第8話 地図に存在しない塔
書き直し消去予定
《王都防衛結界の残存時間――三十六時間九分》
増えた時間は、今も少しずつ減っている。
大裂界から伸びていた巨大な腕は動きを鈍らせていた。
黒い亀裂の奥にある目も、王都中へ散らした百二十七個の領主権限信号を追い、絶えず視線を動かしている。
今すぐ結界が破られる危険は遠ざかった。
だが、相手を惑わせているだけだ。
信号の正体に気づかれれば、再び俺へ狙いを定める。
「世界境界管理塔を探す」
俺は旧統治室の管理画面へ触れた。
《世界境界管理塔》
《状態――稼働中》
《所在地――参照権限なし》
《接続経路――消失》
存在している。
動いてもいる。
それなのに、場所だけが分からない。
「領主権限でも見られないのか」
何度押しても、表示は変わらなかった。
建国領主権限。
アステリア国内であれば、国土情報、施設、人口、資源のほとんどを確認できる。
だが、世界境界管理塔はアステリアの施設ではない。
この世界そのものを守るために作られた、もっと古い設備だった。
「地図から探せないのか」
ノアが管理画面の横へ、独自の魔導地図を展開する。
アステリアを中心とした大陸全土。
国境。
山脈。
海。
大小の都市。
八千を超える防衛塔。
俺がゲームをしていた頃より、遥かに詳しい地図だった。
「神代遺跡と呼ばれる場所は、すべて調査しております」
ノアが地図上へ白い点を表示させた。
北部の氷原。
東部の海底。
南方の砂漠。
西部の山岳地帯。
数百もの光点が大陸中に現れる。
「世界境界管理塔に似た遺構は?」
「十二か所ございました。しかし、いずれも塔そのものではありません」
「どうやって判断した」
「破壊しました」
「壊したのか?」
「内部構造を確認するためです」
ノアは当然のように答えた。
「神代遺跡の大半には、侵入者排除機構が存在します。調査には破壊が最も効率的です」
「それで貴重な手掛かりまで壊してないだろうな」
「記録は残しております」
壊していないとは言わなかった。
三百年の間に、ノアの研究姿勢は少しも変わっていないらしい。
「伝承に、塔の場所を示すものはございません」
セレフィナが大量の本を抱えた文官たちと共に、旧統治室へ入ってきた。
背後から運び込まれる本は、どれも古い。
革の表紙が傷み、触れるだけで崩れそうなものもある。
「神代の記録を可能な限り集めました」
「これを全部読むのか」
「既に文官三千名による確認を始めております」
規模がおかしい。
俺が本を一冊確認している間に、向こうでは何百冊も読み終わる。
国家規模で情報を集めるというのは、こういうことなのだろう。
「世界境界管理塔の名称が記された文献は、現時点で三十七冊確認されております」
「場所は?」
「いずれも記されておりません」
塔は世界のどこにもあり、どこにもない。
空より高く、地より深い。
扉を持たず、選ばれた者にのみ道を示す。
似たような曖昧な表現ばかりだった。
「実在する建物じゃない可能性は?」
「管理画面には稼働中と出ている」
少なくとも、統治システムは世界境界管理塔を一つの施設として認識している。
だが、普通の地図にはない。
誰も見つけられない。
三百年をかけても、アステリアはその場所へ到達できなかった。
「選ばれた者にのみ道を示す、か」
俺は床に並んでいる古い装備へ目を向けた。
領主権限の信号を付与するため、保管庫から運び出された俺の所有物。
既に大半は王都各地へ配置された。
旧統治室には、まだ運び出されていない品がいくつか残っている。
錆びた短剣。
初心者用の布袋。
縁の欠けた木杯。
何の効果もない記念品。
ゲームを始めた頃に使っていたものばかりだった。
その中に、小さな方位磁針があった。
手のひらに収まる丸い道具。
金属の蓋には、色褪せた鳥の紋章が刻まれている。
「これは」
手に取った瞬間、記憶が戻ってきた。
ゲームを開始したばかりの頃。
最初の町を出る時に、案内役のNPCから渡された道具だった。
正式名称は《旅人の羅針盤》。
地図を開けない初心者へ、目的地の方向を示すだけのアイテム。
一定時間が経てば不要になる。
俺も最初の数日しか使わなかった。
「これまで残していたのか」
「陛下が初めてお使いになられた旅具でございます」
リゼルが答える。
「御使用にならなくなった後も、王城の宝物庫にて保管されておりました」
「初心者用のアイテムだぞ」
「陛下の御品であることに変わりはございません」
何でも国宝にしてしまう。
そう思いながら、蓋を開いた。
中の針は動かなかった。
普通の方位磁針なら北を示す。
ゲーム内では、現在受けている依頼の目的地を示していた。
今は依頼を受けていない。
壊れているのかもしれない。
《旅人の羅針盤を認識》
管理画面に文字が浮かんだ。
《初期案内機能との接続を確認》
《未完了案内――一件》
「未完了?」
旅人の羅針盤へ赤い光が流れる。
止まっていた針が、僅かに揺れた。
北でも南でもない。
針は下を向いた。
「地下か?」
羅針盤を傾けても、針は常に真下を指している。
ノアが魔導眼鏡を何枚も切り替え、羅針盤を覗き込んだ。
「空間の方向を示しております」
「地面の下じゃないのか」
「下ではありますが、物理的な地下とは異なります」
ノアが空中に三つの円を描く。
一番上が地上。
その下に地下。
更にその外側に、もう一つの小さな円。
「この世界の表層から外れた場所です」
「異空間?」
「近い表現かと」
地図に存在しない。
普通に歩いても辿り着けない。
世界境界管理塔が見つからなかった理由は、それかもしれない。
「この羅針盤を使えば、入口を探せる?」
「試す価値はございます」
俺は管理画面へ羅針盤を近づけた。
《未完了案内を再開しますか》
「何の案内だ」
《初心者領主案内》
《最終項目――世界の境界を確認する》
見覚えがなかった。
ゲームを始めた頃、様々な案内を受けた。
住民へ食料を配る。
兵士を雇う。
畑を作る。
砦を修理する。
最後に近隣の魔物を倒し、領地を正式に与えられた。
そこで初心者向けの案内は終わったはずだ。
「こんな項目はなかった」
《サービス運営中、機能制限により非表示》
文字が追加される。
《現在、機能制限は解除されています》
サービス運営中。
つまり、ゲームとして公開されていた頃は、世界境界管理塔へ関わる部分が意図的に隠されていた。
サービス終了後。
この世界がゲームから切り離されたことで、本来の案内が表へ出た。
「再開する」
実行を選ぶ。
旅人の羅針盤が強く震えた。
針が回り始める。
旧統治室の床へ赤い線が伸び、部屋の奥にある壁へ向かった。
石造りの壁。
何の装飾もない。
ゲーム時代にも、ただの背景だった場所だ。
線は壁の前で止まる。
《案内地点へ到達》
《領主の証を提示してください》
「領主の証」
指輪を壁へ近づける。
反応はない。
アステリアの国章が刻まれた指輪。
領主権限へ接続するための道具ではある。
だが、求められているものは違うらしい。
《領主の証を提示してください》
同じ表示が繰り返される。
「他に証なんて持ってないぞ」
ゲーム内で領主を示すもの。
王冠。
国印。
旗。
どれも国が大きくなってから手に入れた。
初心者案内の頃に持っていたのは、初期装備くらいだ。
「陛下」
リゼルが床に置かれた古い短剣を見ていた。
「こちらではございませんか」
錆びた短剣。
俺が最初に使っていた武器。
正式名称は《開拓者の短剣》だった。
攻撃力は低い。
数日で別の武器へ持ち替えた。
だが、俺が領主になるきっかけとなった最初の依頼で使ったものだ。
短剣を持ち上げる。
柄には、小さな傷がある。
リゼルを魔物から助けた時についた傷だった。
《開拓者の短剣を認識》
《領主資格――開拓者》
「これが証なのか」
王冠でも国印でもない。
国を作り始めた頃の、何の価値もない短剣。
俺がそれを壁へ向けると、赤い線が走った。
石壁に一本の亀裂が生まれる。
音もなく左右へ開き、細い通路が現れた。
その先は暗い。
壁も。
床も。
何も見えない。
ただ、遥か遠くに白い光が浮かんでいる。
「陛下、お下がりください」
リゼルが俺の前へ出る。
剣を抜き、暗闇へ向けた。
ノアも杖を構える。
「危険は確認できるか」
「内部へ探査魔法が入りません」
「侵蝕の反応は?」
「ございません。ただし、魔力そのものが存在しない空間です」
魔力がない。
アステリアでは、空気中にも魔力が存在する。
地球へ来たリゼルたちも、僅かな魔力を感じ取っていた。
だが、目の前の通路には何もない。
世界の外側。
その表現が頭に浮かんだ。
《初心者領主案内を続行します》
《世界境界管理塔へ向かってください》
「この先で間違いない」
「私が先行いたします」
リゼルが通路へ踏み出そうとする。
その足が、見えない壁に阻まれた。
「何?」
もう一度進もうとしても、体が入口を越えない。
ノアも試したが同じだった。
セレフィナが手を伸ばしても、壁に触れているように止まる。
《案内対象以外の侵入を拒否》
「俺しか入れないらしい」
「お一人で行かせることはできません」
「でも、入れないんだろ」
「入口を破壊します」
リゼルが剣を構え直す。
「待て」
「陛下をお一人で、正体不明の空間へ向かわせるわけにはまいりません」
「初心者向けの案内だ。いきなり殺されるような場所じゃないはずだ」
「三百年前と同じである保証はございません」
それは正しい。
この世界は変わった。
ゲーム時代には存在しなかった大裂界が現れ、領主権限を狙っている。
安全だとは言い切れない。
俺は旅人の羅針盤を見る。
針は白い光を指していた。
《案内推奨人数――一名》
《同行者を登録しますか》
「同行者を登録できる」
表示に触れる。
《領主が最初に任命した臣下を一名登録可能》
最初に任命した臣下。
俺はリゼルを見た。
ゲームを始めて三日目。
魔物に囲まれていた彼女を助け、砦へ連れ帰った。
その後、最初の兵士として任命した。
「リゼル。入れるかもしれない」
管理画面へ彼女の名を入力する。
《同行者――リゼル・アルフェリア》
《初代臣下資格を確認》
リゼルの胸元へ赤い光が灯る。
彼女が再び足を踏み出す。
今度は見えない壁に阻まれなかった。
「陛下」
「二人で行く」
リゼルはしばらく俺を見つめた。
やがて剣を鞘へ戻し、深く頭を下げる。
「御身は必ずお守りいたします」
「無茶はするなよ」
「善処いたします」
「そこは約束してくれ」
ノアが不満そうに通路の入口を調べていた。
「私も初代臣下という扱いにはなりませんか」
「ノアを仲間にしたのは、国を作ってからだろ」
「三百年の功績を考慮すべきです」
「案内機能に言ってくれ」
セレフィナも同行できないことには納得していない。
だが、残りの二人には仕事がある。
「セレフィナは王都の避難準備を続けてくれ。ノアは分散信号がどれくらい持つか確認」
「陛下は」
「塔を見つけて戻る」
「必ずでございます」
セレフィナの言葉に、俺は頷いた。
リゼルと共に、暗い通路へ足を踏み入れる。
一歩目。
足元には何も見えない。
それでも、硬い地面の感触がある。
二歩目。
背後にあった旧統治室の光が遠ざかる。
三歩目。
振り返ると、入口そのものが消えていた。
暗闇の中に、俺とリゼルだけが取り残される。
「戻る道が消えたな」
「問題ございません」
リゼルがすぐ隣にいる。
「陛下と共にいる限り、どこであろうと」
「そういう問題じゃない」
旅人の羅針盤だけが、淡い光を放っている。
針の先にある白い光。
距離は分からない。
歩いて近づいているのかも判断できない。
俺たちは無言で進んだ。
十分。
二十分。
時計を確認しても、時間が動いていなかった。
スマートフォンの表示は、旧統治室を出た時刻のまま止まっている。
「時間もないのか」
「陛下」
リゼルが足を止めた。
暗闇の中。
右側から、何かの音が聞こえる。
石を引きずるような低い音。
白い光とは別の方向。
旅人の羅針盤の針が激しく震え始めた。
《案内経路への外部干渉を確認》
「見つかったらしい」
暗闇の奥に、赤い光が浮かぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
目だった。
人間より遥かに大きな何かが、闇の中からこちらを見ている。
輪郭は見えない。
ただ、赤い目だけが増えていく。
《外部侵蝕体が侵入しました》
《初心者領主案内を緊急防衛状態へ移行》
リゼルが剣を抜く。
白銀の刃が、暗闇の中で淡く輝いた。
「陛下は、私の後ろへ」
「相手が何か分からない。攻撃は待て」
「既にこちらを敵と認識しております」
赤い目が一斉に動く。
次の瞬間。
何本もの黒い腕が、暗闇の中から伸びてきた。
リゼルが前へ出る。
一閃。
白銀の光が走り、最初の腕が切断された。
黒い煙となって消える。
だが、斬られた場所から二本の腕が生えた。
「増えたぞ」
「承知しております」
リゼルが二本目を斬る。
また増える。
攻撃するほど数が増えていた。
《通常攻撃による侵蝕体の増殖を確認》
《案内対象へ警告》
《この空間では、世界内の法則による排除はできません》
アステリアの剣も。
魔法も。
この場所では通用しない。
「リゼル、剣を止めろ」
「しかし」
「斬るほど増える」
リゼルは迫る腕を剣の腹で逸らし、俺の前へ立つ。
増殖は止まった。
だが、既に何十本もの腕が周囲を囲んでいる。
「管理機能で排除できないのか」
《初心者領主案内用防衛機能を起動しますか》
「起動」
《権限不足》
「俺が対象だろ」
《案内終了前のため、世界境界管理権限が付与されていません》
塔へ到着しなければ、防衛機能を使えない。
だが、塔へ進む道を侵蝕体に塞がれている。
「回り込めないか」
旅人の羅針盤は、腕の向こうにある白い光を指している。
一本道だった。
リゼルが俺の腕を掴む。
「私が道を開きます」
「斬るなよ」
「承知しております」
彼女は剣を鞘へ戻した。
代わりに大盾を取り出す。
どこに持っていたのか分からない。
空間収納だろう。
「走ります」
「分かった」
リゼルが盾を前へ構えた。
黒い腕が一斉に押し寄せる。
盾に触れた腕から、黒い染みが広がる。
白銀だった表面が急速に黒くなっていく。
「リゼル」
「問題ございません」
「その言葉は信用しないことにしてる」
俺は管理画面を呼び出す。
《領主所有物への侵蝕を確認》
盾はリゼルの所有物。
俺の権限では操作できない。
「その盾を俺に譲れるか」
「今、この状況でございますか」
「いいから」
「陛下へ献上いたします」
《白銀大盾の所有権が移行しました》
管理画面に項目が現れる。
《所有物の状態を変更しますか》
「侵蝕部分を分離」
《実行可能》
盾の表面から、黒く染まった箇所だけが剥がれ落ちる。
地面へ落ちた黒い欠片が、煙となって消えた。
白銀の盾が元へ戻る。
「できた」
「さすがでございます」
「感心してないで走れ」
「御意」
黒い腕が触れるたびに、盾の侵蝕部分を分離する。
リゼルが前へ進む。
俺は彼女の背後に張りつき、管理画面を操作し続けた。
一歩。
二歩。
三歩。
白い光が近づく。
黒い腕の数が増えていく。
盾だけでは防ぎ切れない。
横から伸びた一本が、俺の肩へ迫った。
リゼルが体を入れる。
「触れるな!」
俺が叫ぶ。
リゼルの鎧へ腕が接触した。
白銀の胸当てに、黒い筋が広がる。
《領主所有物ではありません》
鎧はリゼルのもの。
俺には侵蝕部分を切り離せない。
「鎧も譲れ」
「陛下へ、私の鎧を?」
「今だけだ」
「陛下がお望みであれば」
《白銀近衛鎧の所有権が移行しました》
「侵蝕部分を分離」
黒い筋が剥がれ落ちる。
リゼルの体には届いていない。
「全部俺のものにすれば守れる」
盾。
鎧。
籠手。
靴。
剣。
リゼルが身につけている装備の所有権を、次々に移していく。
ゲーム時代なら、他人の装備を一時的に借りているようなものだ。
だが今は、俺の領主権限で侵蝕部分だけを排除できる。
「リゼル自身の所有権は移せないよな」
「私は元より、陛下のものでございます」
「そういう意味じゃない」
こんな状況でも、返事だけは変わらない。
黒い腕を盾で押し退けながら進む。
白い光が大きくなる。
やがて、巨大な扉が見えた。
白い塔。
上下も左右も分からない暗闇の中で、一本の塔だけが立っている。
頂上は見えない。
根元もない。
世界そのものを貫くように、どこまでも続いていた。
《世界境界管理塔へ到達》
《初心者領主案内、最終項目を開始します》
塔の扉が開く。
内側から、白い光が溢れ出した。
黒い腕が一斉に俺たちへ伸びる。
「入れ!」
リゼルと共に扉へ飛び込む。
黒い腕が足首へ触れる寸前。
白い扉が閉じた。
すべての音が消える。
気づけば、俺たちは巨大な円形の部屋に立っていた。
壁も。
天井も。
床も。
すべてが白い。
部屋の中央には、一人の少女が立っている。
白い髪。
白い服。
年齢は十歳ほどに見えた。
その顔には、目も鼻も口もない。
何もない白い顔が、ゆっくり俺へ向けられる。
《建国領主レグナの到着を確認》
声は、少女からではなく部屋全体から聞こえた。
《初心者領主案内を再開します》
《最終確認》
《あなたは、この世界を現実として受け入れますか》
目の前に、二つの選択肢が浮かび上がる。
《はい》
《いいえ》
三百年前には、表示されなかった問い。
ゲームとして遊んでいた俺へ、本来なら最初に問われるはずだったもの。
選択肢の下に、小さな警告が表示される。
《はいを選択した場合、ゲーム管理者としての保護を失います》
《以降、この世界での死は現実の死となります》
《いいえを選択した場合、領主権限を停止し、元の世界へ帰還します》
世界を救う力を得る代わりに。
俺は、ゲームのプレイヤーではいられなくなる。
リゼルには選択肢が見えていない。
ただ、俺の返事を待っていた。
世界境界管理塔が求めていたのは、権限でも能力でもない。
俺がこの世界をゲームとして見るのか。
現実として受け入れるのか。
その答えだった。




