穴だけだ。地上は荒れて見せる。綺麗にするな。花もいらない」

「花、駄目ですか」

女が少し残念そうに言う。

「墓所に急に花が増えたら人が来る」

「それはそう」

青年が頷いた。

「虫が来る花も駄目だ」

解剖医が追加した。

「虫が来ない花なら」

「花から離れろ」

メイドが言うと、女は黙った。少年はその横で、地上に出た蔦の先を指で軽く押した。蔦は少しだけ向きを変え、通気穴を隠したまま、石の割れ目から離れる。確かに扱えている。万能ではない。だが、地下にとっては十分すぎる能力だった。

その日の終わり、ダンジョンは少しだけ住みやすくなり、外からは少しだけ入りにくくなった。寝床の周りの湿気は減り、水場の足元は滑りにくくなり、匂いは薄くなった。地上の神殿は、掃除された古い墓所ではなく、植物に飲まれかけた放置神殿に見える。探偵は外観を見て「これは使える」と言い、フリートは「使えますが管理項目が増えました」と言い、解剖医は「虫が増えたら全部抜く」と言った。

メイドは地下に戻り、少しだけ変わった空気を吸った。壊れた家具、断頭剣、王女、フリート、探偵、解剖医、新人勇者三人。ここはまだ完成していない。むしろ人が増えて、問題も増えている。それでも、昨日までより逃げ場に近づいていた。

青年が壊れた棚の角を削り、女が水場の草を調整し、少年が通気穴の根を止めている。三人とも戦力ではない。少なくとも今はまだ、戦場へ出す状態ではない。だが、逃げてきた者が、自分たちの逃げ場を勝手に直している。

それは悪くなかった。

フリートが紙に新しい見出しを書いた。

「植物管理区画」

その下に、さらに小さく書き足す。

「鬼毒素材候補調査」

メイドはそれを見た。

「何だそれ」

「後で説明します。鬼を狩るための木刀です。今はまだ、木ですらありません」

メイドは壁に這う蔦を見た。新人三人のうち二人が、植物を見ていた。地下に植物が入った。なら、次に必要な武器の話も、そこへ繋がるのだろう。

逃げ場は、勝手に根を張り始めていた。

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