2話 喪失
ココアの甘い匂いがする。
ジェルミがふと顔を上げると、執事が静かに、湯気の立つカップを机に置いてくれた。
事故の報告を受けてから、どれほどの時間が経ったのだろう。使者はいつの間にか帰っていったようだ。彼との会話を思い出そうとするが、両親の死を告げる言葉ばかりが頭の中で何度も繰り返される。
声を振り払うように小さく頭を揺らした後、ジェルミは机の上に置かれたままの報告書に目を向けた。
「……グラシエ橋の、中央だけが崩落……」
ジェルミは報告書を手に取り、暖炉のそばへ歩いていく。弱まった雨音の代わりのように、薪のはぜる音がいやに耳に響いた。
「……春に、補修工事をしたばかりなのに」
報告書をめくり読み進めていくが、詳しいことは何も書かれていない。ほとんどの項目は『調査中』『今後対応予定』など曖昧な内容だった。
それだけに、書面の冒頭に書かれた両親についての記述が、ジェルミの胸に重くのしかかる。
ジェルミは椅子に戻ると報告書を遠くに置き、カップに手を伸ばした。
次の報告を待つしか、今の自分にできることはない。少しぬるくなったココアを一気に飲み干すと、ジェルミは自室に戻っていった。
カーテンの隙間から柔らかい朝陽が差し込む。
ジェルミは重たい瞼のままベッドから身体を起こすと、カーテンを開いた。窓の外にはいつもと変わらない裏庭が広がっている。長雨に濡れた花卉が陽射しを受けてきらめく中で、母の好きなクリーム色の薔薇がほころんでいた。
ジェルミはしばらく裏庭を眺めた後、ようやくベッドから足を下ろす。
クローゼットを開けた瞬間、空気が変わった気がした。いつもなら奥に追いやられているはずの黒色が、正面に掛けられている。
それは、仕立てたばかりの喪服だった。
誰にも何も言われていないのに、今日はこれを着る日なのだと、瞬間的に理解してしまう。
ジェルミは震えそうになる唇を薄く噛みながら、喪服に手を伸ばした。
絨毯の敷かれた廊下を重たい足取りで進む。布を掛けられた家族の肖像画が、視界の隅に入る。書斎や両親それぞれの寝室の前を通り過ぎる時、ジェルミは俯きそうになる顔を意識的に持ち上げて、前を向いた。
階段を降りて食堂の扉を開けると、いつものように紅茶の香りが漂ってくる。シュガーポットの置かれた席にジェルミが腰掛けると同時に、配膳が始まった。
焼きたてのパン、かぼちゃのスープ、サラダにスクランブルエッグ…ジェルミの好物が目の前に次々と並べられていく。
「……どうぞお召し上がりください」
促されて、ジェルミは静かに食卓を見回した。
自分の分の食事しか並んでいない。
当然のことだ。理解しているはずだった。ジェルミはしばらく座ったまま、空席から目を離せなかった。
ナプキンを置くと、ジェルミは緩慢な動作で立ち上がった。食事がどうしても喉を通らず、食べ終えるのにひどく時間がかかってしまった。
食器を下げに近づいた侍女が一瞬、ジェルミを見て口を開きかける。しかし彼女は気まずそうにすぐ顔を伏せ、離れていった。
誰も、ジェルミに目を合わせない。声をかけない。広い屋敷のなかは配慮の積み重ねで、ひどく静かだった。
言いようのない感情が、胸に迫る。冷たい腰壁に手を添えながら、ジェルミは母の声を思い出していた。
——そういう時こそ、相手の立場を先に考えなさい。
ジェルミはゆっくりと歩き始める。
視界の端で、何人かが小さく頭を下げて通り過ぎていく。使用人たちが言葉を飲み込む度に、ジェルミは背筋を伸ばした。
「ジェルミ様……」
そんな静けさの中で、自分の名を呼ぶ声がした。
執事の声に足を止める。階段の手すり越しに振り返ると、いつもより固い表情をした執事の姿が目に入る。
彼の緊張が冷えた空気とともに伝わってきて、ジェルミは思わず、手すりを掴む指先に力がこもった。
「どうしたの?使者の方が来た?」
「いえ……」
珍しく口ごもる執事の様子に、ジェルミは眉を顰めながら階段を降りていった。彼はしきりに玄関ホールの方へ視線をやっている。その落ち着かない仕草に呼応するように、遠くで侍女たちのざわめきや足音が重なり始めた。その慌ただしさが何を意味するのか、ジェルミには分からない。
ジェルミが階段を降り切る前に、執事はとうとう口を開いた。
「——王太子殿下が、お見えです」




