第16話 夜の蝙蝠
ベンは、どうやら無事に申請を出してきたようだった。ブレンダンと共に帰宅したベンはひどく上機嫌だ。
「もう1回言っておくけど! 承認されなかったらすぐに国に帰るんだぞ!?」
「1週間くらいいいじゃないか」
「ふざけんな!」
そんなやり取りをしながら玄関から入ってきたので、窮地の友人同士に見えなくもない。まさか他国の王子と、敵国の軍人同士の会話であるとは誰も思わないだろう。
「「ローレン、ただいま」」
その勢いのまま、ふたりにそう言われて、リビングでミルクティーを飲んでいたローレンは驚いた。
「え。あ、は、はあ。おかえり、なさい」
ただいまは、言われ慣れていない。
東京にいたころは両親は共働きで、朝はひとりで鍵を締めて学校に行き、夕方にひとりで鍵を開けて帰ってきて、夜に母親が帰ってきたときには「あれ、まだ起きてたの」と言われるくらいだった。夜中の寝静まったころに父親が帰ってきていたらしい。知らない。
たまの休みと日曜日が重なって、母親と家でいられるときは、母親は死んだように眠り続けていたから『ただいま』も『おかえり』もない。
戸惑っているうちに、カウチに座るローレンを挟むように両隣にブレンダンとベンが座ってきた。
(えぇ、なんでこんな近くに座るの)
「だいたい、他国の王子が働くっていうほうがおかしいだろ」
「働けないならローレンと昼間に散歩しまくるからいいと言ったではないか。髪が長いローレンを見たか? それはそれは美人だぞ!」
「そんなこと知って──いや、とにかく!」
そこで一拍の間が空いた。
なんだろうと左右を見ると、ふたりの視線はカップを持つローレンの手に注がれていた。
「「手の怪我どうした!?!?」」
(本当は気が合うんじゃないの、このふたり)
経緯を説明するのが面倒で、ローレンはかなり割愛した。
「壁にぶつけました」
するとブレンダンがローレンの手を取り、零させまいとカップをベンが取る。
やはり、息がぴったりだ。
まじまじと手の傷を眺められる。その視線だけで火傷してしまいそうなほど小指の糸が熱い。ちりちりと熱を増し続けている。
「ぶつけたって、こんなにひどくはならないだろ」
「とにかく手当をしよう。この家に救急箱はないのか?」
「ある。そこの棚の中」
「取ってきてくれ。俺がローレンの手を握っている」
「いま既に俺がローレンの手を持ってんだから、あんたが取ってくるのが1番手っ取り早いだろ!?」
「……いいか、ローレンの手当が最優先だから今は俺が折れるが、これからもそうとは限らないからな!」
とか言いつつ立ち上がって、ブレンダンの示した棚へ歩み寄るベン。
ふたりに厚い、熱い手当を受けながら、ローレンは明後日のほうを見つめていた。
(これ、毎日続くの?)
◇◆◇◆◇◆
その日の夜だった。
風のない夜。黒のカーテンと雨戸に閉ざされたローレンの部屋は、森の夜に限りなく近い暗闇に沈んでいた。
ベッドの上で眠っていたローレンは、ふと目が覚める。
まだ野性の勘は衰えていないらしい。
窓の外に人の気配を感じて、するりと音もなく床に降り立つ。常に持ち歩いているナイフを剥き出しにして、件の窓に素早く移動した。
おかしいな。
殺意がない。
攻撃性というか、張り詰めた緊張というか、君の悪さというか、そういうもの。
さすがに森を離れて感覚が鈍ったのかと思いつつ、静かにカーテンと雨戸を開けた。
「こんばんは」
そこにいたのは、キースだった。
外壁のほんの少しの出っ張りに爪先を引っ掛け、窓枠に捕まる彼は涼しい顔で微笑んでいる。
ローレンは慌てて窓を開けた。
「なにやってるんですか」
開けた窓から滑らかに飛び込んでくるキースは黒ずくめで、本当に夜空を飛び回る蝙蝠のようだった。
窓を閉め、振り返る。
「危ないじゃないですか──」
声を抑えて詰め寄ると、キースは『しーっ』と自分の唇に人差し指を当て静寂を促した。従ってやった。あのふたりが気付いたら、それこそ騒がしくなる。
「昼間は、まともにお礼が言えなかったものですから」
「そんなの、別に──」
最後まで言えなかった。
蝙蝠の翼に包まれた。
ローレンはキースに抱き締められていた。夜に逆戻りする漆黒の翼は、外の風に靡いていたせいで僅かに冷たい。
けれど、キースは温かかった。
「ありがとうございました」
ぎゅっと抱き締められるその力に、ローレンは混乱する。
この抱擁はなんだ?
「助けてくれて、ありがとうございました」
そんなの、別にいい。
いつもと同じように言うつもりが、抱き締められている力が強すぎて、胸が苦しくて声が出せなかった。
「あなたがいてくれて、よかった」
(私なんか──)
キースがいなくなったあとの部屋で考えたことなど、このまま父親が息を引き取ったら責任を負わされるのではないか。肋骨が折れていて、やはり責任を問われるのではないかと、自己保身ばかりだ。
少しも万が一にでも死んでしまうかもしれない人への悲しみなど感じていなかった。
礼など言われる筋合いはない。
そんな資格、ない。
「やめてください」
そうして胸を押し返そうとするのに、キースはびくともしなかった。
彼のローレンへの感謝が、ローレンの自分の薄汚さを露呈させて泣きたくなる。
自分は彼のように純粋な気持ちで動いたのではない。もっと汚れていて、後ろめたくて、人から蔑まれる気持ちでいっぱいだった。
「また、こうして会いにきていいですか」
首を振りたかった。
会うたびに、きっとローレンは自分を嫌いになり続ける。
なのに、そうはさせまいとキースがローレンの頭を撫でるから。
そうは答えさせまいとキースがローレンを強く強く抱き締めるから、結局、無言になってしまった。
「夜の、ほんの少しの間だけ会いにきます。
では、また」
『さよなら』でもなく『じゃあ』でもなく、彼は再びの邂逅を約束してまた窓の空へ飛び立った。
背後にある開け放たれた窓から、夜風が吹き込んでくる。
冷たい風がローレンの首を撫でた。
自分の汚さに、泣いた。




