12話 出立
慣れ親しんだこの場所を、今日、自分は出ていく。
外套を整え、手袋をはめる。革越しに伝わる荷物の重みが、思っていたよりもはっきりと掌に残った。必要なものだけを詰めたはずなのに、それ以上の何かまで預けられているような感覚があった。
扉が開かれる。
外気が流れ込み、冬を迎える直前の冷たさが肌を刺した。まだ雪の気配はないが、風はもう鋭さを帯びている。ジェルミは思わず肩をすくめ、外套の前を指先で押さえた。
石畳の先で、馬車が待っていた。
御者が手綱を整える動き、馬が低く鼻を鳴らす音。車輪がわずかに軋み、止まっているはずの馬車が生き物のように息づいている。
一歩、踏み出す。玄関ホールの床から石畳へと足裏の感触が変わった瞬間、もう後戻りはできないのだと、身体のほうが先に理解した。
「……ジェルミ様」
馬車に乗り込む直前、執事が一歩だけ前に出た。呼び止める声は低く、いつもより少しだけ硬い。
彼は、薄い紙に挟まれた一枚の栞を差し出した。クリーム色の薔薇が、丁寧に押し花にされている。
「奥様が、お好きだった花です」
それ以上の言葉はなかった。ジェルミは黙って受け取り、指先でその輪郭をなぞる。
思えばこのひと月、彼だけが唯一、立場を顧みずに心を砕いてくれていた。執事の淹れてくれたココアの温かさを思い出して、ジェルミは声を詰まらせた。
馬車に乗り腰を下ろすと、最後にもう一度、屋敷の方へ目を向ける。庭園の花卉に降りた霜が、朝陽を受けて一斉にきらめく。その中で執事が深く一礼する姿が、窓越しに映っていた。
「……いってきます」
馬車は、ゆっくりと屋敷を離れた。
ヴェルノーの街並みを抜けるまでの道はなだらかで、車輪の音も一定だった。石畳の継ぎ目を越えるたびに小さな振動が伝わるが、それはまだ、日常の延長のような揺れに過ぎない。
数時間が経ち、景色が変わり始めた。
家屋の間隔が広がり、道は次第に細くなる。遠くに見えていた畑や低い丘が姿を消し、代わりに山の影が車窓を覆い始めた。
馬車が坂に差しかかると、揺れははっきりと重さを増した。
車輪が石を踏み、車体が傾くたび、座席の奥で身体が引き戻される。ジェルミは無意識に外套の前を押さえ、息を整えた。
ここからが、本当の道なのだ。
ふと、懐に入れていたものの存在を思い出す。
ジェルミは外套の内側に手を入れ、丁寧にそれを取り出した。
薄い紙に挟まれた小さな栞。クリーム色の薔薇が、押し花として静かに留められている。
指先でそっとなぞる。花弁の輪郭は平たくなっているのに、不思議と柔らかさを残していた。
その瞬間——馬車が大きく揺れた。
石を踏んだのか、車輪が嫌な音を立てる。身体が前に投げ出されそうになり、手元から栞が滑り落ちた。ジェルミはとっさに座席の縁を掴み、歯を食いしばった。
「……っ」
栞は床に落ち、車体の揺れに合わせて小さく跳ねる。ジェルミは身体を揺さぶられながら、ゆっくりと身を屈めて栞を拾い上げた。
——こんな道を。
手元に戻った栞を眺めても、頭に浮かんだのは母の面影ではなかった。そのことに、胸の奥がわずかに痛む。
それでも、揺れと共に思考は否応なく引き戻される。クリストファーは、この悪路を三度も訪れた。冷え込む季節に、往復で。
馬車の中は思った以上に冷たく、吐く息が白くなる。その寒さが、遅れて胸に落ちてきた。
揺れは、その後も途切れることなく続いた。山道は容赦なく、馬車を前へ前へと押し出していく。
ジェルミは座席に身を預け、膝の上で栞をそっと握り直した。身体の芯まで冷える空気と、止まらない振動が、ようやく実感として追いついてくる。
この距離を、あの人は越えてきた。
ジェルミは小さく息を吸った。不安よりも先に浮かんだのは、あの静かな眼差しだった。急かさず、逃げず、ただ待っていた姿。
これから、あの人のそばで生きる。
そう思うと、まだ輪郭の定まらない未来が、遠くでかすかに光った気がした。
いつの間にか、揺れは少しずつ穏やかになっていた。道が再び舗装され、車輪の音が均一になる。山の影が後ろへ流れ、視界が開けていく。
馬車の窓から差し込む光が、角度を変えていた。
空は淡く色づき始め、低い雲の縁が、夕暮れの気配を帯びている。
遠くで、人の気配が増えていく。馬の足音、別の馬車の軋む音、重なり合う生活の音。
やがて、石畳の幅が広がり、門の影が視界に差し込んだ。
高い城壁の向こうでは、沈みかけた陽を受けた王宮が厳かに存在感を放っている。
ジェルミは、栞を外套の内側へ戻し、背筋を伸ばした。胸の奥で、静かに覚悟を整える。
ここからが、新しい生活の始まりだった。




