第15話 最低な自分
店にキースの姿はなかった。
前回もそうだし、客が来たとわかると顔を出すのか、それとも普通はこちらから声を掛けたりするのだろうか。
ほんの少しの間、迷った。
カウンターに金を置いて帰ろうかとも思ったのだけど、それはさすがに失礼な気がした。
(ふむ)
そのとき、2階からなにやら物音が聞こえた。途端、女性の泣く声。それがしばらく続いたあとで、キースの怒鳴り声が響く。
(ああ、どうしようか)
2階で苦しんでいる人がいる。もしかしたら、自分が駆けつければ助けになってやれるかもしれない。
けれど、それはいっときのこと。
明日も助けてやれるかわからない。明後日も、明々後日も。一度感じた楽さは、その助けがなくなったときに絶望のように強く心を抉る。
あのときのようになりたい。
そんなふうに涙する。ならばひとりで耐えていたほうが耐え続けられた。一度でも助けられたら、また助けてもらいたくなる。そして助けてくれないとわかると、恨みたくなる。
自分は助け続けられる自信がないし、なにか起きたとしても責任を持てない。なんでそんなことをしたのだと怒られても、きっと
『助けてやったのに』
と恩着せがましく思うに違いない。
なにもしないほうがいい。
なにもしないほうが自分にはいい。
その思考の間にも2階のどたばたとした音は消えなくて、ローレンは拳を作った。ぐしゃりと紙幣が歪む。
出直そう。
そう思って踵を返したはずなのに、なぜか階段を駆け上がっていた。音のする扉を開ける。
キースが見開いた目で振り返ってきた。
湿気のこもった空気。
ベッドの上に座る夫婦と、父の傍らに座るキース。
父は激しく咳き込み、母は泣きじゃくって腕をでたらめに動かして暴れていた。
「お父さんが、誤嚥を──!」
キースの目にじんわりと涙が滲んだ。
高齢者の誤嚥は窒息に繋がる。咳き込み続けているのを見ると、まだうまく呼吸ができていないのだろう。
ローレンは父親の背後に回って思いきり背中を叩いた。喉に詰まっているのだ。ご、ご、と下水が逆流している排水口のような音がしている。
「お父さん! 大丈夫!?」
「あなたぁぁッー!」
「うるさいな! ちょっと待っててよ、今やってるから!」
キースの怒鳴り声は、母親のヒステリックに苛ついたもののようだった。キースも混乱しているのだ。床にはキースが作ったらしい料理が散らばっている。
どの具材も、細かく刻まれていた。
ミキサーも便利グッズもないこの世界で、これだけすべての具材をここまで細かく刻むのは骨が折れるだろう。キースの時間と労力が垣間見えた気がした。
父親の背中は骨が浮いている。これ以上、強く叩いたら骨が折れてしまいそうだった。
ハイムリック法に変えた。後ろから抱きつくようにして、手を父親の胸の前で組み、勢いよく父親の体を持ち上げる。そうすると自然とローレンの手が父親の腹部に食い込み、圧迫することで喉の異物を除去できる。
まだ、無理だった。
父親の唇が紫に変色し始める。
もはや咳さえしていない。
「医者は!? 医者はどうやって呼ぶんですか!?」
救急車があるとは思えない。
ハイムリックを繰り返しながらローレンが問うた。
「医者……。医者は11ブロックに……」
キースが初めて医者を思い付いたように、はっ、とした。
「呼んできてください!」
「で、でもお母さんを置いていくわけには……」
「私がここにいますから、行ってください! あなたのほうが速いでしょう!?」
言うと、キースは瞬きをした。
迷いは一瞬で終わった。
そして体にも目にも力を取り戻したように立ち上がって、ローレンのほうへ突進してきた。
いや、窓だ。
ローレンの背後にある窓が目当てだ。キースは父親とローレンの体をふわりと超えて、窓から飛び出した。
「え、ここ2階──」
まさしく蝙蝠のようだった。
蝙蝠が羽根を震わせるあの音のようにキースの服がばたばたと揺れる。その姿は一瞬にして消え、音もなく着地して走り出した。
思わず、ローレンは吹き出してしまった。
「さすが」
あの身体能力はなかなかの天才だ。もう角を曲がって見えない。
「それより、こっちか……!」
異物が吐き出される気配はない。しかしローレンの知識は背中を叩くか、ハイムリック法しかなかった。
(これ以上、どうすればいいの)
どうすれば──。
「あなたぁ、大丈夫なのぉ!? ねぇー、あなたぁ!」
母親は泣き続けているし、その悲痛な叫びがどんどんローレンの焦燥を強くさせる。
呼吸なし、意識もなし。
ローレンは父親の体を床にずり落とし、心臓マッサージへと切り替えた。
それからすぐのことだった。何度目かの胸骨圧迫の際に、ごくん、と父親の喉が上下した。
「あ」
と、気付いたときには父親は咳をし始め、呼吸をするようになった。本人の意識も戻って、きょろきょろと部屋を見回している。
唇も徐々に色を取り戻し始めた。
(よかった……)
「き、キース? どこに行った?」
「キースは医者を呼びに行ってますので、少し待っていてください。すぐに戻りますから」
母親が拍手をして喜んだ。ローレンは脱力して、その場に座り込んでしまう。
キースを行かせたものの、ローレンだけが残されたこの場で父親が死にでもしたら、それこそ責任を問われるのではないかと怖かった。
ローレンは嫌な奴だな、と自分を嘲った。
結局自分も、逃げ回る他人と同じように責められることから逃げている。
「あなた! よかった、気が付いたのね、よかった、本当によかった! キース! キースったら! どこに行ったの! お父さんが起きたわ!」
「キースは今いないので──」
「キース」
「キース!」
イラッとした。
自分が嫌な人間と改めて思い知って、心がざわめいているところにキースの連呼である。
なんでもかんでもキースに頼ろうとしやがって。
あんたらのキースを呼ぶ声が、キースの心をどれほど重くするのかを考えたことはないのか。
いやいや、彼らだって好きで老いたわけではないし、好きで体を動かすのが困難になったわけでない。人間、皆、誰しもいつかはそうなる可能性があるのだから互いに助けて支えて生きていければ、それでいい。
だから、こんな考えはよくない。
「キースぅ!」
しかし、それでも耐えられなかった。
ローレンは、どん、と壁を殴りつけた。
出来うる限りの全力だった。
ふたりがぎょっとしたようにローレンを見る。ローレンはわざとらしく笑ってみせた。
そして悟る。
(ああ、この笑い方はキースの──)
「キースはいません。待てませんか、少しくらい」
言うと、ふたりはようやく黙りこんだ。
◇◆◇◆◇◆
「ふむ、大丈夫そうだが、念のために2、3日は入院させたほうがいいだろう」
キースが連れてきた老齢の男の医者は、父親の体をほんの少し診てそう言った。助手らしい若い男達が父親を背負って家を出て行く。あっという間の手際だった。
キースはまだ汗が引かないらしい。肩で息をして、汗が顎から滴った。
すっかり笑顔は消えていた。
「それじゃ、出張費」
医者は、そう言って皺だらけの手を差し出してきた。
「え」
とキース。見開いた目で、医者と医者の手を見比べる。
医者は当然という顔で言ってのけた。
「親御さんは高齢だから、診察代は保険が使えるんだけどね。出張費は別だから。現金でくれる?」
キースは瞬きをして、顎の汗を手の甲で拭った。目に見えて頭を働かせているのがわかる。医者を連れてくることに必死で、費用を考えている余裕がなかったのかもしれない。
命を助けるのも金がいる。
「お金……そうか、お金……。ちょっと待ってください。1階に少し現金が──」
「これで足りますか」
キースの代わりに医者の手にしわくちゃな紙幣を乗せたのは、ローレンだった。
医者はこれみよがしに紙幣が2枚あるのを数えて、うん、と頷く。
「はい。足りるよ。お釣りは持ってないから、貰っておくね。このくらい、いいでしょ。あ、いい手際だったと思うよ。移民のわりに」
そう吐き捨てて、医者も階段を降りていった。
(なに、あいつ)
腹立つわぁ。
舌打ちするのはなんとか耐えたけれど、医師の背中を睨みつけるのは我慢できなかった。
キースが歩み寄ってきて、頭を下げた。
「……すみません」
「いや、ツケを払いにきたんで。そのぶんということで、チャラでいいですか」
「もちろんです」
はあ、と深く息を吐きながらベッドに腰掛けるキース。
項垂れ、両手で顔を覆った。
ひどく疲れているようだ。目の下のクマが急にキースの顔色を悪くみせる。
キースの落ちた視線が、なにかに気が付いたように瞬きをした。
手を握られた。
なんだと思ってみると、ローレンの右手に怪我があった。
(あ、さっき壁を殴ったときの)
すぐに思い当たった。
そしてキースも同じ心境に覚えがあったのか、原因である壁に目をやって小さく頷いた。
「すみません、こんな思いをさせて」
それは、どちらだ。
命の生きるか死ぬかの狭間をまざまざと見せ付けられた今日の出来事か。
介護の大変さを肩代わりさせたあのほんの数分か。
医師に差別発言をされた一瞬か。
そんな言葉とは裏腹に、手を握るキースの力は弱々しい。
柔らかく握られたまま、そっと親指で傷を撫でられた。
くすぐったい。
「……別に」
そこで解放されるかと思いきや、キースは手を離してはくれなかった。
むしろ指を絡めて握ってきた。
弱々しかった指先に力を込めて、今度はぎゅっと握ってくる。
(……こういう場合、どうすれば)
前世では恋愛ごととは縁がなかった。人並みに初恋はしたが、同級生に笑われたり、噂されたりして結局は嫌になって関係は発展しなかった。だから男性との関わりは必要最低限しかなく、どう反応していいかわからない。
(握り返すのもおかしいし、かといって振り払うのもなんだかおかしい気がする)
えぇ?
と思案していると、キースが口を開いた。
「今日は本当にありが──」
「キース、お腹空いた」
そこへ母親が会話を遮ってくる。
キースは泣きそうな顔で「ふふ」と笑って、またあの表情に戻った。
「いま持ってくるよ」
母親にそう告げて、キースとローレンの手がそっと離れていく。
台所へ行くキースと共にローレンも1階へ向かった。階段の軋みが、仔猫の鳴き声に聞こえた。
「じゃあ」
さよならとは、もう言えなかったし、ローレンはキースを振り返ることすらできなかった。
キースを見たら、助けにきてやると言ってしまいそうだった。
夜の、ほんの1時間。
昼の、ほんの1時間。
朝の、ほんの1時間。
助けにきてやると言って、いつかはやっぱり無理だと来なくなる。そんな無責任な奴になりたくない。
自分には、あのふたりに優しくできる自信もなかった。きっと自分は苛ついてひどいことを口走ってしまうし、してしまう。
そんな人間になりたくない。
だからローレンはキースの返事も待たずに店を出た。
やっぱり、ひとりのほうが楽だ。
ひとりなら、自分も最低なのだと思い知らされなくて済む。




