第20話 境
キースが部屋に忍び込んだとき、ローレンは熟睡していた。気配に敏感なローレンが自分に気付かず寝ているということは、かなり疲れているのだろう。
開け放った窓の木枠に座ったまま、帰ろうかしばし考える。
首だけを振り返れば大都会の明かりで闇がぼやけている。消えることのない街灯。遅くまで開いている店の照明。行き交う街人、観光客。
黒と白しかない眩しいだけのその世界に戻る気にはなれなくて、キースは部屋に降り立って窓を閉めた。
「ローレンさん」
起こしてはいけないというのに、ベッドの傍らに膝をついてローレンを呼んでしまう。
ローレンの小さな耳元で、せめて夢の中にだけでも届けばいいと思う囁きで。
キースはベッドに頭を凭れさせた。
シーツが頬を撫で、視界はローレンでいっぱいになる。ローレンの小さな手を指でなぞるとぴくりと反応があって、愛しくて思わず手を握った。
ローレンは境界線だった。
黒と白の間にある明るい灰色の境目。
白い髪を持って生まれた自分の腹の中がどす黒く汚れていることをキースは知っていた。
早く自由になりたい。
そんな欲望がいつもいつまでも渦巻いている。
なんて親不孝者なのだろう。彼らは自分達の時間も金も労力も掛けて自分を育ててくれたのに、自分はそれが辛くて辛くて辞めてしまいたいと感じている。
皮肉なものだ。
こんなに髪は純白なのに、潔白とは程遠い。
キースはローレンの掌に頬を乗せた。
まるで彼女の意思で頬を撫でてくれているみたいだった。
彼女はきっと、自分が黒いと知っている。
隣人達のように、キースを良い子だとか、健気だとか、天使のようだと褒め称えない。
裏側を知っている。
だからローレンは境界なのだ。
キースの表と裏のどちらもを知っているローレンは、キースがどちらでもいられる境界線。
黒のままではいたくないし、白のままでは疲れて壊れてしまう。
だから、どちらにもならなくて済むこの空間がキースにとって唯一の癒やしの場所だ。
まるで、時が止まっているよう。
この空間にいる限りは、ローレンの傍にいる限りは、自分は無に留まっていられる。
周囲はローレンを男と思っているようだけど。
くすくすと笑う。
こんなに、明らかに女性なのに、どうして見紛うのだろう。
それから数分して、キースは時間の流れに戻らなければと立ち上がる。
窓を開けて、木枠に足を掛ける。
さあ、白黒の世界へ──
「キース……?」
いざ、飛び立たんというとき、ふいに声に引き戻された。
ハッとした。
首を巡らせて翼の隙間から見ると、ローレンが体を起こしていた。寝惚け眼を擦りながら、欠伸をしている。
「キース、帰るの?」
もう、駄目だった。
あの世界に戻ろうとしたのに、自分にとってたったひとりの人が目を覚まして名前を呼んでくれるから、キースは窓から飛び立とうとした脚力をそのまま使ってローレンに抱き付いてしまった。
は、とローレンが息を呑むのがわかる。
黒の翼に包まれた小さなローレン。
キースにとって大きなローレン。
「キース……?」
ああ、また名を呼んでくれる。
ローレンに名前を呼ばれると、名前が愛しく聞こえる。
2階から聞こえてくるのとは違う。周囲から聞こえてくるのとは違う、曖昧なままでいられる声。
「ごめんなさい。起こしましたか」
「い、いや、今日は早く寝たから、目が覚めた」
「そうですか。疲れているのですか」
「うん、まあ。昼に走ったから」
ああ、ならば離れなければならない。彼女を休ませてあげないと。早く。早く。
「僕、行かないと」
「うん」
「ふたりが待ってるから、行かないと」
「……うん」
なのに、なぜ泣いてしまうのか。
両目からぐしゃぐしゃに涙が流れてローレンの髪に滴る。泣いてはいけない、この人を汚してはいけない、早く戻らないと。そう思うのに、ローレンを抱く力は一向に弱まる気配がなかった。
「帰りたくない」
どうして、そんなことを言ってしまったのか。
それは禁句のはずだ。
両親を傷付けるし、恩を仇で返しているし、なによりローレンを困らせてしまう。なんて答えればいいのか、考えさせて迷わせて、困惑させてしまう。
けれどローレンは、予想に反してキースの背に手を回した。
「そうだね」
白でも黒でもない、曖昧な答え。
それでよかった。言葉にはなくとも、キースの背中を擦るローレンの掌はキースを間違いなく癒やしてくれたし、癒やそうとしてくれた。
「もう行きます。これ以上ここにいたら、帰れなくなりそうです」
「わかった」
「また、お邪魔させていただきます」
「普通に玄関から入ってくればいいのに」
「……誰にも知られずに密会するほうが好きなんですよ」
変なの、とローレンはくすりと笑う。
それが区切りで、キースは窓から飛び立った。
夜の街を駆けながら、明日を生きられるのは今日があるからなのだと痛感する。
いや、ローレンがいるから──。




