カウントダウン
サキュバスは、布の上で半身だけ起こされていた。床へ直接転がしておくなと解剖医に言われたからで、扱いが良くなったというより、壊すと使えないから置き方を変えただけだった。手首と足首には布と革を合わせた拘束があり、口元にはまだ噛ませ布が残っている。声を出させれば契約を挟まれるかもしれない。そう考えての処置だったが、目だけは自由だった。自由な目はよく喋る。最初は怯えかと思ったが、違った。怒っている。しかも、かなり正確に怒っている目だった。
メイドはその視線をしばらく受けてから、椅子の脚を一本折って短くし、傾いていた座面を無理やり水平に近づけた。ぎしりと木が鳴る。座るとまだ少し揺れたが、倒れはしない。探偵は外で広告の経路を見ている。解剖医は奥の水場で瓶を並べていた。地下の小部屋には、メイドとサキュバスの二人だけが残った。
「逃げるな。契約もするな。そうすれば傷つけない」
サキュバスは布越しに何かを言った。音は潰れているが、抗議であることだけは分かる。メイドは少し迷い、布を外す代わりに、首元の締め方だけを緩めた。喋らせる気はない。だが、息苦しさまで放置するつもりもなかった。そういう中途半端な処置が、自分でも嫌になる。
「殺す気はない。そこは信用しろとは言わないが、事実だ」
サキュバスの眉が動いた。信用しろと言わないなら、なぜ言ったのか。そういう顔だった。もっともだと思った。メイドは慰めがうまくない。慰める時ほど、事実を置いてしまう。大丈夫だと言うには、この地下は大丈夫ではない。怖くないと言うには、縛っているのはこちらだ。助けると言うには、助ける前に捕まえてきた。どの言葉も半分は嘘になる。なら事実だけを置くしかないが、事実だけ置かれて楽になる者は少ない。
「人に愛されると、ろくなことにならない時がある」
口に出してから、メイドは自分でも雑な入り方だと思った。サキュバスの目が細くなる。噛ませ布の奥で、息が一つ荒くなった。
「人に求められて、必要だと言われて、そばに置かれて、それで楽になるとは限らない。愛されている形のまま苦しめられることもある。だから、悪魔族だからといって全部を道具とは思っていない」
サキュバスは黙っている。黙っているが、さっきより怒っている。メイドは続けるべきではないと分かっていたが、止め方も分からなかった。
「貴族の子に飼われたことがある。あれも、向こうからすれば気に入っていたのだろう。嫌悪だけで人はああいう扱いをしない。大事にするふりをして、逃げ場を塞ぎ、壊れない程度に扱う。だから、同じにするつもりはない」
そこで、サキュバスが身体を強く捩った。手首の革が鳴り、布がずれる。メイドは反射で押さえたが、押さえる力は抑えた。強く押せば骨がいく。サキュバスはそれを分かっているのか、分かっていないのか、噛ませ布を睨みつけるように顎を引いた。
メイドは息を吐き、布を外した。
「契約を出したら、すぐ戻す」
「最初から外してくださいよ!」
声は思ったより明るかった。怒りで震えているのに、音の芯が妙に通る。地下の壁に当たって返ってきたその声に、奥の解剖医が一度だけこちらを見た気配がしたが、入っては来なかった。
「契約が怖いから会話しません、でも理解しています、同じにしません、ですか。最悪です。雑に扱うなら雑に扱うで一貫してください。中途半端に気を遣われると、こちらがどこで怒ればいいのか分からなくなるんです」
メイドは言い返せなかった。正しいからだ。
「それに、悪魔族を何だと思っているんですか。便利な記憶処理道具ですか。契約を挟んで邪魔をする危険物ですか。精気を与えれば生きている軽量生物ですか。全部間違ってはいませんけど、全部そのまま運用に使ったら失敗します。食事が軽いのと、管理が軽いのは別です。生存コストが低いのと、不満が出ないのも別です。そもそもこの部屋、湿気が強すぎます。寒い。布も悪い。拘束も肩が抜けます。契約以前に、扱いが下手です」
「解剖医に言え」
「言いましたよ、目で」
「目で言うな」
「口を塞いだのはそちらです!」
それは本当にそうだった。メイドは黙った。サキュバスは一度息を吸い、そこで言葉がさらに速くなった。
「まず、悪魔族は騙さないのではなく、騙すと契約処理が面倒になるから騙しにくいんです。契約は強いですが、強いから効率が悪い。結んだ瞬間に縛られる。縛った側も縛られる。だから雑務には向きません。強い個体ほど使い道が狭い。人間はそこを見ずに、悪魔族なら欲望を触れば何とかなると思う。魔族側は逆に、契約でしか使えない面倒な生き物だと思う。どちらも間違っていません。でも、運用としては足りません」
メイドは椅子に座ったまま、サキュバスを見ていた。怒鳴っているようで、内容は崩れていない。言葉が感情から出ているのに、並びは妙に整理されている。
「通貨の価値観も違います。金を積まれても、こちらには食べられません。地位も同じです。人間の役職を渡されても、悪魔族の欲求には刺さらない。必要なのは、条件です。安全に能力を使える場所、契約を無駄に結ばなくて済む環境、供給の見込み、役割の明確化。それがない状態で捕まえて置いておけば、暴れるか、腐るか、黙って事故を起こします」
「事故」
「そうです。契約は意図して結ばなくても、言葉の形と状況が揃うと事故になります。だから、会話を全部禁じるのは方向としては分かります。でも、その場合は紙、符丁、身振り、区画の色分け、立ち入りの制限で代替する必要がある。何も用意せず、ただ喋るなと言うのは運用ではありません。布を噛ませて済むのは一晩までです」
メイドは、壁に炭で書かれた解剖医の印を見た。成人用仮寝床、子供用区画、魔族仮置き場、水場、汚物処理。昨日まではそれだけでも面倒だと思っていたが、サキュバスの話を聞いていると、足りないものの方が多い。
サキュバスはさらに続けた。
「転生者を奪うつもりなんでしょう。しかも子供が混ざる可能性がある。なら、記憶を消して終わりではありません。転生後の記憶を軽く除去するだけでも、直後の混乱、発熱、恐怖、依存、泣き声、排泄、睡眠、全部出ます。子供は説明を理解しません。嘘も見抜けません。大人の勇者なら閉じ込めておけば恨むだけで済みますが、子供は閉じ込めた理由を理解できない。泣き声が漏れれば外にバレる。泣き声が聞こえなければ中で死ぬ。どちらも駄目です」
「解剖医と同じことを言う」
「同じことを言われているなら、まだ足りないということです」
サキュバスはそこで一度言葉を止めた。感情で走っていた口調が、少しだけ変わる。怒りは残っているが、呼吸が整い始めた。目つきも違う。相手を責めるための言葉から、何かを通すための言葉へ切り替わっていくのが分かった。
「分けてください」
「何を」
「区画です。最低でも、成人勇者、子供、会話不能の魔族、会話可能な悪魔族、危険物、死体、記録、食料。全部同じ地下に置くなら、接触しないように分ける必要があります。通路も一つにしない。水場を共有しない。記憶処理の前後で部屋を分ける。処理前は逃走リスク、処理後は混乱リスクが高い。悪魔族を記憶処理に使うなら、その前後に別の誰かが確認する。処理した側の言葉だけで完了扱いしない」
「信用できないからか」
「違います。信用していても、事故は起きるからです」
その言い方は、さっきまでよりずっと冷静だった。メイドはそこで初めて、目の前のサキュバスがただ反発しているだけではないと判断した。怒っている。苛立っている。拘束されたことにも、雑な同情にも、布にも、床にも、不満は山ほどある。だが、言っていることは全部、運用に落ちる。
「供給は」
メイドが聞くと、サキュバスはすぐ答えた。
「通常食料は少なくていいです。こちらは精気系で維持できます。ただし、乱暴に供給すると相手が壊れます。人間から取るなら管理が必要です。勇者から取るのはやめた方がいい。精神が不安定な相手と接触させると、こちらにも影響します。処理担当と供給担当は分けてください。無理なら、魔族から取る方がまだ安定します。ただし種類によります」
「面倒だな」
「だから言っているんです。悪魔族は便利ではありません。面倒です。ただ、面倒なものを面倒なまま整理すれば、他の魔族ではできないことができます」
「例えば」
「記憶の縁を触る。夢の形で恐怖を薄める。本人が奪われたと認識しないよう、直近の出来事だけを曇らせる。完全消去は危険です。穴が大きいと逆に気づきます。薄く削る。嫌な夢を見た程度に落とす。その後、起きた時に見えるものを整えておく。部屋、匂い、声、食事、説明。記憶処理は処理だけでは終わりません。起きた後の最初の五分の方が大事です」
メイドは黙って聞いていた。サキュバスは、拘束されたまま説明している。手首はまだ縛られ、足も動かせず、逃げることもできない。なのに、話の中では既に地下全体を動かしていた。どの部屋に誰を置くか。どこで泣き声を止めるか。どこに記録を置くか。どの通路を閉じるか。誰に確認させるか。捕獲対象だったはずの悪魔族が、いつの間にか運営側の目で話している。
「それを全部、考えていたのか」
「考えますよ。捕まえられて、寒い布に置かれて、口を塞がれて、慰めのつもりで最悪の話を聞かされれば、嫌でも考えます。このままでは自分がどう扱われるか分かりませんから」
「悪かった」
メイドは素直に言った。サキュバスは一瞬だけ目を丸くした。謝られると思っていなかった顔だった。
「謝るなら、拘束を外してください」
「それはまだ無理だ」
「ですよね」
サキュバスは深く息を吐いた。怒りはまだ消えていない。だが、言葉の勢いは落ち着いていた。
「では、せめて手元を動かせるようにしてください。図を書きます。口だけで説明するより早いです」
メイドは少し考えた。契約の危険。逃走の危険。だが、手を完全に縛ったままでは、話が進まない。メイドはサキュバスの片手だけを緩めた。もう片方は縛ったままにする。脚もそのまま。サキュバスは自由になった片手をしばらく握ったり開いたりしてから、床の炭を指で取った。
地下の床に、線が引かれる。
最初は拘束されている者の雑な落書きに見えた。だが、すぐに部屋割りになった。成人勇者。子供。悪魔族。会話不能の魔族。水場。処理前。処理後。観察。記録。危険物。線は速い。迷いが少ない。解剖医の印と重なるところもあるが、違うところも多い。解剖医は死なない場所を見ていた。サキュバスは、事故が起きない流れを見ていた。
「ここ、子供を置くなら布を替える。匂いを固定してください。目覚めるたびに匂いが変わると不安定になります。ここは大人用。暴れるなら角が少ない方へ。こっちは悪魔族。会話が必要な時だけ、間に別の者を置く。直接対面を減らす。記録はここ。記憶処理担当と記録担当は分ける。私一人に任せるなら、あとで疑義が出ます」
「自分でそれを言うのか」
「疑われる前提で組まない制度は、だいたい壊れます」
メイドは短く笑った。面白いからではない。あまりにも実務的だったからだ。悪魔族の見た目をして、拘束され、怒りながら、自分が疑われる前提で運用案を出している。戦闘能力とは別の種類の強さだった。
奥から解剖医が戻ってきた。床の図を見て、すぐに黙る。しばらく目で追い、瓶を置いた。
「水場の位置がいい。だがこの子供部屋は冷える」
サキュバスは即座に言った。
「なら布を三重にしてください。あと床から上げる。箱を二つ並べて板を渡せばいいです。完全な寝台でなくていい。落ちても怪我をしない高さにする」
「泣き声は」
「この壁は抜けます。目隠し布を二重。音を吸うものを吊るす。湿気を吸うので交換前提です」
「病気は」
「処理後の子供を悪魔族区画に近づけないでください。精気の流れが乱れます」
解剖医はメイドを見た。目が少しだけ変わっている。少なくとも、今のサキュバスをただの捕獲物として見ていない。
「使えるな」
「だろうな」
メイドは床の図を見下ろした。サキュバスは片手を炭で黒くし、まだ縛られたまま座っている。怒っていて、面倒で、契約リスクがあり、扱いにくい。だが、使える。しかも、今この地下に一番足りないものを持っている。整理する力だ。
「悪魔族の事務か」
メイドが言うと、サキュバスが嫌そうに眉を寄せた。
「その言い方は少し腹が立ちます」
「事務かぁ、じゃあフリートで」
間を置かずに言った。説明はしなかった。サキュバスは何か言い返しかけたが、床の図と自分の片手と、まだ残っている拘束を見て、結局ため息に変えた。
「名前より、先に拘束をどうするか決めてください」
「働くなら緩める」
「条件が雑です」
「細かい条件は自分で書け」
フリートはまた眉を寄せた。だが、炭のついた指はすぐに動いた。床の端に、拘束時の会話手順、接触禁止事項、供給条件、記憶処理前後の確認項目を書き足していく。さっきまで捕獲物だったものが、もう自分の扱い方まで文書化し始めていた。
探偵が戻ってきたのは、その途中だった。彼は床の図を見て、次にフリートを見て、最後にメイドを見た。
「増えてるな」
「秘書だ」
「拘束されたままだが」
「試用期間だ」
フリートが顔を上げた。
「その言い方も腹が立ちます」
「なら、正式採用に必要な条件を書け」
フリートは黙った。黙ったまま、床に新しい項目を足した。筆記具、乾いた布、独立した寝床、会話時の第三者立ち会い、契約確認の禁止文言、供給管理表。要求は多い。だが、どれも運用に必要なものだった。贅沢ではない。整えるための項目だった。
メイドは壊れた椅子に腰を下ろし、傾いた座面の上で少しだけ体重をずらした。椅子はまだ揺れる。地下もまだ寒い。広告は一枚ずつしか使えない。勇者はまだ来ていない。子供用の部屋もない。悪魔族の区画も未完成。金も足りない。外には王国がいて、魔王軍がいて、空中都市の武器にはまだ手が届かない。
それでも、昨日よりは進んでいた。
昨日は、捕まえた悪魔族が布の上で怒っていただけだった。今日は、その悪魔族が地下の運用図を書いている。
フリートは炭で黒くなった指を見て、少しだけ不満そうに言った。
「せめて紙をください。床は消えます」
探偵が懐から安い紙を一枚出した。解剖医が乾いた板を机代わりに置いた。メイドは拘束をもう一段だけ緩めた。
フリートはそれを当然のように受け取り、すぐに書き始めた。
地下はまだ拠点ではない。だが、拠点になるための順番だけは、ようやく誰かの手で並び始めていた。
フリート(Fleet→素早い、きびきびしたの方です、船団じゃない。)




