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不良債権ダンジョンと借金三千億年から始まる魔王討伐記  作者: 伊阪証


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12/30

情熱

銀器を磨く音は、静かな屋敷ほどよく伸びる。


朝の食堂はまだ半分眠っていた。窓際の白が冷たく、卓布の皺が浅い影を作っている。私は燭台の台座を布で拭きながら、磨き跡が残らない角度だけを選んで指を動かしていた。力を入れれば一息で終わる。だが一息で終わると人の目が止まる。止まれば覚えられる。勇者の力はそういう形で使うものではない。主神は太陽と情熱の神だ。熱が上がれば出力も跳ねる。怒りも焦りも、そのまま脚や腕へ流れ込む。だから私は逆をやっている。感情を平らに均し、出力を底へ落とし、必要な時だけ一瞬で上げる。そうしておけば息は乱れず、眠らずとも身体は保つが、屋敷の中ではただの手際のいい使用人にしか見えない。神が与えたものだからこそ、神は露骨な行使を嫌う。力を見せれば寄ってくる。寄ってくれば中心になる。人を集める形の勇者は、乗っ取りにも狂信にも近い。だから蓋がある。私も今はその蓋に従う方が都合がよかった。


背後で、同じ持ち場のメイドが大きな水差しへ手を伸ばした。こちらに持たせたくないのだと分かる手つきだった。虐待そのものを止める力はないが、無理はさせないようには働く。誰も口にはしない。だが屋敷の中では、そういう遠回りな庇い方しか残っていない。私は礼を言わず、代わりに空いた方の手で卓の端に積まれた皿を二枚持った。三枚でも四枚でも運べる。だから二枚にする。持てることを見せないためだ。神の制限は、力の不在ではなく、力の露出を許さない形で効いている。人を従わせるような気配も、目立つような異常も、屋敷の中では全部が害だった。


昼前、花瓶の水を替えるついでに私は客間の前を通った。扉は半分だけ開いていて、中では執事が来客の名を読んでいる。私は足を止めない。花を抱えたまま、通り過ぎる一拍の間だけ耳を開く。南の商会、夜、遅れた荷、裏口。必要なのはその程度だ。名を正確に覚える必要すらない。名は物になる。物になれば残る。私は時間と出入り口だけを頭へ残し、そのまま使用人用の梯子を上がった。


屋根裏は乾いている。乾いているが、そう見えるだけで梁の裏には埃が溜まり、角には蜘蛛の巣も残っている。掃除されていないのではない。掃除させていないのだ。私は板の継ぎ目へ爪を差し込み、一枚だけ静かに浮かせた。中から紙を二つ抜く。片方には時間、片方には部屋の番号だけが並んでいる。名は書かない。書けば見つかった時に意味を持つからだ。必要な情報は一つの場所に集めない。屋根裏には乾いた紙、地下には布と刃物、壁裏には鍵と小さな金だけ。どこかが見つかっても全部は飛ばないよう、最初から分散させてある。昔からこういう場所を作るのが好きだった。押し入れの奥、庭石の隙間、机の下の板の裏。秘密基地だと一人で喜んでいた頃の癖が、腐ったまま手先に残っている。浪漫は消えたが、手順だけは今も役に立つ。紙を戻し、板の継ぎ目へ埃を薄く払ってから私は梯子を降りた。


夕方、庭の剪定に出る。塀の向こうに二人分の気配が来たが、私は先に振り向かなかった。枝を切り、落とし、束ねる。その動きの途中で、元ピンカートンの男が低く言った。「南の夜番、表だけ増える」 私は鋏を入れたまま聞く。「裏は」 「薄い」 その一言で十分だった。元ハンターの部下の方が、もう少し言い足したそうに息を吸った気配がしたが、私は待たない。「分かった。戻れ」 向こうが一拍だけ黙る。苦労しているのは分かる。夜の現場を見て、朝にはここへ立っているのだから当然だ。それでもそこで柔らかい言葉を返す理由はない。労えば重くなる。重くなれば線が近づく。私は剪定の手を止めず、二人の足音が塀の向こうから遠ざかるのを聞き流した。


深夜、屋敷の裏口を抜ける時には、出力はもう底まで落ちていた。高くすれば速い。高くすれば強い。だが高いままでは勇者の気配が夜気の中に滲む。必要なのは強さではなく、届くまで見つからないことだった。私は石畳を外れ、川沿いの湿った裏道へ入った。南の商会の表は明るい。槍が四本、灯りが二つ、退屈そうな衛兵が交代で欠伸を噛み殺している。だから裏へ回る。木箱の積み方が雑だ。急いで荷を動かした痕だろう。通路は狭く、足音を吸う。私は箱の陰で待った。


対象は商会主でもなければ名簿に載る客でもない。その外で動く運び役だ。こいつが今夜の帳面を持って裏口を通れば、別の倉庫へ荷が流れ、明日の朝には一つの契約がまた延びる。切るならここだった。男は一人で来た。左肩に帳面袋、右手に短い棍棒。歩き方は戦う足ではなく、逃げる足だ。だから斬るだけなら簡単だ。だが私はすぐには出ない。まず流れを見る。右、左、右。息を吸うのは右足が前へ出る手前。荷の重みのせいで、その瞬間だけ胸が少し開く。肩も上がる。そこに合わせれば、動きは一拍ずれる。


私はその一拍だけ、出力を上げた。


派手なことは何もしない。光も音もいらない。自分の脚を跳ねさせるのでも、腕を膨らませるのでもない。ただ相手の胸へ、吸うはずの拍へ、薄い熱を差し込むように入力を乱す。勇者という概念はエネルギーの入出力へ干渉する。怒りに任せればただ火力になるそれを、私は冷えたまま手で扱う。男の喉が半拍閉じた。吸うはずの息が胸へ入らず、右足に乗るはずだった重みが遅れる。棍棒を上げるには肩が遅く、振り向くには腰が遅い。止めたのではない。動きが成立しない一拍を作っただけだ。


その半拍へ剣を通す。


剣はもう抜いてある。構えない。振りかぶらない。耳の下から喉へ最短で入れる、ただそれだけの線だ。剣術そのものは普通でいい。普通の斬撃が、崩れた流れには一番深く刺さる。刃が肉を裂く感触は短い。男は何が起きたか分からない顔のまま膝を折った。私は追わない。勝ちを見ない。死体も見下ろさない。必要な一太刀はもう終わっている。そこで出力をすぐ底へ戻す。熱が消える。勇者の気配もまた沈む。男が倒れる前に、私はもう通路の外へ出ていた。


振り返らず、川沿いを抜け、石段を上がり、裏口から屋敷へ戻る。地下の使われていない区画で剣を拭き、布を替え、刃と鞘を別の箱へ戻した。全部を一箇所には置かない。屋根裏の紙、地下の刃、壁裏の鍵。秘密基地の延長は、こういう時だけ実用に変わる。自室へ戻る頃には空が白み始めていた。眠る必要はない。だから寝台には腰を下ろすだけでいい。目を閉じ、出力をさらに落とす。朝まで保てば、それで済む。


翌朝、私は何事もなかったようにパン籠を運んでいた。自分で見に行く気はない。見た瞬間、線が近くなる。だから庭に出て、昨日の続きみたいに生垣を切っている。塀の向こうにまた二人分の気配が来る。元ピンカートンの男が言った。「昨夜の運び役、今朝見つかった。商会は裏口を閉めてる」 元部下がすぐ続ける。「中で揉めてる。荷は止まった」 私は鋏を入れたまま、「そうか」とだけ返した。それで終わりにする。向こうは少し黙った。もっと細かく言えるだろう。誰が怒鳴ったか、どの荷が遅れたか、今夜はどこを締めるか。だが私は求めない。報告そのものに大した価値はない。塀と柵のこちら側で、それを雑にあしらったことの方が重要だった。向こうも苦労している。それは理解している。理解しているが、そこで丁寧に受け取る気はない。柔らかく返せば、その分だけこの関係が重くなる。


「ああ、ありがとう」


私がそう言うと、元部下の方が一瞬だけ息を詰めた。だが反論はしない。二人の足音が遠ざかる。私は切った枝を束ね、庭の隅へ運ぶ。鋏の音だけが一定に響く。静かな朝だった。だが昨夜斬った一人分だけ、街の流れは確かに歪んでいる。私はそれを自分の目では確かめない。塀越しに聞いた、それだけで終わらせる。終わらせたまま、次の仕事へ戻る。


それで足りる。足りなければ、また今夜やるだけだった。


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