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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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切断面

地下に戻って最初に解剖医がしたことは、治療ではなく衣服を切ることだった。メイドの袖、脇、肩口、肋の上、腰の横、膝の内側、布が裂けた場所と皮膚に赤く線が残った場所を順に開き、傷口そのものより先に位置を見た。血は多くない。深く斬られた箇所もない。だが、浅い傷が浅いままだから安全だとは言えなかった。動作を止める場所ばかりを触られている。肩を逃がす筋、肘を抜く角度、踏み替えの膝、呼吸が詰まる肋、体重を乗せる腰。致命傷を避けられたのではない。最初から致命傷ではなく、身体を動かなくする順番で置かれていた。

解剖医は傷の周囲を指で押し、メイドの反応を見た。メイドは黙っていたが、肋を押された時だけ息が詰まった。柄頭で打たれた場所だ。斬られてはいない。だが、一瞬でも呼吸が止まれば、次の刃は受けられない。処刑場であのまま倒れていたら、断頭剣は首ではなく、動かない身体を処理するために落ちていただろう。

「騎士じゃない」

解剖医が言った。確認ではなかった。断定だった。

探偵は壁際で、処刑場から持ち帰った石粉を紙に包んでいた。足跡を散らすために撒いたものの残りだ。フリートは床に広げた簡略図の端を押さえ、処刑台、溝、階段、低い石壁、搬出路の位置をもう一度書き直している。王女は地下の入口に近い場所で立ったままだった。椅子を勧められても座っていない。外套を脱いでいない。手は震えていないように見えるが、指先だけが時々袖の内側を掴んでいる。

メイドは解剖医を見た。

「騎士ならどこを狙う」

「武器、足、首、心臓。名誉を気にするなら正面。殺すなら急所。勝つなら支えを潰す。あれは違う。殺す前に、動作を終わらせている」

「処刑台の上で動かない相手にすることだな」

「そうだ。押さえて、止めて、落とす。相手が生きて抵抗する前提ではあるが、戦場の剣じゃない。処置に近い」

フリートが顔を上げた。

「処置、ですか」

「少なくとも、身体を知っている」

解剖医はメイドの肩に巻いた布をきつく締めた。痛みが走る。メイドは眉を動かしただけで、声は出さなかった。

「一撃一撃が殺しに来ていない。けれど、浅くても全部動作に関わる。肩を逃がせない、膝を抜けない、肋で息が止まる。あれは、身体がどう動くかを知っている側の切り方だ。騎士の訓練だけではない」

探偵が口を挟んだ。

「処刑人か」

地下の空気がそこで少し重くなった。騎士ではない。医者かもしれない。だが、処刑場で、首を落とす剣を持ち、王家の争いと主従の記録に紛れた者なら、医者より先に出る名は処刑人だった。民衆から恐れられ、同時に信用されることもある。首を落とすだけではない。身体を見る。死体を見る。病や怪我や骨のつき方を知る。処刑の成否は権力の体面にも関わる。苦しませず、失敗せず、民の前で役割を果たすには、刃物を振れるだけでは足りない。

フリートは紙の端に「処刑人」と書き加えた。それから、すぐ横に「騎士記録」と書いた。

「記録が騎士になっている理由は作れます。王家の争いの中で主を守った者、主に従った者、死後も主従に縛られた者。そう記録する方が綺麗です。処刑人として残すより、騎士の成れの果てにした方が、慰霊にも政治にも使いやすい」

「処刑人が主を持っていたのか」

メイドが言うと、フリートは少し考えた。

「王家の処刑人なら、主は王家です。あるいは、特定の王族の側に付いた処刑人。王位争いの中で、誰を処刑し、誰を逃がし、誰の首を落としたか。その手順を知っている者なら、王家にとって騎士以上に都合が悪いことを知っています」

王女の肩がわずかに動いた。誰も見ていないふりをした。メイドだけは見た。彼女は言葉を飲んでいる。知らないのではない。聞きたくないのだろう。だが、聞きたくないからといって、処刑場で止まった足が消えるわけではない。

解剖医はメイドの膝を見た。浅い切り傷が二本、膝の内側にあった。血は固まっている。

「ここをもう少し深く入れられていたら、踏み替えが遅れた。次で首か肩が落ちる」

「首を狙っていない」

「首を落とすのは最後でいい。処刑人なら、暴れている相手の首をいきなり落としには行かない。固定する。押さえる。台へ乗せる。動かなくなったところで落とす。あの処刑場は、全部そのための配置だった」

メイドは処刑場の地形を思い出した。溝、階段、台、低い石壁、搬出路。逃げ場に見える場所が、実際には止めるための場所になっていた。探偵が投げた金属片も踏まなかった。足元の危険を見たのではなく、器具の危険を知っていた。台の周囲にある物、床に落ちた物、刃の逃げ先、身体を押さえる支点。そういうものを前提にして動いていた。

「騎士なら、こちらの剣を殺す」

メイドは低く言った。

「だが、あれは私の身体を台へ持っていこうとした」

解剖医が頷く。

「切るために、止めている」

「なら、剣はどう奪う」

探偵が聞いた。話がそこへ戻るのは当然だった。正体が何であれ、断頭剣が必要なことは変わらない。相手は離さない。鎧には通じない。削れない。普通に斬り合えば、防戦のまま処理される。

フリートは簡略図の処刑台に小さな印をつけた。

「反動です。確認できました。処刑台の階段を割った時、腕が跳ねています。石壁を削った時より、階段の角度で返った時の方が大きい。刃の進行方向を止めるのではなく、斜めに返した方が腕へ戻る」

「真正面から受けたら潰れる」

メイドが言った。

「受けるのではなく、逃がす必要があります。相手の剣筋を全部殺すと、こちらが壊れます。刃の腹か根元に支点を作って、剣の先を石へ落とす。石を壊させる。壊した反動を腕に戻す」

解剖医が紙を覗き込んだ。

「腕付け根だな。肩の鎧が一度鳴った。あそこが割れれば、腕を落とせる」

「割れなければ」

「無理だ」

答えは短かった。メイドもそれでいいと思った。無理なものを無理と言える方が使える。鎧は全部壊さない。壊せない。砕くのは一点だけ。断頭剣を持つ右腕の付け根。そこに隙間ができなければ、腕は落とせない。腕が落ちなければ、剣は奪えない。

「腕を落とすための刃は」

探偵が聞いた。

メイドは自分の短剣を見た。欠けている。鎧には通じなかった。砕けた隙間へ入れるには足りるかもしれないが、腕を落とし切るには軽い。

「断頭剣以外で落とすしかない」

フリートが言った。

「ただし、鎧の割れた隙間からです。外装を斬るのではなく、接続を断つ。アンデッドは生物ではありません。骨や筋を切るというより、本体と腕の繋がりを切る必要があります。そこまでの隙間を反動で作る」

「腕ごと落ちれば、剣が離れる」

「はい。手放させるのではありません。剣を握った腕を本体から切り離す。だから、デュラハン自身は最後まで剣を離していない」

その言い方は重要だった。デュラハンの執着と矛盾しない。自分から離すのではない。離さないまま、腕を失う。だから勝ち筋が成立する。

メイドは紙の上で、右腕の付け根に指を置いた。

「反動を作る。鎧を割る。腕を落とす。剣を奪う。首の断面から真下へ押し込む。心臓まで通す」

「順番を変えないでください」

フリートが言った。

「変えると死ぬか」

「死ぬか、止まりません。首を横から斬っても意味が薄いです。断面から入れる必要があります。鎧の外から心臓を狙っても通らない。首の断面は、外装を避けて内側へ届く入口です。そこから真下に入れて、心臓まで通す」

解剖医は少しだけ顔をしかめた。

「人間の心臓とは違うかもしれない」

「違っても、停止点はそこです」

フリートは迷わず答えた。

「デュラハンの心臓は生物としての心臓ではありません。機能停止の中心と考えてください。首、役割、心臓。この三つを断頭剣で通す必要がある」

探偵が小さく息を吐いた。

「一つでも外したら」

「腕が戻るか、剣を奪い返されます」

「簡単だな」

「嘘をつく必要がありますか」

「ないな」

メイドは床の図を見続けた。処刑場は相手の場所だ。台、溝、階段、石壁、搬出路。すべてがデュラハンの側にあった。なら、その場所を奪うのではなく、相手の使い方ごと利用する必要がある。処刑人が処刑場を使うなら、こちらは処刑場の硬さを使って断頭剣の反動を返す。相手が身体を止めるなら、こちらは止められる直前の位置へ誘導する。相手が剣を離さないなら、その執着で腕の角度を固定させる。

勝つのではない。止める。

倒すのではなく、機能を切る。

メイドはそこで王女を見た。

王女はまだ黙っていた。最初からずっと黙っている。処刑場から戻ってから、一度もデュラハンの名を出していない。メイドの傷にも、断頭剣にも、フリートの説明にも口を挟まない。ただ立っている。立っているだけで、そこにいる理由だけは消えない。

「王女」

メイドが呼ぶと、王女は肩を震わせた。呼ばれると思っていなかったのだろう。顔を上げるが、目は合わない。

「あれは、こちらに反応した」

王女は何も言わない。

「処刑場で一歩出た時、剣の軌道が揺れた」

王女の唇が少し開いた。だが、声は出ない。同じだった。メイドは、今ここで責める気はなかった。責めるのは決着の後でいい。今必要なのは、戦闘で何が使えるかだ。

「次も同じことが起きるか」

王女はしばらく沈黙した。それから、やっと首を横に振るでも縦に振るでもない、中途半端な動きをした。

「分かりません」

声は小さかった。

「呼べるか」

王女の指が袖を強く掴んだ。

「……分かりません」

メイドは頷いた。使えない。そう判断した。王女を罵倒するのではなく、戦闘上の変数としては使えない。出るかもしれない声に命を預けるわけにはいかない。ただし、デュラハンが王女に反応することは事実だ。王女が止まっても、揺れは起きる。なら、その揺れを計算に入れるのではなく、起きても崩れないようにする。

「次は、あなたが動いても動かなくても、こちらは進める」

王女の顔が少し歪んだ。メイドはそれ以上言わなかった。慰める必要もない。追い詰める必要もまだない。彼女は出来た人間だ。出来たのにやらなかった人間だ。それを言葉にするのは、デュラハンを止めた後でいい。

解剖医はメイドの肩の布を結び直し、薬を塗った。薬の匂いが鼻を刺す。メイドは反射で手を払いかけ、途中で止めた。

「嫌か」

解剖医が聞いた。

「嫌だ」

「我慢しろ」

「言われなくてもしている」

薬は嫌いだった。傷より嫌いだった。身体に入るもの、塗られるもの、効くと分かっていても、別の記憶を連れてくる。貴族の息子の屋敷で飲まされたもの、外見を崩さないためのもの、体調を縛るもの。その全部が、匂いだけで首の後ろを冷やす。だが、手を緩める理由にはならない。嫌なものを避けるために動かなければ、王女と同じ場所へ落ちる。それだけは嫌だった。

「処刑場へ戻るのはいつだ」

探偵が聞いた。

「肩が動くようになってから」

解剖医が先に答えた。

「今行けば、二回目の反動を受けた時点で腕が上がらない。反動を作る側が先に壊れる」

「長く置くと王国が気づく」

探偵が言う。

「なら長く置くな」

メイドは薬の匂いに耐えながら言った。

「準備だけする。処刑場の石、階段、低い壁、どれを使うか決める。鉄棒は捨てた。次は折れない支点がいる」

「持ち込むと警戒される」

「持ち込まない。場所にあるものを使う」

フリートが図に印をつけた。

「階段と処刑台の角です。石壁は逃げ場を塞がれやすい。階段は刃が斜めに落ちるので反動が戻りやすい。ただし、こちらも逃げにくい。最初からそこに立つと読まれます。追い込まれた形で入る必要があります」

「追い込ませる」

「はい。ただし本当に追い込まれると死にます」

「その差を言え」

フリートは一瞬黙り、図の上に線を引いた。

「ここまでなら誘導。ここを越えると処刑です」

線は短い。だが、十分だった。処刑台の階段手前、溝の縁、低い壁までの距離。デュラハンが左手で押さえに来る範囲。断頭剣が落ちる角度。そこに立てば相手は振る。そこを越えれば、もう逃げられない。勝負はその線の上で成立する。

メイドはその線を見た。

「そこに立つ」

「立つだけでは足りません。相手に強く振らせる必要があります」

「何を餌にする」

探偵が聞いた。

「腕です」

解剖医が言った。

メイドは解剖医を見た。

「相手はメイドを止めに来る。肩か肘を殺せば、処刑台に押し込める。なら、わざと腕を使わせる。受けるためではなく、止められそうに見せる。そこへ剣が来る。剣を外へ逃がして階段に落とす」

「腕が飛ぶぞ」

「飛ばない位置にしろ」

「雑だな」

「細かく言えば、肘を伸ばすな。肩を入れすぎるな。支点を作るのは手首ではなく、前腕と体重。刃を止めるな。逃がせ。止めたら腕が折れる」

メイドは自分の腕を見た。まだ痺れが残っている。だが使える。使うしかない。分かったことは、相手の剣を止めてはいけないということだった。力負けする。止めれば潰される。必要なのは、剣に道を作ることだ。こちらを斬る道ではなく、石へ落ちる道。そこへ落ちた刃の反動を、デュラハンの右腕へ戻す。

「一回目で割れるか」

「割れません」

フリートが言った。

「反応を見る限り、一度では浅い。少なくとも二回、可能なら三回。ただし三回目までメイドの身体が持つかは分かりません」

「二回で割る」

「希望ではなく設計でお願いします」

メイドは少しだけ笑った。フリートは本気で嫌そうな顔をした。

「一回目は反動を確認する。二回目で鎧に亀裂。三回目で割る、が現実的です。ただし二回目で亀裂が入らなければ、三回目は危険です。メイド側の腕と肩が持ちません」

「なら二回目で亀裂が入る角度を作る」

探偵が処刑場の図を見た。

「石を削る場所を先に決めるか。傷が入った階段を使えば、同じところへ落とせる」

「相手がそこへ振るならな」

「振らせるのはメイドの仕事だ」

それで役割は決まった。探偵は処刑場へ先に入り、断頭剣が割った階段の位置を確認する。解剖医はメイドの身体が何回反動に耐えられるかを見積もる。フリートは線を引き直し、反動を作るための位置を固定する。メイドはその線を覚え、実際に立つ。王女は使わない。動いても計算に入れない。

王女はその言葉を聞いていた。自分が使われないと理解したのだろう。顔を伏せたまま、唇だけが震えた。メイドは見たが、何も言わなかった。今の王女に必要なのは、役割ではない。逃げた事実から逃げる余地を残さないことだ。だがそれはまだ後でいい。

フリートが最後に紙を一枚まとめた。

「次の戦闘でやることは、勝つことではありません。止めることです。騎士として扱わない。処刑人として扱う。相手の処刑手順に乗ったふりをして、刃を石へ落とす。反動で鎧を割る。腕を切り落とす。剣を奪う。首の断面から真下に入れる。心臓まで通す」

「分かっている」

「分かっていても、現場で別の手を出さないでください。鎧を叩かない。首を横から斬らない。王女に期待しない。剣を奪う前に刺そうとしない」

「うるさいな」

「秘書ですので」

その返しに、探偵が少しだけ笑った。解剖医は笑わず、メイドの肩をもう一度押して可動域を確かめた。痛い。だが動く。動くなら使える。

地下の紙には、処刑場の線が増えていた。あの場所にあるものが全部デュラハンの側にあった。それをこちらの手順へ置き直した。まだ断頭剣は相手の手にある。鎧も砕けていない。腕も落ちていない。王女も何もしていない。

けれど、次に何をするかは決まった。

メイドは立ち上がり、薬の匂いが残る肩を回した。完全ではない。完全でなくていい。完全を待てば、処刑場の方が遠くなる。

「もう一度行く」

誰も止めなかった。

フリートは紙を折り、探偵は外套を取った。解剖医は薬と布を袋に入れた。王女は少し遅れて顔を上げた。目はまだ揺れている。だが、処刑場へ戻る足を止める言葉は出なかった。

メイドはその顔を一度だけ見て、何も言わずに地下の階段へ向かった。今言えば、ただ刺すだけになる。言葉は、デュラハンを止めてからでいい。

処刑人の剣は、処刑場で返す。

相手が首を落とすために作った場所で、こちらはその腕を落とす。

そのための線は、もう引いた。

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