解放
地下の床は冷たかったが、背中をつけてみると案外悪くなかった。屋敷の床なら、そんなことをしただけで誰かが飛んできて、姿勢がどうだ、服がどうだ、埃がどうだと口を出したはずだ。ここには誰もいない。首輪を引く手も、鈴の音も、あの気取った声もない。石の天井は暗く、壁は湿っていて、まだ拠点と呼ぶには何もかも足りないが、その足りなさまで自分のものだった。私は炭を拾い、寝転がったまま床へ線を引いた。最初の円は歪んだ。二つ目の円はさらに歪んだ。そこへ矢印を三本、適当な音を口の中で転がしながら足した。
「んー、たん、たん……ここで上がって、ここで落ちる。はい、飛ぶ」
声が地下に小さく返る。ひどい落書きだった。子供が壁に描いた悪戯みたいな丸と線の群れだ。だが、角度は合っている。射出位置から廃村の鐘楼までの距離、高低差、風の入り方、身体にかかる減速、ワイヤーを引っ掛けた時の横揺れ、そのあたりは全部入れてある。見た目が馬鹿なだけで、計算まで馬鹿になったわけではない。
私は起き上がらず、仰向けのまま巨大ボウガンの巻き上げ機に足をかけた。ぎりぎりと弦が絞られる。石床の上に描いた線が、足先で少し擦れて黒く伸びた。まあいい。だいたい頭に入った。私は鼻歌の続きを喉で鳴らしながら、身体を射出台へ転がすように乗せた。昔ならもっと静かにやった。屋敷なら力を抜きすぎても入れすぎても面倒になるから、指一本の置き方まで考えた。だが今は違う。多少石が欠けても、床が削れても、誰も文句を言わない。文句を言う相手がいたとしても、ここまで来る頃にはたぶん入口で迷う。
「んー……よし、いけるいける」
射出の瞬間、胸の奥が軽く跳ねた。身体が地下から外へ投げ出され、夜気が顔に当たる。地上の神殿は一瞬で後ろへ落ち、木々の黒い線が斜めに流れた。弾道は少し高い。風が思ったより横から来た。私は空中で手を伸ばし、腰のワイヤーを鐘楼へ撃ち込む。針が石に噛む。噛んだ。だが鐘楼の方が古かった。引き寄せる力をかけた途端、鐘楼全体が低く呻き、根元から斜めに沈み始める。
「あ、そっちか」
鐘が遅れて鳴った。誰も聞く者のいない廃村に、間の抜けた音が一つ転がる。私は笑いそうになるのを噛み殺しきれず、息だけ漏らした。鐘楼は倒れ、隣の物置を潰した。乾いた木が折れ、屋根板が跳ね、積んであった桶や箱が夜の中へ散らばる。予定では鐘楼を足場にして広場へ降りるつもりだったが、足場はもうなかった。私はワイヤーを切り、倒れかけた鐘楼の上を滑って、潰れた物置の屋根を踏み抜きながら着地した。足元で梁が折れ、床が沈み、何かの棚がまとめて死んだ。
粉が上がった。少し遅れて、屋根の残りが頭上から落ちてきた。
「あー……」
使えそうな棚だった。たぶん地下の記録棚にできた。少なくとも、落ちてくるまではできた。私は瓦礫の中から片脚を抜き、半分潰れた棚を見下ろした。棚は完全に折れていた。引き出しも割れている。中に入っていた古い布は埃で灰色になり、金具だけが使えそうに残っている。私はしばらく眺め、それから鼻歌を一拍戻した。
「たん、たん……金具は生きてる。うん、勝ち」
棚を諦め、金具だけ外して腰袋へ放り込む。物置の奥には鍋が二つ、吊り具が三つ、歪んだ釘が束で残っていた。家具は減ったが素材は増えた。つまり完全な失敗ではない。私はそういうことにした。そういうことにしてしまえば、後は早い。潰れた壁を蹴って外へ出る。蹴っただけのつもりだったが、壁の残りがそのまま倒れた。外がよく見えるようになった。
「明るい」
それだけ言って、私は倒れた壁を踏んで隣の家へ向かった。
隣の家はまだ形を保っていた。入口の扉は外れており、中には長椅子と食器棚、脚の太い机が残っている。机は欲しい。地下の作業台にできる。今度こそ壊さないようにしようと思い、私は机の端を掴んだ。少しだけ持ち上げる。重い。悪くない。木も乾き切っていない。これなら使える。私は機嫌よく、口の中で「んー、よいしょ、よいしょ」と拍を取った。机を外へ引く。床板が一緒についてきた。
床が抜けた。
机は半分だけ外へ出たところで斜めに落ち、脚が一本折れた。残った床板がばきばきと裂け、奥の食器棚が傾き、棚の上にあった皿がまとめて滑り落ちる。白い破片が床下へ消えて、最後に机の天板が割れる音がした。
私は机の端を持ったまま固まった。
「……脚、三本あれば立つ?」
口に出してから、駄目だと分かった。三本でも立つが、作業台には向かない。私は割れた天板を見て、折れた脚を見て、床下に散らばった皿を見て、最後に自分の手元を見た。まだ持っている板は使える。机ではなく板としてなら十分だ。私は天板を外し、折れた脚を蹴って分離し、残った金具を引き抜いた。机を持ち帰る予定は消えたが、棚板と補強材は手に入った。
「はい、分解完了」
少しだけ声が弾んだ。嘘ではない。分解は完了した。予定より乱暴で、損も出ているが、結果だけ見れば部材は増えた。私は床に落ちていた皿の破片を避け、傾いた食器棚へ手を伸ばした。今度は引かず、横から押す。棚は壁ごと外れた。外れると思っていなかったので、棚と壁が一緒に庭へ倒れる。庭に生えていた枯れた木を巻き込み、乾いた枝が盛大に折れた。食器棚は半分割れたが、背板は生きている。
「いい音」
言ってから、さすがに少し黙った。だが誰も怒らない。誰も来ない。誰も、今の言い方が不謹慎だと顔をしかめない。廃村は壊れるために残っているわけではない。それくらいは分かっている。けれど、ここにあった生活はもう帰らない。魔族の拠点になる前に、使えるものは持っていく。持っていく途中で壊れたものは、壊れた形で使う。それだけだ。私は棚の背板を抱え、鼻歌を小さく戻した。
二つ目の村へは、倒れた鐘楼を逆向きの足場にして飛んだ。今度は角度を少し低くする。低くしすぎた。村の手前にあった家の壁を横から抜いた。土壁と木枠がまとめて裂け、私は居間の真ん中を通り、寝室の仕切りを割り、裏口を壊して外へ出た。背後で家の断面が開いたまま、ゆっくりずれる。中にあった寝台は半分潰れていた。布は使える。金具も使える。枠はだめだ。
私は着地して振り返り、家の中が丸見えになった光景をしばらく眺めた。まるで誰かが包丁で横から切った模型みたいだった。壁の中に残っていた棚、寝台、古い箱、錆びた燭台が一度に見える。
「見やすい」
これは本当にそうだった。入口から探すより早い。私は裂けた壁からそのまま中へ入り、布を剥ぎ、寝台の金具を抜き、燭台を拾った。途中で屋根が落ちてきたが、肩で受けるとそのまま脇へ滑った。埃が舞い、髪にかかる。屋敷なら、この時点で身なりを直す必要があった。今はしなくていい。髪に埃がついたまま、私は次の家へ向かった。
広場の集会所は大きかった。長机が二つ、椅子がいくつか、壁際に箱が残っている。今度は慎重にするつもりで、私は入口から入った。鼻歌も少し抑えた。床板を踏む。鳴る。もう一歩。鳴る。三歩目で、床が丸ごと落ちた。
「わ」
短い声だけ出た。身体は落ちる。長机も落ちる。椅子も箱も、床板ごと地下の貯蔵穴へ落ちる。私は途中で梁を掴んだが、梁も折れた。結局、全部一緒に下へ落ちた。暗い穴の底で、机が先に砕け、椅子が跳ね、箱が割れ、その上に私が落ちる。しばらくして、上から床板の残りが降ってきた。
私は仰向けになったまま、穴の上に開いた四角い夜空を見た。
「……ここ、地下あるんだ」
あるに決まっている。集会所に貯蔵穴があるのは珍しくない。確認を怠っただけだ。私は笑った。声に出して笑うほどではなかったが、胸の奥が軽く揺れた。最悪ではない。地下があるなら、地下用の棚や保存箱があるかもしれない。私は起き上がり、割れた机の下を探った。箱の中には古い金具、縄、油紙、使える布が残っていた。長机は死んだが、貯蔵用の箱は生きている。
「勝ち。これは勝ち」
今度は少しはっきり言った。誰にも聞かせるつもりはない。自分の調子を戻すための音だった。私は箱を二つ抱え、壊れた床を足場にして外へ上がった。上がる時に入口の柱へ手をかけたら、柱が抜けた。集会所の屋根が片側だけ沈む。私は柱を持ったまま外へ出た。柱も使える。屋根は落ちた。まあいい。
三つ目の村へ飛ぶ頃には、鼻歌は隠す気がなくなっていた。歌というより、弾道を刻む拍だった。「たーん、たん、たーん」と言いながら、倒れた扉の裏に炭で線を書く。円を描く。矢印を足す。横風の分だけ点をずらす。計算は雑に見えるが、頭の中ではきちんと組んでいる。私は荷物をワイヤーで縛り、巨大ボウガンの横に固定した。締めすぎた。箪笥が割れた。引き出しが飛び出し、中の古い服が広場に散らばる。
「ん、やりすぎ」
私は手を止めた。箪笥はもう家具としては使えない。だが引き出しは箱になる。板は棚になる。服は布になる。何も失っていない、とは言わない。失っている。けれど、それで足が止まるほどではない。私は散った布をまとめ、引き出しだけ重ね、割れた箪笥の側板を蹴って外した。
「家具じゃなくて、素材。はい、解決」
明るく言ったつもりはない。けれど、声は軽かった。自分でも分かるくらい軽かった。屋敷では、失敗のたびに首の後ろが冷えた。何を壊したか、誰に見られたか、どんな嫌味が来るかを先に数えた。今は違う。壊れたら、壊れた形で使えばいい。使えなければ次の村へ行けばいい。村は多い。失われたものは多い。その多さに腹が立つ一方で、今だけは、その残骸が私の手を止めない理由になっていた。
荷物を地下へ運び込む頃には、夜は深くなっていた。地上の神殿は静かだった。掃除した床、整えた祭壇、閉じた扉。そこには生活の匂いを出さない。外から見れば、ただの古い墓所を少し手入れしただけに見えるようにしておく。だが地下へ降りれば違う。壊れた棚板、外した金具、貯蔵箱、布、梁、柱、扉板、鍋、釘、燭台、机だったもの、箪笥だったもの、家だったものが、少しずつ床に並んでいく。
私はそれらを見て、腰に手を当てた。
整ってはいない。美しくもない。新品の家具など一つもない。けれど、地下は空ではなくなった。棚板を立てれば武器の仕切りになる。梁は通路の補強に使える。扉板は隠し棚の蓋になる。布は寝床にも梱包にも目隠しにもなる。潰れた集会所から取った箱は、台帳の保管に使える。全部、壊したせいで形は悪い。だが形が悪いだけで、使える。
私は床へまた寝転がり、炭で次の配置を書き足した。寝転がると背中が冷える。けれど嫌ではなかった。天井の石目を眺め、鼻歌を少しだけ続ける。さっきより低い音だった。疲れている。だが、屋敷で削られた時の疲れとは違う。身体を使って、壊して、拾って、運んで、その結果として疲れている。誰かの退屈を満たすために立たされていた疲れではない。
「次は寝台」
そう言ってから、潰した寝台のことを思い出した。
「……寝台だったもの」
少し笑った。地下に声が返る。私は炭の線を伸ばし、寝台だったものを置く場所に丸を描いた。丸はまた歪んだ。まあいい。ここでは歪んでいても、誰も直せとは言わない。歪んだ丸の中に、私は小さく矢印を足した。明日の射出角だ。今度はもう少し低くする。いや、低くしすぎるとまた家を裂く。裂いたら見やすい。見やすいが、寝台は死ぬ。
私はしばらく考え、鼻で短く音を鳴らした。
「半分だけ裂くか」
それができるかどうかは、明日やれば分かる。私は炭を置き、目を閉じた。地上では神殿が静かに眠っている。地下では、廃村の残骸が不格好に積まれている。どれも壊れて、汚れて、足りないものばかりだ。それでも、ここにはあの息子がいない。命令もない。鈴もない。壊したものを見て笑う余裕がある。失敗しても次へ飛べるだけの空間がある。
それだけで、十分すぎるほど軽かった。
先ずは借金返済、保証人が処刑されると身元がバレる、流石に最優先でそればかりは解決しなければ。




