13話 王都
馬車が止まり、開かれた扉から外の空気が流れ込んだ。緊張で固くなっていた身体を、夜風がそっと撫でていく。
外套の上から胸元を押さえ、内側にしまった栞の存在を確かめる。大丈夫だと、自分に言い聞かせるように深呼吸をした後、ジェルミはゆっくりと立ち上がった。
扉の外で待っていた従者に支えられながら馬車を降りると、ジェルミは目の前に広がる光景に息を飲んだ。
夜であることを忘れさせるほどの眩ゆい灯りが、そこにはあった。
思わず立ち尽くし、視線の置き場がわからなくなる。シャンデリアやランプの光が大理石に反射し、高い天井の絵画や装飾は、見上げてもなお遠かった。
ジェルミは従者に促されるまま、王宮の大玄関ホールの中へと足を踏み入れる。圧倒され、言葉も出ない。
「——ジェルミ」
その声は、広い空間に溶けることなくジェルミの元へまっすぐに届いた。低く、落ち着いた響き。
視線の先には、眩ゆい灯りの中でも揺るがない、深い青の姿があった。
「長旅だっただろう」
両翼に広がる階段を悠然と降りながら、クリストファーはやさしく語りかけた。
挨拶をしなければ。そう思うのに、喉の奥がきゅっと縮まり、すぐに言葉が出せない。ジェルミは息を詰めたまま、ぎこちなく一礼した。
「ジェルミ様」
一歩控えた位置から、クリストファーとは違う大人の声がした。ジェルミが恐る恐る顔をあげると、赤毛が印象的な青年が立っていた。
「クリストファー王太子殿下の側近を勤めております。ルーカスと申します」
「……お出迎え、ありがとうございます。ジェルミ・リュシアンです。よろしくお願い致します、ルーカス様」
深すぎない一礼を交わした後、ジェルミは伸ばした背筋の後ろで、指を所在なさげに擦り合わせた。平静を装うために短く息を吸う。
ルーカスは一歩前に出ると、穏やかな声で続けた。
「どうぞ、私のことはルーカスと」
「……ルーカス……さん」
少しだけ迷ってから、ジェルミはそう呼んだ。ルーカスはほんのわずかに口角を緩めると、流れるような動作でジェルミの手荷物を受け取った。
「今夜はお疲れでしょう。どうぞこちらへ、お部屋へご案内します」
「あ……ありがとうございます」
促され、ジェルミは二人の後を追うように階段を登り始めた。時折ルーカスが、ジェルミの様子を確認するように振り返る。
回廊に差し掛かるあたりで、クリストファーの足が止まった。ジェルミもそれにつられるように立ち止まり、不思議そうにその背を見上げる。
「……殿下は、この先で執務に戻られます」
ルーカスが、静かにそう告げた。
多忙の合間を縫って、会いに来てくれた。その事実にジェルミは、言葉にならない感情が胸に満ちていく。
クリストファーはジェルミの方を振り返ると、視線を合わせるようにわずかに身を屈めた。その距離の近さに、ジェルミは息を呑む。
「夕食は部屋に運ばせる。今日はゆっくり休むといい」
そして声を落とし、ジェルミだけに届くように言った。
「……また明日、顔を見せてくれ」
その低い声が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
ジェルミは青い瞳から目が離せないまま、小さく頷いた。
「はい……クリストファー殿下」
その返答に、クリストファーの肩からほんのわずかに力が抜けたように見えたのは、気のせいだろうか。
遠ざかっていく背中を見送りながら、ジェルミは深く息を吸った。あの低い声の余韻が、胸の奥に残っている。
「……ジェルミ様、行きましょうか」
言葉を選ぶように一瞬だけ間を置き、ルーカスが案内を再開する。
歩き出しながら、ジェルミは外套の上から胸元にそっと触れた。栞は、まだそこにある。不安も、緊張も抱えたまま——それでも今は、進める気がしていた。




