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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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デュラハン・ハント

フリートが紙を要求してから、地下の空気は少しだけ変わった。壊れた家具は壊れたままで、床は冷え、壁の湿り気も消えていない。探偵が外から持ち帰る紙は安物で、解剖医が乾かした板を机代わりにしているせいで、書き物をするたびに紙の端が浮く。それでも、昨日まで床に炭で書いては踏み消していた配置図が、今は紙の束として残り始めていた。成人勇者、子供、悪魔族、会話不能の魔族、水場、汚物処理、危険物、記録、処理前、処理後。フリートは拘束を片手だけ緩められた状態のまま、それらを勝手に分類し、足りない欄を足し、記号を揃え、探偵の持ち込んだ広告案まで余白に回収していた。

メイドはそれを横から見ていた。便利だと思った。便利だと思った瞬間に、少し腹も立った。昨日まで捕獲対象だった悪魔族が、半日もしないうちに地下の紙を握っている。しかも扱いがうまい。探偵は外で消すものを見る。解剖医は中で死ぬ場所を見る。フリートは、その二人の出した情報を、使う順番へ置き直す。戦えるわけではない。縛ればまだ身動きも鈍い。だが、地下を運営するという点だけなら、メイドより先に問題の形を見つける。

「紙、逆です」

フリートが言った。

メイドは手元の紙を見た。確かに上下が逆だった。文字は読めるが、フリートの記号の向きからすると逆らしい。メイドが黙って向きを直すと、フリートは当然のように頷き、次の束を寄せた。

「探偵が広告を出す場所は三種類に分けてください。旅人が見る場所、役人が見ない場所、見ても意味を取れない場所です。これを一つにまとめると、貼れる場所が減ります。逆に分ければ、意味が分からない紙を短時間だけ置くことはできます」

「まだ広告の話をしているのか」

「広告は入口です。入口が壊れると、中に何も来ません。中に何も来ないなら、子供部屋も悪魔族区画も無駄になります」

「無駄になるなら楽だな」

「そういうことを言うから、昨日の慰めが失敗するんです」

メイドは言い返さなかった。解剖医が奥で小さく笑った気配がした。探偵は壁にもたれて紙の束を見ていたが、その顔には笑いがない。外へ貼る一枚の紙が、どれだけの足跡を作るかを考えている顔だった。

メイドは壊れた椅子へ腰を下ろした。足を組むと椅子が鳴り、フリートが顔を上げる。

「その椅子も危ないです。体重を乗せるなら、足を二本替えてください」

「今は椅子の話じゃない」

「今壊れると話が止まります」

「なら、立つ」

メイドは立ち上がった。椅子は少し遅れて倒れた。地下に乾いた音が響く。フリートは深く息を吐き、紙の余白に「椅子」と書き足した。メイドはそれを見なかったことにした。

「次の武器だ」

その一言で、紙の流れが止まった。探偵が壁から背を離し、解剖医が瓶を置く。フリートだけはペン先を紙に置いたまま、顔を上げた。

「どの系統ですか」

「デュラハンの首の繋がりを切る断頭剣」

フリートの手が止まった。顔つきは変わらない。ただ、視線の奥で何かが一段深く沈んだ。驚きではない。思い出した顔だった。メイドはその反応を見て、聞く前に半分察した。

「調べられるか」

「調べる必要はありません」

「知っているのか」

「覚えています」

フリートは紙の端を押さえ、まだ乾いていないインクを避けるように別の紙を引いた。書かない。まず話すつもりらしい。昨日まで拘束されていた悪魔族が、地下の中で最も古い記録のような顔をしている。探偵は黙って近づき、解剖医は石台に腰を預けた。

「現在のデュラハンは、王家同士の争いの中で主を失った者です。記録上は騎士です。主を守り、主を失い、首を失った騎士の成れの果て。そう伝えるのが一番短いので、だいたいそう残っています」

「違う言い方をしたな」

「短い記録は、だいたい何かを落とします」

フリートはそう言って、指で紙の上に短い線を引いた。王家、主従、処刑場、首、剣。文字ではなく、単語だけが並ぶ。

「断頭剣は、本来その個体を終わらせるための武器です。デュラハンの首と身体の繋がり、主従と死後の役割の繋がり、そういうものを切るための剣です。ただし、今それを持っているのは本人です」

探偵が眉を寄せた。

「自分を殺せる武器を、自分で持っているのか」

「はい。だから厄介です。離しません。アンデッドは生物ではありませんし、理屈を掘っても歴史が出るわけではありませんが、あの種の個体は、自分の機能を信じます。肉体ではなく、続いている役割を信じる。断頭剣を握ったままでも、自分なら制御できると思っている。だからこそ手放さない」

「奪うには」

メイドが聞くと、フリートは即答しなかった。代わりに、解剖医の方を一度だけ見る。

「鎧の外からは無理です。解剖医の方が詳しいでしょうが、あれは肉を守る鎧ではありません。残っている役割を包む殻です」

解剖医は短く頷いた。

「鎧に刃を立てても、内側に届かないなら意味がない。骨や筋肉がある相手ではないなら、なおさらだ。隙間が必要になる」

「隙間は、相手が作るしかない」

メイドは言った。

フリートは頷く。

「断頭剣を振らせる必要があります。ただし、それだけでは足りません。剣はデュラハン特攻です。本人が握っている限り、振るたびに本人へ負荷が戻る。けれど普通の振り方なら制御されます。反動を増幅させる必要があります」

「まだ行ってもいないのに勝ち方の話か」

探偵が言った。

「勝ち方ではありません。取れるかどうかの話です。取れない武器を取りに行くなら、先に最低条件を決めるべきです」

フリートの言い方は淡々としている。昨日のような怒りはない。代わりに、数字を並べる時のような硬さがあった。メイドはその声を聞きながら、まだ見ていないデュラハンの手元を想像した。断頭剣を握る腕。鎧。首の断面。繋がり。心臓。まだ輪郭は曖昧だが、単純な奪取で済まないことだけは分かる。

「それで、現在の場所は」

「旧王家の処刑場跡です。正確には、その外郭墓所に近い場所です。王家同士の争いで使われ、後に封鎖されました。表向きは騎士の慰霊に紐づけられていますが、実際は処刑と記録の場所です」

「騎士じゃないのか」

探偵が言うと、フリートは少しだけ目を伏せた。

「記録上は騎士です」

また同じ言い方だった。メイドはその引っかかりを覚えた。今はまだ問わない。断頭剣を取りに行く前から、情報の中に矛盾がある。主を失った騎士。だが処刑場。断頭剣。首。王家同士の争い。どれも騎士の物語として並べるには、少しだけ刃の向きが違う。

「フリート」

「はい」

「なぜ覚えている」

フリートの指が紙から離れた。探偵と解剖医も、そこを見る。記憶している、という言葉は便利すぎた。昨日採用されたばかりのサキュバスが、千年単位の話を当然のように持っている。そこを曖昧にしたまま使うには危険だった。

「悪魔族は、契約を重ねます。個体の記憶だけではありません。契約の記録、契約に付随した語彙、失敗例、成功例、支払われたもの、踏み倒されたもの、奪われたもの。そういうものが残ります。全部を同じ精度で持っているわけではありませんが、勇者に関係する部分は古い悪魔族ほど消しません」

「勇者」

メイドが低く言うと、フリートは今度ははっきり頷いた。

「勇者をこの世に召喚するシステムを作ったのは、悪魔族です」

地下の空気が、そこで変わった。

メイドは動かなかった。探偵も、解剖医も、口を挟まない。フリートは、昨日床に区画図を書いた時と同じ調子で、だが内容だけは地下の石より古いものを置き始めた。

「死んだ人間の中には、未練が多い者がいます。帰りたい、やり直したい、殺したい、守りたい、謝りたい、奪い返したい。そういう未練は重い。ですが、死者をただで戻すことはできません。現世に戻すには、戻すだけのエネルギーが必要です。悪魔族は、その支払いを死後の世界で行わせました」

「酷使か」

「はい。酷使です。きれいな言い方はありません。死後の世界で働かせる。削る。貯める。蘇生分のエネルギーとして扱う。それを契約で束ね、現世に帰す。最初の勇者召喚は、救済ではなく回収です。未練のある死者から、現世に戻るだけの代価を取った」

メイドの喉の奥がわずかに固まった。自分が死んでいた時の記憶は曖昧だ。前後は抜け落ちている。だが、やり直しの機会があると告げられたことだけは覚えている。差し出された手を取ったことも覚えている。あれがどこまで誰の仕組みだったのか、今さら確かめようもない。けれど、フリートの言葉は、勇者というものの底に支払いがあると告げていた。

「神はそれを模倣しました」

フリートは続けた。

「悪魔族が契約に契約を重ねて、無理やり再現した転生や召喚に近い構造を、神はあっさり模倣した。必要な部分だけを掬い上げ、神の側の仕組みに置き換えた。悪魔族から見れば、時間をかけて組んだ仕組みを、上から押さえられたようなものです」

探偵が小さく息を吐いた。

「その結果が、今の勇者か」

「結果の一つです。勇者は魔族を次々に殲滅しました。最初は例外的な現象だったものが、制度に寄っていった。千年で魔王の首に剣が届きました。そして、そこからわずか十年で、魔王を半殺しにした勇者が現れた」

誰もすぐには何も言わなかった。

千年という時間は長い。だが、種族や神や魔王にとっての千年は、人間の感覚とは違うのだろう。悪魔族が契約に契約を重ねた仕組みを神が模倣し、勇者が現れ、魔族が削られ、魔王の首に剣が届く。そこから十年で半殺し。数字だけ聞けば短い。だが、その十年の中にどれだけの死体と書類と裏切りと失敗が積まれているかを、メイドは知っている。

「だから魔族は勇者を嫌うのか」

探偵が言った。

フリートは首を横に振った。

「嫌うだけなら簡単です。問題は、理解できないことです。魔族は種族ごとに機能が違います。悪魔族は契約、フェアリーは処理、エルフは社会、アンデッドは不明。けれど勇者は外から来ます。人間でありながら、種族の機能では説明できない力を持つ。死んだ者が戻り、現世に割り込む。魔族にとっては、世界の中にあるはずのない例外です」

「その例外を、これから集める」

メイドが言った。

「はい」

「そして、そのために断頭剣がいる」

「すぐ魔王を殺すためではありません。ですが、いずれ必要になります。デュラハンの首の繋がりすら切れる武器は、最後の一手の一部です。残り体力一をゼロにするための道具です」

「持ち主がデュラハン本人でなければ、もう少し楽だったな」

「はい。ですが、楽な武器はだいたい残っていません」

フリートの返事は早かった。そこに慰めはない。メイドは少しだけ笑った。昨日から思っていたが、このサキュバスは慰めには向いていない。自分も人のことは言えないが、少なくともフリートは、必要な事実を遠回りなく置く。その代わり、置いた後に運用まで考える。そこが使える。

解剖医が、フリートの書いた単語を見下ろした。

「処刑場跡なら、死体の扱いが残っているかもしれない。水路、血抜き溝、排水、骨を捨てる場所。戦場より足場は読みやすいが、腐った床や古い溝で足を取られる」

「地図はあるか」

メイドが聞くと、フリートは別の紙を引いた。

「完全なものはありません。ですが、処刑場なら構造はある程度決まります。台、溝、控え、搬出、墓所、外壁。騎士の墓所として残っているなら、後から礼拝用の通路が足されています。逃げるには悪く、追い込むには向きます」

「こっちが追い込まれる可能性もある」

「高いです」

「いい返事だ」

「良くはありません」

フリートはそう言いながら、紙へ簡略図を描いた。中心に処刑台。周囲に石畳。低い壁。外郭墓所。旧礼拝路。搬出用の裏道。どこまで正確かは分からない。だが、何もないよりはましだった。探偵がその図を覗き込む。

「王国側の管理は」

「表向きは封鎖。実際にはほとんど見ていないはずです。王家同士の争いに関わる場所ですから、触りたがらない。古い主従の話も出ます。王族が絡むなら、なおさらです」

王族。そこでメイドの視線が少し動いた。王女のことはまだ表に出していない。だが、断頭剣の所有者が主を失った者であり、その主が王家の争いに関わるなら、王女はこの件から完全に外れてはいない。

「王女は」

メイドが言うと、探偵の目が細くなった。解剖医も顔を上げる。フリートだけは、もう想定していたように紙の端へ「王女」と小さく書いた。

「関係します」

「どの程度」

「本来なら、最も深い位置にいます。ですが、本人がどこまで動くかは別です」

「歯切れが悪いな」

「動けた人間が動くとは限りませんから」

地下がまた静かになった。メイドはその言い方を覚えた。出来たのにやらない人間。役割があるのに踏み出さない人間。まだ戦闘も始まっていないのに、その影だけが紙の上に置かれた。

「連れて行くか」

探偵が聞いた。

「連れて行くというより、避けても来る可能性があります。あちらが来るなら、見える場所に置いた方がいい。隠れて来られると、戦闘中に線が増えます」

フリートは答えた。もう秘書の顔だった。拘束は緩められているが、まだ完全に自由ではない。それでも、役割の中に入った瞬間、捕獲物の顔は薄れていた。

メイドは断頭剣の簡略図を見た。実物を見たわけではない。だが、フリートが描いた剣は細くなかった。首を落とすには重すぎるほどの幅があり、切るためというより、繋がりそのものを落とすための形に見えた。

「剣を奪うなら」

解剖医が言った。

「腕ごとだろうな」

フリートが頷く。

「通常は無理です。鎧に通じません。デュラハンは絶対に離しません。剣の反動で弱った瞬間に腕を落とす以外、剣は本体から離れないはずです」

「まだ見ていない」

メイドは言った。

「見たら変わるかもしれない」

「変わるなら、現場で修正してください。ただし、剣を手放さない前提は変えない方がいいです」

「鎧は」

「通らない前提で」

「首は」

「断面から入れる必要があります。外からではなく、首の断面へ真下に。心臓まで届かせて停止させる」

メイドは口の中でその手順を反芻した。振らせる。反動を作る。鎧を一点だけ砕く。腕を落とす。剣を奪う。首の断面から真下へ押し込む。心臓を貫く。言葉で並べれば短い。実際にやれば、たぶん一つ目で死ぬ。

「面倒だな」

「面倒な武器しか残っていません」

フリートはまた同じようなことを言った。メイドは笑わなかったが、少しだけ肩の力を抜いた。面倒なら面倒なまま行くしかない。簡単なものを探しているわけではない。魔王を殺すための、残り一をゼロにする道具を集めている。楽なはずがなかった。

探偵が紙を畳み、懐へ入れた。

「外の封鎖状況は見ておく。王国の目が薄いなら楽だが、王女が絡むなら別の目があるかもしれない」

解剖医は瓶を片づけた。

「処刑場なら破傷風も腐敗も見る。古い血抜き溝は危ない。落ちるなよ」

「落ちたら拾え」

「拾う前に何に触れたか見る」

「最悪だな」

「大事だ」

フリートはそのやり取りを聞きながら、最後に別紙へ短く必要項目を書き出した。封鎖状況。処刑場構造。王女の位置。デュラハンの剣保持。鎧破砕不可。反動観測。首断面。心臓。どれもまだ仮だが、線は引かれた。

メイドは地下の天井を見た。壊れた家具で作った机、傾いた椅子、湿った壁、拘束の跡が残るフリート、紙を隠す探偵、瓶を並べる解剖医。ここはまだ拠点とは呼べない。勇者もまともに抱えていない。子供用の部屋もできていない。悪魔族一人を置くだけでこれだけ揉めている。

それでも、次に取りに行くものは決まった。

「行くぞ」

メイドが言うと、フリートが紙から顔を上げた。

「今すぐですか」

「準備してからだ」

「珍しく順当ですね」

「黙れ」

フリートは黙らなかった。別の紙へ準備物を書き始めた。探偵は外へ出るために上着を直し、解剖医は古い布と薬品の入った小袋を選び始める。地下は急に狭くなった。やることが増えると、未完成の空間はすぐに息苦しくなる。

メイドは壊れた椅子を足でどかし、処刑場跡の略図をもう一度見た。

主を失った騎士。記録上はそう。

だが、処刑場に残り、断頭剣を握り、自分を殺せる武器を離さないアンデッド。

その情報は、最初から少しだけ歪んでいる。

歪みを確かめるには、行くしかなかった。

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