第21話 ミルクティー
思えば、ミルクティーはご褒美だった。
かつての小学校や中学の同級生がいる地元では、やはり旧友達とばったり出くわすことがあり、そのたびに自分がなにもせずに笑っていたあの教室に引きずり込まれてどん底まで落ちるから、高校を卒業してすぐに家を出た。
だからなにになりたいという目標もない公立大学で、なにやらを学びながらアルバイトに明け暮れた。我儘を押し通してのひとり暮らしだから、仕送りはほとんど貰わずに生活していて、食事に掛けられる費用は少なく、いつも質素だった。
100円ショップのボトルに水道水を入れて持ち歩き、作り置きした料理を弁当箱に詰めて5日間ずっと同じものを食べ続ける。
金曜日の夜。
今週も生きていた自分に対するご褒美がレジ横のホットケースに並ぶミルクティーだった。1週間のうちたった1本だけ買える150円の、ローレンには大きな値段のご褒美。
温かいミルクティーを手に持ったときだけ、人間らしくなれた。
床に座って、壁に寄りかかって、部屋を暗くして飲むミルクティーがローレンにとってたったひとつの至福の時間。
ミルクティーだけが、ローレンの前世で最後まで残っていた色だった。辛うじて生きていられた最後の糸。なんの色もない世界に揺れる薄茶色の生命線。
「本当にミルクティーが好きなんだな」
その声で我に返る。
マグカップの中のミルクティーに視線を注いでいたローレンは顔を上げて、向かいに座るブレンダンを見た。
ミルクティーを淹れてくれた本人であるブレンダンは、頬杖をつきながら微笑んでいる。
「うん。美味しい」
緊張が解れるというか、なんというか。
「しかし、自分が作ったものをそこまで気に入ってもらえると嬉しいもんだな」
そうか、微笑んでいるのは嬉しいからなのか。
ブレンダンはミルクティーを飲んでいないのに、どうしてそんなに幸福に満たされているような顔をしているのか不思議だった。
善人なのだろう。
これまでに悪行など一度もしたことがなくて、根からの善行者。だからそんなふうに笑えるのだ。
そこへ玄関扉がノックされる音がした。ベンはシャワーに行っているので、玄関に向かったのはブレンダンだ。
戸を開けた気配がある。外の音が漏れ聞こえた。
「ご葬儀のお知らせです」
知らない声だ。
「葬儀? 誰の──」
と、ブレンダン。軍以外に知り合いのいない彼はもしかしたら街で葬儀に呼ばれる想定をしていなかったのかもしれない。かなり驚いた声で、なにかをびりびりと開く音があった。案内状の封か。
「……ハウソン……」
呟くようにブレンダンが言う。
ハウソン?
どこかで聞いたことがあるな。どこだっけ。
はっとした。
キースだ。
キースのファミリーネームがハウソンだ。
まさか自殺?
ローレンは立ち上がってブレンダンから手紙を奪った。
喪主、キース・ハウソンとある。
では、死んだのは──両親ふたりの名前が連なっていた。
まさか、まさか。
この前の夜、泣いていたのは──?
ローレンは走った。
「お、おい、ローレン!?」
ブレンダンの腕を擦り抜けて走る。
助け続けられないからと助けなかったけれど、もしかしてそれが理由でキースをさらに地獄に落としたのではないか。彼に過ちを起こさせたのでは?
また、私がなにもしなかったから。
いやだ、いやだ!
キースの店はCLOSEの掛看板が傾いたままドアノブに引っ掛かって閉ざされている。ローレンは拳でドアを叩いた。
「キース! キース、出てきて!!」
隣や向かいの住民達が奇異の眼差しを向けてきても手を止めないでいると、ようやく、がちゃりとドアが開いた。
喪服に身を包んだキースだった。
夜の蝙蝠とは違う、悲しみに満ちた服。
「キース! あなた、まさか、まさか──!」
キースに詰め寄ると、きょとんとした顔のキースが苦笑した。服と同じく悲しみに満ちた顔だ。
「僕じゃないですよ」
僕は殺してない。
そう言い終えたあと、いつの間にか店内にいたふたりの背後でドアがぱたんと閉まる。
静寂。
キースは踵を返して、カウンターの奥にある2階へと続く階段に座り込んだ。
「母の無理心中のようです」
「……え?」
「僕が夜、出掛けているのを薄々勘付いていたのでしょう。誤嚥性肺炎を起こしていた父の老い先が短いことを悟った母が、父を。そのあとで自殺したようです。僕が帰ってきたときには、既にふたりとも亡くなっていました」
キースが手に掛けたのではなかった。ローレンはてっきり、自由を渇望したキースが道を踏み外したのかと思っていたのだ。
そうか。
違ったか。
そう考えていると、キースがくすくすと笑い始めた。肩を揺らし、眉根を寄せて苦しそうに笑う。
それから急に、魂が抜けたように無表情になった。
その目でローレンを見上げてくる。
「僕がふたりを見付けたとき、どう感じたと思いますか。
──ほっとしたんです。
自分では手を下せない臆病者だから、こんな毎日が続くことに嘆きながら耐えるしかなくて、心のどこかでいなくなればいいと願っていました。出来れば、僕は被害者で。他人から見れば、できるだけ可哀想な子に写るように。
まあ、僕を健気だと褒め称えていた人達は心中を聞いて、本当は虐待していたんじゃないかと噂しているようですが、もう、どうでもいいです。
そんな奴らよりも。
とにかく、ひどいと思いませんか。
10ヶ月間も妊娠という不自由な思いをさせて、女性が気にする体型の変化を強制的に起こさせ、出産という命懸けを乗り越えてもらって、夜中に何度も目を覚ます僕を何ヶ月も寝かしつけてくれて、あらゆる危険から守り、毎日美味しいご飯を作って愛してくれた母の死体を見て、僕はほっとした」
キースは、もう笑顔を貼り付けるのを辞めたようだった。彼が既に感情を表に出すのをとうの昔に忘れていたのと同じで、表情にはなにもない。
「なのに眠れないんです」
キースは視線を落として、床を見つめる。
「ふたりが僕を呼ぶ声はもう二度と聞こえてこないはずなのに、僕は自由のはずなのに、夜中にトイレに連れて行くことも着替えさせることも寝返りを打たせてやることも水を飲ませてやることも暴れる腕を抑えることも殴られることや暴言に耐えることも、もうないのに。
眠れないんです。
罰が当たったんでしょうか。
両親の死を望んだ、罰が」
ローレンは後退った。
なにもしないことを選択した結果が、目の前にある。
キースは風習に従って自分の両親を介護していただけ。誰も助けてはくれず、それでいて助けて欲しいのだろうとわかっておきながらローレンは助け続けられないからと手を差し伸べず、なにもしなかった。
あのときと同じ。
笑って、やりすごして、自分の番が回ってこないことをきょろきょろと窺っていたあの日と同じ。
森に帰りたい。
誰もいないあの森で、ずっとひとりでいたい。
そうでなければ、明日を生きる力すら湧いてこない。
「ローレン、どうした!?」
そこへ入ってくるブレンダン。
肩を掴まれて振り向かされるけれど、小指の糸がぐるりと視界で踊っただけで目を合わせられない。
「キース……葬儀の案内ありがとう」
しかし喪主のキースがいるとわかって、儀礼を通した。一礼するのが見える。
それすら、ローレンはすべて自分の責任に感じた。
「……私がすべて悪いんです」
呟くと、ふたりの視線が向いた。
「前からずっとそう。迷って、怯えて、考えて、結局動かなくて人を傷付ける。なにも変わってない。ローレンになっても、なにも」
「……ローレン?」
「ローレンさん?」
帰りたい。
誰もいない薄暗い森に、帰りたい。
あるいは──。




