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5話 ノクシア地方


北部にあるノクシア地方は高山に囲まれており、夏季になると貴族たちが避暑地として滞在するところだった。

中でも美しい森林や湖畔のある中心部ヴェルノーは、王太子であるクリストファーも幼い頃に何度か訪れたことがあった。

その地に久々に降り立つ。十月中旬のヴェルノーは、既に冷たい空気に包まれていた。

雨で濡れた石畳に陽の光がきらめく。クリストファーは手入れの行き届いた革製のブーツで石畳を踏み締めると、執事に案内されるまま屋敷の中へと入っていく。


応接室の扉の前で、クリストファーは一度だけ足を止めた。

この先にいるのは、名と年齢しか知らない子どもだ。

泣き腫らした目をしているだろうか。責めるような視線を向けられるかもしれない。あるいは、言葉を失って、ただ俯いているか——。

そんな想像を静かに打ち消すように、重厚な扉が開かれる。

暖炉の明かりが揺らめく応接室に立っていたのは、思っていたよりもずっと小さな身体だった。

亜麻色の髪はきちんと整えられ、背筋は真っ直ぐに伸びている。彼は両手を揃えながら凛と立っていた。


——泣いてはいない。


目の下に薄く落ちた影が、眠れていないことだけを物語っていた。

ジェルミの様子を注意深く伺いながら、クリストファーは哀悼の言葉を述べる。ジェルミは静かに頭を下げながら応えた。


「このような折に、王太子殿下みずからお越しくださったこと、身に余る光栄と存じます」


その声は幼く、それでも震えてはいなかった。


—— 十歳だぞ。


胸の奥で、言葉にならない衝撃が走る。この年齢で、これほど整った態度を取らねばならない状況そのものが、異常だ。

けれど、表に出すわけにはいかない。安心させるべきはこちらだ。クリストファーは王太子としての仮面を崩さぬまま、ジェルミと正面から向き合った。


家名や財産を守る手配は、すでに整えてある。書類の上では、何一つ問題はない。

彼の生活は、制度で守れる。だが、それだけで十分だと言えるだろうか。誰の庇護のもとで、どんな立場で、何を選び、その先をどう生きるのか——選ぶ権利を残すことこそ、責任だ。

クリストファーは、ジェルミの小さな肩に視線を落とした。

きちんと正された姿勢。その奥に、子どもが抱えるには重すぎる静けさがあった。


------


庭園の木々が赤く色づき、王都に木枯らしが吹く頃になっても、侯爵家の後見を名乗り出る者は現れなかった。

主要路であったグラシエ橋が崩落したことにより、今後ノクシア地方は避暑地としては衰退が見込まれるからだろう。

本格的な冬が来るまでに、迂回路の整備を大至急で進めてはいる。しかし、交易路としての価値が低下していることは明白だった。

執務室の椅子に腰を据えながら、クリストファーは天井を見上げて深く息をついた。

橋の崩落は重大インフラ事故として、国民の注目を集めていた。被害者が貴族だった点も大きい。ノクシア地方に住む民の生活を守るため、王政府による補償や支援を行なっているが、国民の非難の声は高まるばかりだった。

王家としては引き続き制度を整えて、継続的に向き合っている姿勢を示す必要がある。


——だが、それだけでは足りない。


クリストファーの脳裏に、あの日の、応接室での光景が浮かび上がる。背筋を伸ばし、泣くことも許されないように立っていた、亜麻色の髪の少年。

答えを急かすつもりはなかった。だが、それは本当に“待つ”という行動で示すべきことだったのだろうか。

二週間が経った今も、何も決まっていない。このままではノクシア地方には冬が訪れる。


もう一度、立ち会わなければならない。

国民に向けた行動ではない。

あの少年に向けて投げてしまった問いから、目を逸らさないために。

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