7話 後悔
『……貴方が、そう望まれるなら』
帰路の馬車の中で、クリストファーはその言葉を何度も思い返していた。
窓の外では、山道の起伏に合わせて景色が揺れ続けている。舗装の間に合っていない道を進むたび、車体が大きく軋み、身体が左右に振られた。
背もたれに身を預け、目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、あの応接室の光景だった。
背筋を正し、視線を逸らさず、問いを受け止めようとしていた少年。
ほんの一瞬だけ、瞬きを繰り返してから、息を整え、あの言葉を選んだ唇。
自分は選択肢を与えた。強制もしていない。終始、誠実で、正しい態度だった——はずだ。
それなのに、返ってきたのはジェルミ自身の言葉ではなかった。
馬車が大きく跳ねる。
身体が揺れ、クリストファーは無意識に肘掛けを掴んだ。指先に、じわりと力が入る。
あの返答は、拒絶ではない。依存でもない。自分の人生を選ぶことよりも、周囲を困らせないことを優先するような言葉だった。
喉の奥がひどく乾く。息を吸っても、どこか満たされない。クリストファーは奥歯を噛み締めながら、ようやく思い知った。
選べない子供に、選択を投げてしまった。
その重さが、今になってはっきりと、自分の手に返ってきていた。
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王宮の執務室で、レオナルドは静かに安堵のため息をついた。
机の上に積まれた報告書の一番上には、赤い封蝋の痕が残る文書が置かれている。
「……ここまでは、想定通りだな」
レオナルドは低く呟きながら、再び報告書に目を向けた。
ノクシア地方への補償と支援は、事故の報が広まってから間を置かずに実施された。
同時に、王政府は全国的なインフラの点検を命じ、点検項目の基準も見直された。老朽化の度合いだけでなく、季節ごとの負荷や通行量を加味する新たな基準が設けられたことで、各地の橋や街道には次々と調査官が派遣されていった。
王都に届く陳情の数は、目に見えて減っている。
事故直後に渦巻いていた非難の声も、日を追うごとに勢いを失っていった。
事故をきっかけに生まれた不信は、対処さえ誤らなければ長くは続かない。報告書の数字は、それをはっきりと示している。事態は確実に、沈静化へ向かっていた。
「兄上が現地に赴くのも、悪手ではなかったか……」
支援の内容そのものよりも、王政府が動いているという事実が、人々の不満を和らげていた。
侯爵家への二度目の訪問が決まった際、レオナルドはひとり懸念を抱いていた。クリストファーの行動は、一歩間違えれば、王族による贔屓とも捉えられかねない。
それでも今は、王太子の誠実な振る舞いとして世間に受け入れられている。
「……残る問題は、後見先だな」
執務机の隅にまとめられた資料に手を伸ばす。
事故そのものへの不満は、支援と補償によって次第に収まりつつある。
しかし、遺された少年への対応を誤れば、新たな火種となるだろう。もし彼が王政府に怨恨を抱けば、その感情はやがて周囲を巻き込み、反王権の象徴として担ぎ上げられる可能性すらある。
だからこそ、ジェルミは手元に置くべきだ。
レオナルドは思考を言葉へと落とし込みながら、提案書の文面を整えていた。ペン先が、紙の上を静かに走る。
領地には王政府の官僚を置き、不満や異変を早期に把握できる体制を整える。そしてジェルミ自身は、王権の保護下に置く。
慈悲ではなく、統治の一環として。国の安定を優先した判断だった。
「レオナルド殿下…!」
その時、執務室の扉越しに、側近の声とノックの音が響いた。
「入れ。……何事だ?」
側近の慌ただしい様子に、レオナルドは静かに眉を寄せた。ペンを置き、椅子の肘置きに手をかける。
若い側近は額に汗を浮かべながら、報告を始めた。
「クリストファー王太子殿下が……リュシアン侯爵子息を、側近として迎え入れる手配を整えられました」
一瞬、言葉の意味を測るように沈黙が落ちる。
レオナルドの指が、肘置きの縁を強く掴んだ。ゆっくりと顔を上げたその表情は、わずかに歪んでいる。
「……側近、だと?」
低く漏れた声には、苛立ちとも、焦りともつかない響きが滲んでいた。
王権下で保護する、という発想自体は間違っていない。しかし、王太子の側近として置く判断は行き過ぎだった。
「クリストファー王太子殿下は、これからヴェルノーへ向かわれるそうです」
続く報告に、無意識に指先へ力が入る。
「……報告、ご苦労。もう下がっていい」
低く抑えた声でそれだけ告げると、レオナルドは視線を伏せた。側近が退出する音を聞きながら、しばし動かずに提案書に目を向ける。そこに並ぶ文字は、もはや意味を成していない。
肘置きから離れた手が、衝動を抑えきれずに報告書を握り潰す。まだ乾ききらないインクが、レオナルドの指をかすかに汚した。
——落ち着け、感情で判断を歪めるな。
胸の内で言葉を反復しながら、レオナルドはゆっくりと息を整えた。噛み締めた歯の奥で、怒りだけが静かに燃えている。
椅子から立ち上がると、レオナルドは扉へと向き直る。回廊へ踏み出すと、朝の光が視界に広がった。
足音は早いが、乱れてはいない。
怒りを押し殺したまま、レオナルドは回廊の奥へと進んでいった。




