第19話 6ヶ月後
なんだかんだ、ベンの就労許可が降りて半年が経った。ベンの寝床がブレンダンの部屋に新たに置かれた二段ベッドの下になり、3人暮らしが当たり前になりつつある。
「じゃあ、ローレン。今日、俺は夜勤だから、しっかり部屋の鍵を掛けるんだぞ」
と、ブレンダンが玄関口で振り返って言う。
もはや何度目かわからない注意だ。ブレンダンが夜勤の日は3日前から施錠について繰り返し言う。
しかも、玄関などではなく、ローレンの部屋の鍵だ。
新たに取り付けたローレンの部屋の鍵を必ず締めろと言うのは、あきらかにベンへの注意喚起だろう。
「わかってるって……」
このころには、ローレンも敬語がなくなっていた。うんざりした顔でブレンダンを見送る。
夜勤の日はいつもこう。
「安心しろ。夜は俺が守る」
と、胸を張るベン。ブレンダンの意図がまったく伝わっておらず、ブレンダンのこめかみに青筋が浮かんだ。
「……いってくる」
「いってらっしゃい」
そうしてやっと出勤して、玄関の扉が閉まる。
ベンも出勤の準備だ。就労許可が降りたあとすぐに職を探したベンは建築業に就いていた。男手を探していたらしく、移民だろうと王子だろうととにかく働いてくれ、ということであっさり就業している。ゴクラク開拓のため、特に人を欲しているのだそうだ。
「髪が伸びたな」
制服であるジャケットを羽織ったその腕で、ベンはローレンの髪に触れた。
「確かに。そろそろ切るよ」
「いいじゃないか、伸ばしても。俺はローレンの長い髪、好きだぞ」
「一応、ヒビナでは男で認識されてるので」
「勿体ない。美人なのに」
ブレンダンと違って、ベンは呼吸するようにこういう歯の浮くようなセリフを吐く。
これも貴族の嗜みなのだろうか。はじめのうちは、嘘をついて持ち上げてなにを企んでいるのだと疑っていたが、あまりにも繰り返し言うのでお世辞を言うのがうまい人ということで諦めている。
「いってくる。夜は早く帰るから」
「はい。いってらっしゃい」
「知らない奴がきても開けちゃ駄目だぞ。今は忙しいので、と断ればいいと上司に聞いた」
「わかったわかった」
「俺がいないときに女の姿になっちゃ駄目だぞ。変な輩に絡まれる」
「わかったから早く行ってくれ!!」
ぐいぐいと背中を押して、追い出すようにベンを見送る。玄関に鍵を締めて、ほっと一息ついた。
(あの人達、毎朝うるさいんだよなあ)
いや、朝に特化した話ではないか、と思い直す。
(常にうるさい)
賑やかといえば聞こえはいいけれど、単刀直入にいえば喧しい。しかもなぜか彼らの会話には必ずローレンが絡んでいて、静かにひとりにさせてくれないのだ。
カウチに座って、しばし休む。
ローレンには静けさが必要だった。
ゴクラクには3度、足を踏み入れた。
調査隊を引き連れ、開拓箇所と柵の箇所を確認し、地盤を確かめるための器具の運び入れ。
次の調査ではいよいよ建築家に引き継ぐ。そうなれば調査隊の仕事はいったんの終結を見せる。あとは腕の立つ護衛達が建築作業中の職人を守る流れらしい。
さて。
ローレンはなにもすることがない。
皿も洗い終えたし。
ベッドのシーツも整えたし、洗濯もしたし。
おかしいな、と首を傾げる。
こんなふうになにもしない平和平穏凡庸な日々を希っていたというのに、いざ身を投じると時間が長く、退屈だ。
(体でも鍛えるか)
久しぶりに森に入って気付いたのだが、筋力も体力も著しく衰えていた。このままでは本当に調査隊の足を引っ張りかねない。
ローレンはランニングでもしようと家の外に出た。
◇◆◇◆◇◆
ベンはお喋りだ。
トレーニングをして疲れたローレンは眠気と戦っているのだけれど、帰宅したベンは喜々として1日を語る。
「建築の技法は本当にすごい。俺が王子のままでいたら一生知らずに終わっていた。今日なんて梁を──」
うん。
うん。
頷き、相槌を打つ。
ベンの楽しそうな顔は鮮やかだった。目まぐるしく変わる表情は7色の虹のようで、この色かと思ったら、この色になったりと忙しい。
青一色だった彼の表情が彩り豊かになったのは、見ていてローレンも気持ちがいい。
人はこうあればいいのだろう。
喜怒哀楽があって、明日を楽しみにして今日の余韻に浸って眠り来年を夢見る。そんなふうに、生きることの楽しみを感じながら生きる。それがいいのだ、きっと。
「……ローレン、もしかして眠いか?」
「──あ、ごめん。今日の昼、ちょっと走りすぎて」
「そうか、また森に行くんだよな……。なら今日は早く体を休めたほうがいい」
かちゃかちゃと音を立てて皿を片付けてくれたあとで、ベンはローレンの腕を引いて階段を上り始めた。
(あー、久しぶりに眠い)
頭がぐらつくほどの眠気はいつ感じたかを思い出せないほど強い。
腕を引かれていたはずなのに、いつの間にかその手がするりと移動して、手を握られている。
そしてまたするりと指が移動して、ローレンとベンの指が絡まるように握られた。
糸がぐるぐると揺れている。
この手を離してはならないと、糸がふたりの握り合う手に巻き付いて肌色を変えていく。
そんなふうに思ったときに、ベッドに体を横たえた。ふんわりとシーツに沈み込み、自然と深く息を吐いた。
「俺はローレンに感謝している」
夢か、現か。
ベンがそんなことを言った気がしたから、ローレンは目を閉じながら首を振った。
「感謝なんて、いらない」
握られた手がぎくりと反応する。
「……なぜ? 俺がいて迷惑か?」
違う。また首を振る。今にも睡魔の湖に飛び込んでしまいそうだ。
「資格がない」
「……なんの?」
「私は、ひどい人間だから」
いくら善行を重ねても付けた傷が消えないのと同じだ。
「ひどい? どこが」
「……ぜんぶ」
「よくわからない。教えてくれ」
ローレンは、瞼を閉じた暗い視界の中で自分の悪行を思い描いていた。あんなこと、こんなこと。
ベンに関していえば、王子を辞めてしまえばいい、という無責任な発言をした。自分は責任を取るつもりなどなかったし、そのあとでベンがどうなるかなんて考えてもいなかった。
悪魔の囁きと同じだ。
「そんなことない」
暗い中に海が見える。
青くて透き通る海。
それがベンの瞳なのだと気付いたのはややあってからだった。
強いベンの口調に、ローレンは目を開けたらしかった。
「きれい」
そういえば、海を見るのは初めてだ。
東京の海は汚いし、他のところへ行く機会もなかった。
ああ、海ってこんなに綺麗だったか。
(知らなかったなあ)
そんな呑気なことを考えていると、海が近づいてきて、そっとなにかが頬に触れた。
「ローレンは恩人だ。世界にはたくさんの色があると教えてくれた。ありがとう。その事実も、けして変わらない」
それからベンはなにも言わなかった。
また視界は暗くなって、とうとう睡魔へ身を投じる。
善悪どちらの事実も不変なのだとしたら、自分は一体、どちらなのだろう。
ローレンは静かに考えた。




