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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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16/30

加虐

ダンジョンを本格的に直すと決めた時点で、屋敷に残る理由は消えた。国はあの遺跡を放置している。防衛に使うにも導線が悪く、構造は古く、罠も仕掛けも味方の運用に向いていない。兵を入れれば兵站が詰まり、補給を通せば守る側の方が先に疲弊する。占領しても損だ。だから放置する。一方で魔王軍は、ファシリテーターを使い、遺跡と相性の良い魔族を噛ませれば利用自体はできる。だが、勇者の痕跡や遺物が点在している可能性が高く、何より最重要拠点として手を出すほどには面倒が多い。欲しいが、真っ先に抱え込みたくはない。そういう場所だからこそ価値がある。誰にとっても中途半端で、だから今は空いている。私はそこを使う。オークチョップも手に入れた。魔王を本気で痛めつけるための札は増えた。残るのは拠点だけだった。ならもう、この屋敷で首輪をつけられている意味はない。切るべきものを切って出るだけだと、そこではっきりした。


だから、あれに会いに行った。公爵の息子だ。薬で女紛いの体にされてからも、私はそれを気に入られていた。あれは昔、まだ小さかった頃に一度撫でてやったことを忘れていない。甘いものを半分押しつけてきた時に笑って受け取ったことも、熱を出していた夜に頭へ触れてやったことも、子供の記憶らしい歪んだ形で抱え込んだまま育ってしまった。そのくせやることは最低で、暴力は雑で、支配の仕方だけは学んでいる。薬を使って身体を変え、首輪を付け、痛めつける理由を毎回変える。私はずっと気に食わなかった。勇者として見ても、人間として見ても、あれは嫌悪の対象でしかなかった。ただ、今までは屋敷にいる以上、殺しても得がないと切っていた。公にとっても、いくらどうしようもなくても、あれが死ぬよりは生きている方がまだましだろうという計算もあったし、年齢の若さを見れば、ここまで歪んだ執着が本気の何かだとは考えたくなかった。だが、出ていくと決めた時点で、その計算は要らなくなる。私はもうここに戻らない。なら、最後にあれを前にして何もせず終わる方が、よほど気持ちが悪かった。


夜、呼ばれた部屋へ入ると、窓は閉じられ、香が重く滞っていた。あれは長椅子に座っていたが、本を読んではいなかった。私が入った瞬間から、視線だけはこちらを見ていた。薬のせいで白く薄くなった顔に、昔の面影だけが妙に残っている。腹立たしいほど綺麗な造作だった。あれは立ち上がり、何も言わず近づいてきて、いつものように私の喉元へ手をかけた。首輪の縁を指でなぞり、締める前の癖まで変わっていない。その手つきだけで、私はもう十分だった。私はあれの手首を外し、そのまま喉へ両手をかけた。壁に押しつける。骨の位置をずらさず、呼吸だけを潰す形で力を入れる。あれの目が見開いた。最初は反射で私の手を剥がそうとした。指先から伝わるのは、憎悪をぶつけるに相応しい鉄の硬さではなく、ただの若い人間の、驚くほど頼りない肉の柔らかさだった。 首輪の冷たい金属が私の指に食い込み、その内側で、脈打つ鼓動が暴れている。 事務的な処理ではない。これはただの、正当化もできない肉体的な衝突だ。爪が手首へ食い込み、膝が腿へ当たり、喉から潰れた音が漏れる。それでも私は緩めなかった。ここで終わらせるつもりだった。嫌悪も、鬱陶しさも、薬も、首輪も、全部まとめてここで潰してから出ていく。そのつもりで押していた。


だが、途中であれの抵抗が弱くなった。助かろうとしてやめたのではない。最初から何かおかしいと分かる弱まり方だった。私の手首を掴んだ指が、振り払うためではなく、確かめるみたいに触れてきた。喉を潰されているのに、あれは私から目を逸らさなかった。そこで初めて、こっちの方が気味が悪くなった。呼吸を奪われながら、あれは無理に声を出した。「覚えてる」 掠れていて、途切れ途切れの声だった。

「あの時、撫でてくれた。優しかった。あれが、ずっと」

「……ねぇ、もっと強く。君の手、あの日と同じだ」

掠れた囁きが、重い香の煙を裂いた。 殺そうとしている私の手に、あれはあえて自分の喉を押しつけてくる。

「……嬉しいな。君に、壊されるの、ずっと待ってたんだ」

言葉になっていない。告白の形もしていない。ただ、昔の断片だけが、欲とも執着ともつかないまま腐って残っていた。私は手を緩めなかったが、押し込む角度が少しだけずれた。そのずれを自分で感じた瞬間、腹の中で舌打ちしたくなった。理解したからではない。理解できる部分が少しだけあったのが最悪だった。子供の頃の記憶が歪んだまま欲望へ変わり、嫌悪されることまで込みで私へ絡みついていたのだとしたら、本当に救いがない。

「気持ち悪い」

それしか出なかった。あれは苦しそうに笑った。通じたとも、拒絶されたとも言い切れない笑い方だった。告白が成功した顔でも失敗した顔でもない。ただ、自分の中にあったものを吐いたせいで、余計に濁っただけの顔だった。


そこで、私の手が止まった。止めたのではない。殺すつもりだったのに、止まった。嫌悪は残っている。気に食わなさも消えていない。なのに、そのまま骨を折って終わらせるだけの一本線に戻れなかった。あれもまた、抵抗を続けなかった。助けを乞うのでもなく、完全に委ねるのでもなく、中途半端に私の袖を掴んだまま、荒い呼吸だけを続ける。何も片付いていないのに、そこで終わってしまった。私は手を外した。掌に残ったのは、喉仏の硬さと、消えない熱だけだった。 殺しきれなかったのではない。殺すという行為そのものが、相手の歪んだ肯定に飲み込まれて無効化されたのだ。 吐き気すら、中途半端な温度のまま胃に沈んでいく。あれは崩れ落ちるみたいに壁へ背を預け、喉を押さえたまま咳き込んだ。私はそれ以上何も言わず、部屋を出た。あれも止めなかった。止められなかったのか、止める気がなかったのか、そこも最後まで分からないままだった。


翌朝、私はいつも通りの顔で身支度をした。公爵にも、他のメイドにも何も言わない。言う必要がないからではない。言った瞬間に全部が安くなるからだ。私は息子の部屋へだけ行った。扉を叩いて中へ入ると、あれは起きていた。喉には薄く痕が残り、声は少し掠れていたが、生きている。私を見る目だけが、昨夜より静かだった。私は盆も持たず、仕事の用件も告げず、ただ頭を下げた。

「失礼します」

それだけ言った。メイドとして去る挨拶だった。あれはしばらく黙っていたが、やがてかすれた声で「そう」とだけ返した。あれは鏡越しに、自分の喉に残った赤黒い痣を愛おしそうに撫でた。

「……消えないからね、この痕」

鏡の中の瞳が、昨夜と同じ、濁った熱を帯びて私を射抜く。 私はそれに応えず、開いたままの扉の向こうへと足を踏み出した。その一言にも、引き止める気配はなかった。昨夜の続きを話すでもなく、好きだの嫌いだのを言い直すでもなく、二人とも濁ったままそこで切った。私はそのまま部屋を出て、屋敷を離れた。


その後、屋敷の中で何が起きるかは、あれ自身が決めた。息子は公爵と使用人に、自分が勇者を殺したと言う。間違えて殺した。もう痛めつけるのも飽きた。そういう顔で言う。普段の暴力も、薬も、首輪も、全部知っている人間からすれば、やりかねない話だった。だから屋敷はそれを受理する。勇者は死んだことになり、いなくなった理由もそれで片付く。公爵は深く追わない。追えば家の内側をさらに抉るだけだからだ。あれもまた、表では何も気にしていない顔を作る。実際は違う。飽きたのではない。ただ、愛する相手を失ったせいで、それ以外の手触りが全部どうでもよくなっているだけだ。だがそんなものは内心でしかなく、表に出るのは自分で壊したという形だけだった。


一人だけ、その話をそのまま飲み込まなかったメイドがいる。私の世話を代わりに引き継ぎ、あれの部屋にも出入りすることになった女だ。彼女は服を見る。喉を見て、袖を見る。洗濯物に残るはずの汚れ方を見る。殺したと言うなら、その説明にしては合わない。少なくとも、言われた通りのことは起きていないと分かる程度には整合が悪い。血がない。暴れた割に裂け方が足りない。乱れはあるのに、決定的な痕だけが抜けている。だから彼女は、殺してはいないのだろうと把握する。だが公爵には言わない。他のメイドにも言わない。話すべきではないと思うからだ。知ってしまった隠し事を、正しさのためにわざわざ広げる必要はない。彼女は黙って洗濯物を余分に引き受け、足りない汚れを足すのではなく、余計な整合だけを消していく。屋敷の中でたった一人、嘘が嘘だと分かったまま、その嘘を維持する側へ回る。


私はその頃にはもう、遺跡の方へ歩いている。国が占領するだけ損だと見切って放置したダンジョンを、これから拠点に変えるためにだ。背後の屋敷では、私は死んだことになっている。息子は自分でそう言い、屋敷はそれを受け入れ、一人のメイドだけが沈黙でそれを支えている。全部が綺麗に解決したわけではない。むしろ何一つ片付いていない。あれの言葉も、昨夜止まった手も、気持ち悪さも、全部そのままだ。それでも、出ていく理由はもうある。ダンジョンは待たない。だから私は振り返らず、修理すべき石と土の方へ向かった。



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