赤
処刑場跡へ戻った時、風は前より冷えていた。石畳の上に積もった枯葉は探偵が先に払ってあり、断頭剣が割った階段の角には白い傷が残っている。処刑台の縁、低い石壁、血抜き溝、搬出路、外郭の柱、すべての位置は地下で引いた線と大きく変わらない。だが、線で見る場所と、実際に立つ場所は違う。溝の底は思ったより暗く、階段の角は足を置くには細く、処刑台の上は古い石が浮いていた。ここは最初から、誰かが自由に動くための場所ではない。止めるための場所、押さえるための場所、首を落とすための場所だ。
デュラハンは、前と同じ場所に立っていた。動いていなかったのか、戻ってきたのかは分からない。首のない鎧は処刑台の脇にあり、右手は断頭剣を離していない。柄を握る指の装甲は、刃を振るためというより、誰にも渡さないために閉じている。断頭剣は少しも下がっていない。剣の重さをものともせず、腕と肩で抱え込むように保持している。フリートの言った通りだった。あれは、自分を殺せる剣を持っていることを理解しているのではない。理解していてなお、自分なら制御できると信じている。アンデッドとしての身体能力を、役割の残骸を、鎧の硬さを、そして自分の執着を信じている。
王女は外郭の陰にいた。連れてきたわけではない。止めても来ただろうし、来るなと言うにも遅かった。同じように、彼女は近すぎず遠すぎない場所で立っている。手は外套の内側に隠れているが、肩の固さで分かる。踏み出す準備をしているのではない。踏み出さないために固まっている。メイドはそれを見たが、言葉はかけなかった。王女が動いても動かなくても、戦闘は進める。そう決めた。王女の声を、計算に入れない。それでも、デュラハンが反応する可能性だけは残る。邪魔になるなら使わない。揺れが出るなら、揺れても崩れない位置に立つ。それだけだった。
探偵は外郭の外へ回った。直接戦闘には入らない。金属片を投げても、デュラハンは器具の危険として処理した。なら小細工は正面から効かない。探偵の仕事は、王国側の足音が来た時に消すことと、退路を残すこと。解剖医は処刑場の外、血抜き溝の終端に近い場所にいる。戦闘中に治療はできない。ただ、倒れた後にどこまで壊れているかを見るために、目を離さない。フリートはいない。地下で紙を残している。ここに連れてきても、契約の問題以前に足手まといになる。代わりに、彼女が引いた線だけがメイドの頭に残っていた。ここまでなら誘導。ここを越えると処刑。処刑台の階段手前、溝の縁、石壁までの距離。その線の上で、相手に振らせる。
メイドは一歩進んだ。デュラハンが動いた。やはり速い。剣先で威圧しない。名乗らない。騎士のように正面を取らない。最初から足を止める場所へ刃が来る。斜め下、右足の踏み替え先。メイドは前回のように引かなかった。引けば溝へ追い込まれる。だから半歩だけ内側に入り、刃が落ちる直前に身体をずらした。断頭剣が石を噛む。石畳が割れる。衝撃が剣から右腕へ戻る。まだ浅い。デュラハンの肩は鳴らない。メイドは攻めない。今のは確認だった。反動を作るには角度が足りない。
デュラハンの左手が来る。押さえる手だ。戦場で相手を崩す手ではない。処刑台へ乗せるために、肩と胸を固定する手。メイドは左へ抜けるふりをして、あえて指先に袖を掴ませた。布が引かれる。身体が止まる。止まりきる前に、メイドは袖の布を自分で裂いた。布だけがデュラハンの手に残り、メイドの身体は低く回って処刑台の階段側へ出る。ここまでは予定通りだった。相手は止める。止めたら落とす。その落とす刃を、こちらが石へ逃がす。
断頭剣が上がった。重い刃が空気を押す。首を狙う高さではない。左肩から入り、肘の逃げ道を潰し、そのまま階段へ押し込む軌道。メイドはそこに腕を差し出した。受けるためではない。止めるためでもない。刃の腹に前腕を沿わせ、身体の重さを少しだけ乗せて、剣先を階段の角へ落とすための支点を作る。瞬間、腕に嫌な音が走った。骨ではない。筋と関節が、してはいけない方向へ引かれる音だ。メイドは歯を噛み、力を入れるのではなく抜いた。止めるな。逃がせ。フリートの紙にあった線を思い出す。止めたら腕が折れる。逃がせば剣が石に落ちる。
刃が階段の角へ入った。石が弾けた。断頭剣は石を割ったが、完全には抜けない。斜めに噛み、そこから強引に引き抜かれる。反動が戻る。デュラハンの右腕が跳ね、肩の鎧が鋭く鳴った。今度は聞こえた。外郭にいた探偵も、溝の終端にいた解剖医も、その音を拾ったはずだ。だが、鎧はまだ割れていない。表面に亀裂らしいものはない。デュラハンは一瞬だけ右腕を押さえ込むように柄を握り直し、次の動きに移る。剣を離さない。反動で揺れても、握りを強くする。だからこそ腕の角度は固定される。
メイドは後ろへ引いた。痛む腕を下げない。下げれば次に使えない。デュラハンは追ってくる。処刑場の中心を外れないまま、こちらを台へ戻すように動く。処刑人の足だ。殺意で前へ出ているのではなく、作業範囲へ戻している。メイドはそれに乗った。逃げられる場所へ逃げず、逃げられない場所の手前まで下がる。線の上だ。ここを越えれば処刑。ここまでなら誘導。足裏が溝の縁を掠める。石が少し崩れる。右へ逃げるには低い壁がある。左へ逃げれば左手で押さえられる。前へ出れば剣。デュラハンは当然、前へ刃を置く。
王女が息を呑んだ音がした。
小さい。だが、デュラハンは反応した。首のない鎧が、ほんのわずかに外郭の陰へ向く。王女の方だ。同じ揺れ。メイドはその揺れに頼らなかった。頼らず、むしろその揺れで剣の軌道が半端に変わることを警戒した。王女が声を出すとは思わない。声が出ないなら、揺れだけが残る。揺れは助けではない。予定外の角度だ。
案の定、断頭剣の軌道が少し浅くなった。予定していた階段の角より、低い壁へ流れる。メイドは舌打ちをしそうになり、飲み込んだ。受ける位置を変える。前腕では間に合わない。肩を入れると壊れる。短剣を抜き、刃ではなく柄を断頭剣の腹へ当て、手首ごと外へ逃がす。短剣は悲鳴のような音を立て、さらに欠けた。デュラハンの剣先は低い壁へ入る。石壁が裂ける。反動は階段より浅い。だが、ゼロではない。右腕が揺れる。肩鎧の内側で、さっきとは違う鈍い音がした。
亀裂ではない。歪みだ。
メイドは即座に退いた。今のは使えるが、足りない。二回目で亀裂が欲しかった。だが、王女への反応で軌道がズレた。予定より浅い。なら、三回目で割るしかない。腕はもう重い。肩も痛い。肋が呼吸に引っかかる。デュラハンは止まらない。こちらが痛めた分だけ、次の一撃に耐える余地が減る。処刑場の線が頭の中で細くなる。
デュラハンが踏み込んだ。今度は左手から来た。メイドの腕を押さえるためではない。首のない胴体が近づき、鎧の質量で押し込む。メイドは横へ抜ける。だが、そこには溝がある。飛べば足が浮く。浮けば剣が来る。メイドは飛ばず、溝の縁に片足を残したまま身体を沈めた。デュラハンの左手が髪を掠め、外套の端を掴む。布が引かれ、首が詰まる。メイドは外套の留め具を自分で外した。布がデュラハンの手に残る。その一瞬で、断頭剣が横から来る。
これは強い。止めるためではない。台へ叩き戻すための一撃だ。メイドは逃げない。逃げれば線を越える。逃げずに、低い壁と階段の間へ身体を入れる。断頭剣の刃の腹へ、欠けた短剣の背を当てる。短剣が折れた。折れたが、一瞬だけ支点になった。その支点に身体を預け、刃を階段の傷へ落とす。割れた場所、さっきさらに欠けた場所。石がすでに弱っている。弱った石へ、断頭剣が深く噛んだ。
音が変わった。
石が割れる音の奥で、鎧の内側が裂ける音がした。デュラハンの右腕が大きく跳ねる。断頭剣を握る手は離れない。離れないまま、反動を受けた腕の付け根だけが遅れる。右肩の鎧に亀裂が走った。全面ではない。胸甲でもない。腕の付け根、剣を持つ右腕の接続部分だけ。フリートの線と同じ場所。解剖医が言った場所。そこに黒い裂け目が開いた。
ここで初めて、メイドは攻めた。
距離はない。デュラハンの左手が戻る前に入らなければならない。断頭剣はまだ階段から抜け切っていない。右腕は剣を離さないために硬直している。執着が角度を固定している。メイドは折れた短剣を捨て、腰の奥に残していた細い刃を抜いた。鎧には通じない。だが、鎧は一点だけ割れている。狙うのはそこだけだ。
踏み込みは浅く、速く。胸へ入るな。首へ行くな。剣を奪おうとするな。腕だ。断頭剣を握った腕の付け根。メイドは亀裂へ刃を差し込み、斬るというより抉るように押した。手応えは肉ではなかった。骨でもない。古い革と金具と、何か形のないものをまとめて裂く感触。デュラハンの左手が戻ってくる。掴まれれば終わる。メイドは刃を引かず、逆に体重を乗せて押し切った。
右腕が落ちた。
断頭剣は握られたままだった。そこが重要だった。デュラハンは手放していない。最後まで握っている。だが、腕そのものが本体から切り離された。断頭剣と右腕が石畳へ落ち、重い音を立てる。デュラハンの胴体は一拍遅れて動いた。右腕を戻そうとする。再接続か、回収か。どちらでも同じだ。間を置けば負ける。
メイドは落ちた腕ごと断頭剣へ飛びついた。柄を握る指の装甲はまだ閉じている。生きている手のように力が残っている。剣だけを引き抜く時間はない。メイドは腕を踏みつけ、両手で柄を掴み、捻る。指が外れない。デュラハンの本体が迫る。左手が伸びる。メイドは柄を引くのをやめ、腕の残った接続部を蹴った。落ちた腕が石へ叩きつけられ、指の角度がわずかに開く。そこへ強引に柄を抜いた。
断頭剣がメイドの手に来た。
重い。想像以上に重い。武器として扱うには重心が悪い。振り回す剣ではない。首を落とすために、上から下へ、役割ごと落とすための重さだった。だが振る必要はない。メイドは剣を横に構えなかった。斬らない。刺す。首の断面から真下へ押し込む。
デュラハンが左手で掴みに来る。右腕はない。だが胴体は止まっていない。鎧の胸が迫る。メイドは正面に入った。鎧の上からは通じない。だから上から入る。首のない空白。そこには穴ではなく、断面がある。肉ではない。骨でもない。何かが切られたまま続いている場所。デュラハンの首と身体の繋がりが、ないはずなのに残っている場所。
メイドは断頭剣の切っ先をそこへ立てた。
左手が肩を掴んだ。指が食い込む。骨が軋む。メイドは逃げない。逃げると角度が外れる。剣を立てたまま、身体ごと真下へ押し込む。最初は入らなかった。断面が刃を拒むように硬い。断頭剣はデュラハン特攻でありながら、持ち主だった残骸に抵抗されている。メイドは歯を噛み、肩を掴む左手の痛みを無視して、さらに体重をかけた。刃が入る。首の断面から、縦に沈む。
デュラハンが暴れた。声はない。だが鎧全体が鳴った。左手の力が増す。メイドの肩が外れかける。肋が痛む。視界の端で王女が動いた。今度も一歩だった。声は出ない。だがメイドはもう見なかった。今さら王女の声はいらない。止める場所はここだ。断頭剣は首の断面を割り、鎧の内側を通り、下へ進む。外から心臓を狙うのではない。内側の線を、首から心臓まで貫く。
刃が奥で何かを突いた。
それは心臓の感触ではなかった。生き物の心臓ではない。鼓動もない。だが、中心だった。動いていたもの、続いていたもの、首のない身体を処刑場に立たせていたもの。そこへ断頭剣が届いた瞬間、デュラハンの左手から力が抜けた。
鎧が止まった。
崩れるのは遅かった。まず左手が落ち、次に膝が沈み、胸甲が内側から空になったように傾いた。断頭剣は首の断面から真下に刺さったまま、鎧の中心を貫いている。メイドはすぐには手を離さなかった。止まったふりで反撃される可能性を捨てなかった。数息分、押し込んだまま待った。動かない。右腕は石畳に落ちたまま。指はもう柄を握っていない。断頭剣はメイドの手の中で、ようやくただの重い武器になった。
解剖医が近づいた。
「動くか」
「分からない」
メイドはそう言って、さらに少しだけ押し込んだ。鎧の内側で鈍い音がして、完全に沈黙した。解剖医が止めるように手を上げる。
「もういい。これ以上やると剣が抜けなくなる」
メイドはゆっくり手を離した。肩に痛みが戻る。左手の握力が落ちている。前腕は熱く、肋は呼吸のたびに軋んだ。勝ったという感じはなかった。作業が終わっただけだった。だが、断頭剣はそこにある。デュラハンは止まった。鎧には腕がない。首の断面から心臓まで、剣が通っている。
探偵が外郭から入ってきた。周囲を見て、王国側の足音がないことを確認してから、処刑台の近くで立ち止まる。
「終わったか」
「止まった」
メイドは答えた。
王女は、まだ外郭の陰にいた。今度は隠れられていない。外套の影の中で、顔色がひどく白い。デュラハンが止まった瞬間、彼女は膝を折りかけたが、座らなかった。座ることも、駆け寄ることもできない。処刑場で一歩出て、そこで止まった時と同じだった。
メイドは断頭剣から手を離し、ゆっくり王女へ向かった。肩は痛む。歩くたびに肋が鳴る。薬の匂いより、今は石と金属と古い溝の匂いの方が強い。王女は逃げなかった。逃げられなかったのかもしれない。どちらでも同じだった。
「止められた」
メイドは言った。
王女の目が揺れた。否定はない。メイドは続ける。
「最初から」
王女の唇が震えた。声はまだ出ない。
「無傷で終わった」
言葉は短く置いた。説明ではない。事実だ。王女が最初から勇者を保護していれば。王女が主だった者に声をかけていれば。王女がこの処刑場で踏み出していれば。全部ではないにしても、少なくとも今日の傷は要らなかった。デュラハンも、腕を落とされる必要はなかったかもしれない。断頭剣を首から心臓まで押し込まれる必要もなかったかもしれない。
「やらなかっただけだ」
王女は息を吸った。何かを言おうとして、失敗した。謝罪か、言い訳か、分からない。メイドは待たなかった。
「後悔は復讐ですら覆う。復讐ですら、成功失敗を問わず後悔はする」
王女の顔が歪んだ。復讐という言葉に反応したのか、後悔という言葉に反応したのかは分からない。メイドは淡々と続けた。慰めるつもりはない。救うつもりもない。ここで必要なのは、逃げた事実を曖昧にしないことだ。
「だから、全て果たすべきだった」
王女の指が外套を掴む。布がしわになる。
「その後悔を二度としたくないなら、命尽きるまでに立ち上がり、そして、人を一度でも守ってみたらどうだ」
王女はようやく小さく首を振った。できない、と言いたいのか、違う、と言いたいのか。メイドはそれを遮った。
「それが苦難であることは知っている。私だって傷は嫌だ。薬はより嫌だ。個人的な因縁で」
解剖医が少しだけこちらを見た。探偵は黙っている。メイドは自分の肩を押さえなかった。痛みを示すためではなく、痛いからこそ手を緩めないでいるところを見せる必要があった。
「だから価値がある」
王女の目から、ようやく涙が落ちた。静かだった。泣き声はない。泣けば済むと本人も思っていないのだろう。
「私は、その嫌なことを手を緩めないことで果たした」
メイドは王女の前で止まった。近すぎない。逃げ道を塞ぐほどではない。だが、言葉が届かない距離でもない。
「お前はどう果たす」
王女は答えない。答えられない。メイドは最後の言葉を置いた。
「それとも、諦めるか」
処刑場跡には風だけが残った。デュラハンは止まり、断頭剣は首の断面から真下に刺さっている。探偵は外を見張り、解剖医はメイドの肩を見ている。王女は泣いているが、膝をつかない。まだ立っている。立っているだけなら、何も果たしていない。だが、座って終わるよりはましだった。
メイドは王女から視線を外し、断頭剣の方へ戻った。剣を抜くには、まだ手間がかかる。鎧を壊しすぎないように、首の断面から慎重に戻す必要がある。勝利の余韻などなかった。必要な武器を手に入れた。ただそれだけだ。だが、それだけのために、痛みと沈黙と後悔が処刑場に残った。
王女がその後悔をどう扱うかは、まだ決まっていない。
ただ、逃げたままではいられない場所に、彼女は立たされた。




