第60話 三十一年前の声を門を開けずに受け取ったら、失踪した研究者が『俺より先に地球人が来ていた』と言っていた
三十一年前に榊原直哉が残した声を受け取れる可能性がある。
そんな話を聞いた翌朝でも、俺は普通に会社へ行った。
自分でも少し変わったと思う。
少し前までの俺なら、気になって朝一番でノアへ連絡していたはずだ。安全確認は終わったか、音声は受信できそうか、何時から作業を始めるのかと聞いて、結局そのまま仕事に集中できなくなっていただろう。
けれど今は、俺の机の横に《世界間緊急連絡専用》と書かれた小さな机がある。
本当に緊急なら、そこへ連絡が来る。
来ていない。
つまり今すぐ俺が動く必要はない。
「おはようございます」
「おはよう、如月」
いつもの挨拶をして席へ着くと、課長が俺の横の専用端末をちらりと見た。
「今日は光ってないな」
「その言い方だと、何か起きるの待ってません?」
「待ってない。昨日あれが二回光っただけで総務から確認書類が七枚来たんだ。できれば二度と光らないでほしい」
「俺に言われても」
「異世界に言っといてくれ」
「窓口の使い方、間違ってますよ」
近くの席から笑い声が上がる。
世界が三つあるかもしれない。
三十一年前に失踪した人が、その三つ目まで辿り着いていた。
さらに、その人の声が残っている。
そんな状況でも、俺の会社では昨日提出した資料の数字が一桁ずれていれば普通に差し戻される。
そのことが、今はありがたかった。
九時半。
専用端末が一度だけ光った。
俺は反射的に見たが、担当の人は何も言わない。
十時を過ぎても呼ばれない。
十一時になっても同じだった。
結局、内容を渡されたのは昼休みになってからだった。
「優先度三、一件です」
「三なら急がなくていいやつですね」
「はい。アステリア側から、予定どおり十九時から受信試験を実施できる見込みだそうです」
タブレットを受け取る。
ノアからの技術報告が付いていた。
《門は開けない》
最初の一行がそれだった。
俺が一番気にする部分を分かっているらしい。
続いて、
《通行路は使わない》
《古い記録転送路だけ》
《向こう→こっちの一方向》
《受信データは隔離装置へ入れる》
《異常があったら途中で捨てる》
そこまで読んだところで、最後にもう一行あった。
《徹夜してない》
「……そこまで報告しなくてもいいのに」
「何か?」
「こっちの話です」
でも、少し安心した。
どうやら昨日の約束も守ったらしい。
◇
午後七時。
世界間技術検証施設の会議室へ入ると、今日はいつもと少し様子が違っていた。
部屋の中央には見慣れない機械が置かれている。
地球側の金属製ラック。
アステリア側の魔導装置。
さらに、その間にはケーブルすら繋がっていない透明な箱が一つあった。
「……何これ」
「受信機」
ノアが答える。
「箱に見えるけど」
「箱だから」
「説明を諦めないで」
ノアは少し面倒そうな顔をしたものの、今日は技術担当として説明する必要があると思ったらしく、透明な箱の前へ移動した。
「第三境界の門には、通行用とは別に記録を渡すための経路がある。今使ってる低帯域通信より容量は大きいけど、物質も生体も通れない。向こうが持ってる音声記録をこっちへ送るなら、それを使える」
「それを直接こっちの機械で受け取らないの?」
「受け取らない。何が入ってるか分からないから」
透明な箱の中には、掌ほどの薄い板が浮いていた。
「一回、これだけに入れる。外部と接続しない。受信が終わったら通信路を完全に閉じて、それから中身を見る」
水城さんが補足する。
「地球側では、ネットワークに接続されていない解析環境を別室に用意しています。未知のデータ形式によるシステム障害を想定し、最初は音声として再生すらしません。構造だけ解析します」
「アステリア側も同じです」
セレフィナが資料を差し出した。
「双方が独立して安全性を確認し、結果が一致した場合のみ再生します」
「すごい厳重だね」
「第三世界から届く未知のデータですから」
「そこは分かるんだけど」
資料の最後を見る。
《安全確認項目――全四十七項目》
「四十七個もあるの?」
「地球側が二十一項目、アステリア側が二十六項目です」
「張り合ってないよね?」
「地球側としては張り合っているつもりはありません」
水城さんが真顔で答えた。
セレフィナも同じく真顔だったので、たぶん本当に偶然なのだろう。
ただ、ノアだけは小さな声で、
「あと三個増やせた」
と言った。
「増やさなくていい」
俺が止めた。
ミーナが隣で笑っている。
リゼルは透明な受信箱をしばらく見てからノアへ尋ねた。
「仮に、その記録に何らかの攻撃手段が含まれていた場合は?」
「最初の箱ごと切る」
「物理的に?」
「うん」
「破壊しても?」
「いい」
即答だった。
ノアにとって、未知の技術情報は本来なら宝物みたいなものだろう。
それでも迷わず捨てると言える。
三百年間、何度も失敗して、何度も危険なものを見てきた人間の答えなのだと思った。
「じゃあ、俺がやることは?」
聞くと、ノアが王権端末を指した。
「認証だけ」
「また鍵か」
「嫌ならやらなくてもいい」
その言葉が自然に出てきたことに、少し驚いた。
WORLD COREも。
ノアたちも。
以前よりちゃんと俺に選ばせる。
「やるよ。ただ、認証した後は全部任せる」
「任された」
「そこは頼もしいな」
十九時七分。
冬木さんも映像通信へ入った。
『こんばんは』
「こんばんは。体調、大丈夫ですか?」
『今日は昼寝しました』
「準備万端ですね」
『三十一年待った手紙が声付きで届くかもしれないのよ。これくらいはするわ』
本人は笑っているが、いつもより落ち着かないことくらいは分かった。
机の上に置かれた手が、何度も同じ場所を撫でている。
「冬木さん」
『はい』
「途中で嫌になったら、止めますからね」
『私が?』
「はい。技術的に大丈夫でも、今日聞かなきゃいけないわけじゃないので」
一瞬、きょとんとしたあと。
冬木さんは柔らかく笑った。
『ありがとう』
それだけ答えた。
◇
第三境界への低帯域通信を開く。
こちらから送るのは、昨日までに共有した記号だけだった。
《先生》
《いる》
《声》
《受け取る》
《できる》
向こうからの返答は、約二分後。
《よい》
《渡す》
ノアが一度だけ俺を見る。
「認証」
「うん」
王権端末へ表示された確認欄には、今まで見たことのない名称が出ていた。
《ARCHIVE TRANSFER CHANNEL》
《記録転送経路》
その下。
《境界通行機能――停止》
《生体通行――不可》
《物質通行――不可》
《双方向制御――不可》
何度確認しても、門を開く機能ではない。
俺は四人を見る。
リゼルが頷き、セレフィナも頷く。ノアは測定値から目を離さず、ミーナはいつものように少し離れたところからこちらを見ていた。
地球側も準備完了。
冬木さんも、
『お願いします』
と答えた。
俺は認証した。
《許可》
それだけ。
中央の大型モニターには何も映らない。
地面が揺れるわけでもない。
光の柱も出ない。
ただ、透明な箱の中にある薄い板へ、小さな点が一つ灯った。
十秒。
三十秒。
一分。
点がゆっくり増えていく。
「転送中?」
「うん」
「どれくらい?」
「遅い」
「どれくらい?」
「昔の電話回線より遅い」
「世界を越えてるから許してあげよう」
五分ほどして、進行表示が百パーセントになった。
ノアが即座に転送経路を閉じる。
「閉鎖確認」
地球側。
「確認しました」
アステリア側。
「境界値、通常へ復帰」
最後にWORLD COREへも確認する。
《第三境界との記録転送経路は閉じている?》
《はい》
《通行路は?》
《停止したままです》
「よし」
ここまで来て。
ようやく全員が少し息を吐いた。
声を一つ受け取るだけで、国家機関が二世界分動いている。
榊原直哉が三十一年前、一人で自作装置を使って世界を渡ったと聞くと、改めてとんでもないことをした人だと思う。
◇
そこから、さらに一時間四十分かかった。
受信したデータは、現代の一般的な音声ファイルではなかった。
そもそもファイルという概念に近いのかも怪しいらしい。
振動情報。
時間情報。
音圧らしき変化。
それらが古い境界規格で記録されている。
地球側がデータ構造を解析し、アステリア側が魔導的な干渉がないことを調べる。
途中で一度夕食休憩が入った。
「今日も食べるんだ」
俺が言うと、ミーナが当然のように弁当を置いた。
「今日も、ではなく毎日です」
「はい」
「蓮様も召し上がってください」
「はい」
最近、反抗する理由がなくなってきた。
冬木さんも一度通信を切り、ご家族と食事を取ってもらう。
その間も解析担当は交代する。
一人に全部背負わせない。
もう、それが特別なことではなくなっていた。
二十一時前。
ようやくノアが言った。
「安全確認終わった」
水城さんも地球側の結果を見る。
「こちらも同じです。単純な音声記録と判断して問題ありません。ただし一部破損があります」
「どれくらい?」
「全体の約十三パーセントです。聞き取れない部分が複数あると思います」
「長さは?」
「六分四十二秒」
六分四十二秒。
三十一年待った声としては。
短い。
でも。
たぶん、十分長い。
冬木さんを再び通信へ呼ぶ。
解析結果を説明する。
『聞けるのね』
「はい」
『本人の声かどうかは?』
「冬木さんに聞いてもらわないと、俺たちには判別できません」
『そうね』
冬木さんは少し笑った。
そして。
『聞きます』
迷わなかった。
「最初から流します」
再生ボタンを押すのは、水城さんだった。
誰か一人の個人的な判断ではなく、安全確認を終えた手順の最後として。
音が出る。
最初は雑音。
低い。
ざらざらした音。
数秒。
何も聞こえない。
そして。
『……入ってるかな』
若い男の声。
冬木さんの肩が震えた。
『こういう時に録音確認できないの、不便だな。まあ、いいか』
少し笑う声。
画面の向こうで、冬木さんが口元を押さえた。
「本人ですか?」
俺が小さく尋ねる。
冬木さんは声を出せず。
ただ。
頷いた。
榊原直哉。
三十一年前に地球から消えた男の声だった。
◇
『先生へ』
録音の中の榊原さんは、最初にそう言った。
『これが届く時、俺が先に帰ってたら笑って捨ててください。たぶん俺も一緒に笑います。もし帰ってなかったら……まあ、怒ってるでしょうね』
冬木さんが涙を拭いながら呟く。
『怒ってるわよ』
録音は当然返事をしない。
『先に謝ります。黙っていなくなって、すみませんでした。ただ、言ったら先生は止めたと思うし、たぶん止める方が正しかったので、言いませんでした』
『当たり前でしょう』
また冬木さんが答える。
少しだけ。
会議室に笑いが生まれた。
『俺は今、あの子が教えてくれた三つ目の接続先にいます。ここにも人がいました。普通に暮らしてます。少なくとも俺を捕まえて解剖するような人たちではありませんでした。逆に飯を食わされて、寝ろと言われています』
俺は無意識にミーナを見る。
ミーナもこちらを見ていた。
「どこの世界でも同じだな」
「大切なことです」
小声で返された。
録音の中でも、榊原さんは少し笑っていた。
『向こうの人と話すのには時間が掛かりました。でも、あの子が昔作った記号を知ってる人がいた。全部じゃないけど、通じます。先生と作ったやつです。三十年後まで残ってるかもしれないから、馬鹿にできませんね』
冬木さんの古いノート。
光と石から始まった言葉。
それが今。
世界を三つ繋いでいる。
『ここから地球へ直接戻れると思ってました。でも、それは無理みたいです。地球の接続先は見える。ただ、受け口がない。俺が来た道は、こっちから見ると片道なんです』
ノアが顔を上げる。
俺も同じだった。
これで少し分かった。
榊原さんが第三世界から地球へ帰れなかった理由。
逃げたわけでも。
残ることを選んだわけでも。
少なくとも録音した時点では。
帰りたくても、帰れなかった。
『だから、別の帰り道を探します。ここの人たちが、古い中継地点を教えてくれました。三環樹紋の門は、二つの世界を真っ直ぐ繋ぐものだけじゃない。いくつかの接続先を乗り換えるための設備でもあるみたいです』
セレフィナがすぐメモを取る。
ノアは声を出さない。
今は解析ではなく、最後まで聞くつもりらしい。
『心配しないでください、と言っても無理でしょうけど。無茶はしません。少なくとも、前より慎重になりました』
「信用できない」
冬木さんが即座に言った。
俺も少しそう思う。
録音は続く。
『それと、先生。ここまで来て、変なものを見つけました』
雑音が入る。
数秒。
音が途切れる。
戻る。
『……俺たちが最初じゃない』
部屋の空気が変わった。
『地球と向こうが繋がったのは、俺たちの研究が最初じゃありません。ゲーム会社も最初じゃない。俺も最初じゃない』
俺は第54話で聞いた録音を思い出す。
あの子が待っていたのは、榊原直哉ではなかった。
地球から来る誰かを待っていた。
『こっちの古い施設に記録が残ってます。地球から来た人間がいた。少なくとも一人。俺より前です』
水城さんの表情が硬くなる。
地球側の研究者たちも動かない。
『最初は別の世界の人間だと思いました。でも違う』
雑音。
少し。
そして。
『日本語が残ってる』
俺は思わず息を止めた。
アステリア側の古代遺跡に日本語があった。
それは榊原直哉が残したものだった。
でも。
第三世界にも。
榊原より前の。
日本語。
『文字はかなり古い。でも読める。誰かが地球からここまで来た。いつかはまだ分かりません。こっちの暦と地球の暦を合わせられないので、年代も出せない。ただ――』
音が大きく乱れた。
そこから十秒ほど。
完全に聞き取れない。
復元できなかった十三パーセントの一部だ。
ようやく声が戻る。
『――だから、これを確認してから帰ります』
冬木さんが小さく、
『馬鹿』
と言った。
優しい声だった。
『先生。もし俺が帰れなかったら、これだけは覚えておいてください』
少し間がある。
録音の中の榊原さんが。
息を吸う。
『向こうは、どこも世界です』
『研究対象じゃない。ゲームでもない。地図の先でもない』
『人がいて、生活してる場所です』
俺は何も言わずに聞いた。
十五年間。
俺はゲームだと思っていた。
建物を建て。
道を引き。
戦争イベントへ対応し。
国を大きくした。
全部。
向こうでは。
人生だった。
『だから、もし次に誰かが門を見つけても』
声。
『開ける前に、向こうへ聞いてください』
『入っていいかって』
リゼルが、俺の隣で静かに目を伏せた。
セレフィナも。
ノアも。
ミーナも。
誰も言わない。
でも。
俺たちは。
それをもう。
やっていた。
第三世界の門を見つけても。
勝手に開かなかった。
通信だけをして。
相手を知ろうとして。
今日も。
声だけを受け取った。
『最後』
榊原さんの声が少し明るくなる。
『先生。帰ったら怒られるのは分かってます。でも、その前に一回だけ褒めてください』
冬木さんが泣きながら笑った。
『嫌よ』
『たぶん、俺、結構すごいところまで来ました』
『自分で言うんじゃないの』
『じゃあ、帰ります』
雑音。
『また――』
そこで。
録音は途切れた。
六分四十二秒。
最後の言葉は。
最後まで残っていなかった。
◇
誰もすぐには話さなかった。
画面の向こうで冬木さんが顔を伏せている。
泣いている。
でも。
さっきまでとは少し違って見えた。
三十一年間。
どこで何をしていたのか分からなかった教え子。
少なくとも。
消えた後も生きていた。
人と会い。
飯を食べさせられ。
帰ろうとしていた。
その声が。
今。
届いた。
「冬木さん」
俺は迷ってから聞いた。
「大丈夫ですか?」
『大丈夫じゃないわね』
素直な答えだった。
『三十一年分、泣いてるところ』
「じゃあ今日は、ここまでにしましょう」
『ええ』
少し間。
『でも』
「はい」
『褒めるのは、帰ってきてからにします』
顔を上げる。
目は赤い。
それでも。
ちゃんと笑っていた。
『本人の前で言わないと意味がないでしょう』
「そうですね」
生きているとは。
まだ言えない。
どこにいるのかも分からない。
希望だけを事実にはしない。
それでも。
探す理由は。
昨日より一つ増えた。
◇
冬木さんとの通信を終えたあと。
本来なら。
今日の作業も終了するはずだった。
実際、セレフィナは既に会議を閉じる準備を始めていたし、ミーナも俺へ、
「蓮様、今日はもうお戻りください」
と言いかけていた。
けれど。
「待って」
ノアが録音データを見たまま言った。
「どうした?」
「最後じゃない」
「何が?」
「データ」
ノアが画面を拡大する。
受信した記録は六分四十二秒の音声。
俺たちはそう思っていた。
でも。
「音声の後ろに、別の領域がある」
「壊れた部分?」
「違う。別記録」
水城さんたち地球側も確認する。
確かに。
榊原直哉の音声が終了した後。
ごく小さな別データが付属している。
「音声?」
「たぶん」
「榊原さんの?」
「分からない」
安全確認そのものは同時に済んでいる。
ただ。
さっきの記録とは形式が違ったため、自動的に別のものとして分離されていたらしい。
長さ。
十一秒。
「今日はやめる?」
俺が聞いた。
誰も即答しない。
短いから聞く。
そんな理由では決めない。
水城さんが安全性を再確認し、セレフィナが記録の扱いを確認する。
ノアも解析値を見る。
最後に。
「危険なし」
と言った。
「冬木さん呼び戻す?」
リゼルが尋ねる。
俺は少し考えた。
榊原さんの私的な伝言なら。
本人に聞いてもらうべきだ。
けれど。
ノアが首を横に振った。
「たぶん榊原じゃない」
「何で?」
「声紋違う」
そこで。
全員が。
もう一度画面を見る。
「男性? 女性?」
「男性」
「言語は?」
ノアが。
少しだけ。
困った顔をした。
「日本語」
会議室が静かになった。
榊原直哉より前に。
第三世界へ来た可能性がある地球人。
その日本語の記録。
もしかして。
「再生します」
水城さんが言う。
今度は。
十一秒。
最初に激しい雑音が入った。
続いて。
男の声。
榊原直哉ではない。
もっと低い。
年齢も分からない。
ただ。
確かに。
日本語だった。
『――これを聞いている人へ』
全員が動きを止める。
『地球へ帰るなら』
雑音。
『三つ目の門は使うな』
そして。
最後。
『帰る先が、同じ地球とは限らない』
音声は。
そこで切れた。




